私の婚約者を奪った義妹は、幸せになるはずでした

しおしお

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16 他国で芽吹く信頼

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16 他国で芽吹く信頼

 カトリーヌの手紙がもたらした重苦しさは、その後もしばらくランベール侯爵家の中に澱のように沈んでいた。

 義母は日に何度も落ち着きを失い、父は父で「軽々しく動くな」と言いながら、執事へロシュフォール家周辺の様子を探らせている気配があった。レナールも表向きは平静を装っていたが、食事の席でふと箸を止めることが増えた。

 誰もはっきりとは言わない。

 だが、この家の誰もがようやく理解し始めていた。

 カトリーヌは、望み通りの結婚をしたのではない。

 自分で選んだ檻に入ったのだと。

 もっとも、その理解がすぐに救いにつながるわけではない。むしろ理解してしまったからこそ、何もできない現実の重さが際立つ。

 フィオレッタはそうした空気を感じながらも、同時に、自分の出立が近づいていることを日ごとに実感していた。

 アルディシア公国からの使者は増えこそしないが、届く書簡はますます具体的になっている。

 どの街道を通るか。

 国境を越える前に一泊する宿の設備。

 同行する騎士の人数。

 天候が崩れた場合の予備日程。

 それらは、もはや婚約者への配慮というより、本当に一人の公爵夫人候補を迎えるための段取りだった。

 そしてその細やかさは、フィオレッタの心に少しずつ別の感情を芽吹かせていた。

 安心、と呼ぶにはまだ慎重すぎる。

 期待、と呼ぶにはまだ怖い。

 だが確かに、他国へ行くことそれ自体が、ただの罰のようには思えなくなってきていた。

 その日、アルディシア公国から届いたのは、これまでより少し厚みのある封書だった。

 開くと、中にはいつもの簡潔な手紙と、もう一枚、別紙が入っている。

 手紙の差出人はフェリクス。

 別紙には、公国の領内図と、いくつかの注釈が丁寧に書き込まれていた。

 フィオレッタは机の上へそれを広げる。

 アルディシア公国の中心地。

 フェリクスが本拠とする公爵邸。

 政庁の位置。

 主要な葡萄畑。

 祭礼が開かれる広場。

 そして、城壁の外れにある小さな湖まで。

 地図の端には、フェリクスの文字で短く書き添えられていた。

 ――いずれご案内する場所を、先に印しておきました。
 ――全部を覚える必要はありません。
 ――ただ、どこに何があるのかを知っているだけで、人は少し落ち着けるものです。

 フィオレッタは、その三行をしばらく見つめた。

 どこに何があるのかを知っているだけで、人は少し落ち着ける。

 まるで、彼女自身の胸の内をそのまま言い当てるような言葉だった。

 エマが茶を運んできて、地図を覗き込む。

「まあ……細かく印をつけてくださったのですね」

「ええ」

 フィオレッタは小さくうなずいた。

「しかも、役所や公式の建物だけではないの。湖とか、葡萄棚とか……人がそこで息をつく場所まで入っている」

 エマは少し目を細めた。

「閣下ご自身が、お嬢様に実際に見せたいと思っておられるのですね」

 その言い方に、フィオレッタは少しだけ頬が熱くなるのを感じた。

 見せたいと思っている。

 案内したいと思っている。

 迎える前から、そういう未来を前提に言葉を重ねてくる人。

 それがどうにもまだ不思議だった。

「お嬢様」

 エマが、やわらかな声で言う。

「最近、アルディシアの話をなさる時のお顔が変わりました」

「変わった?」

「はい。前は“行かなければならない場所”のお顔でした。今は少しだけ、“行ってみたい場所”のお顔です」

 フィオレッタは思わず笑った。

「あなた、本当に人の顔をよく見ているわね」

「長くお仕えしておりますもの」

 エマは当然のように答える。

 その通りだった。

 フィオレッタは改めて地図へ目を落とす。

 行ってみたい。

 たしかに、少しだけそう思っている自分がいた。

 もちろん不安はある。異国で暮らすのだ。しかも始まりは、自分の望みだけで選んだ縁ではない。

 だが、そこへ行った先で何を得るかまでは、まだ誰にも決められていない。

 午後になって、フィオレッタは珍しく自分から父の書斎を訪ねた。

「お父様、お時間をいただけますか」

 父は書類から顔を上げ、少し意外そうにした。

「何だ」

「アルディシア公国へ持参する書物の件で、ご相談したいのです」

 父の眉がわずかに上がる。

「書物?」

「はい。先方では私が言語や土地勘に慣れるまで、しばらく外向きの予定を軽くしてくださるそうです。ですから、その間に必要な書を手元に置いておきたいと思いまして」

 父はしばし黙っていたが、やがて机上の書類を閉じた。

「具体的には」

 フィオレッタは用意してきた小さな紙束を差し出す。

 語学関連の覚え書き。

 薬草と食材の比較表。

 社交儀礼の変遷をまとめた本。

 それに加え、母の形見でもある詩集と、昔から読み返している歴史書が二冊。

 父はその一覧を見ながら言った。

「ずいぶん細かいな」

「向こうで全部を一度に学ぶのは無理ですもの。持って行けるものは、先に整理しておきたいのです」

 その言葉に、父は珍しくすぐには返さなかった。

 しばらくしてから、少しだけ低い声で言う。

「……お前は、本当に向こうへ行くのだな」

 フィオレッタは父を見る。

 何を今さら、と思う反面、その言葉の意味もわからなくはなかった。

 家の都合で決められた婚約。

 差し替えられた未来。

 それを受け入れていたはずの娘が、今こうして具体的に、自分の意思で出立の準備を進めている。

 それは父にとって、少し予想外だったのかもしれない。

「ええ」

 フィオレッタは静かに答えた。

「行きます」

「……そうか」

 父は紙束を返した。

「必要なものは持たせよう。執事に言っておく」

「ありがとうございます」

 父はそこで少し迷うように口を開いた。

「アルディシア公爵は……お前を、丁重に扱っているようだな」

 その表現に、フィオレッタは心の中で少しだけ苦く笑った。

 丁重。

 たしかに外から見ればそうなのだろう。

 だが実際には、それは“丁重”というより、最初から対等な相手として扱われていることの結果だ。

「ええ」

 それでも、そう答える。

「少なくとも、雑には扱われておりません」

 父の表情に、かすかな苦味が差した。

 何を思ったのかはわからない。

 自分たちが娘を雑に扱ったと認める人ではない。だが、そう聞こえてしまったことくらいは気づいただろう。

 書斎を出ると、廊下の向こうからレナールが歩いてきた。

「お姉様」

「どうしたの」

「ちょうどお探ししておりました」

 弟は少し照れくさそうに手に持っていた包みを差し出した。

「これを」

「何?」

「旅の途中で読めるように、と」

 包みを開くと、中には薄い革装の小さな手帳が入っていた。紙質がよく、持ち運びしやすいよう作られている。

「レナール」

「道中で気づいたことや、向こうで覚えたいことを書き留めるのに使えるかと思いまして」

 フィオレッタは思わず手帳を撫でた。

 弟らしい贈り物だった。華やかさはないが、実用的で、しかもちゃんと相手を思って選んでいる。

「ありがとう」

「お姉様なら、どうせすぐ使いこなされるのでしょうけれど」

 少し照れたようにそう言うので、フィオレッタは笑う。

「そうでもないわ。こういうものは、誰かがくれたからこそ大事に使うの」

 レナールはほっとしたように息をついた。

 その後、二人で少しだけ庭を歩いた。

 初夏の匂いが濃くなり、薔薇の花もいよいよ盛りを迎え始めている。幼い頃はよくこの庭で本を読んだ。母が生きていた頃のことは、もう細部までは思い出せないのに、庭の風景だけは不思議と変わらず胸に残っている。

「お姉様は」

 歩きながら、レナールが言った。

「アルディシアへ行くのが、少し楽しみになっておられますか」

 フィオレッタは少しだけ考えた。

「……少しだけ、ね」

 正直にそう答える。

 レナールは目を細めた。

「それなら良かった」

「良かった?」

「ええ。お姉様がずっと、“仕方がないから行く”という顔のままだったら、見ているほうがつらいですから」

 その言葉に、フィオレッタはふっと息をついた。

「あなたは、本当に優しいわね」

「違います」

 レナールは首を振る。

「私はただ、お姉様が向こうでちゃんと息をつける場所を持てるなら、それが一番だと思っているだけです」

 息をつける場所。

 その言葉が胸に残る。

 フェリクスの書簡も、レオノーラの言葉も、何度も同じことを示していたのかもしれない。アルディシア公国は、少なくともフィオレッタに“息をつける余地”を与えようとしている。

 それは侯爵家では当たり前ではなかった。

 夕方、自室へ戻ると、また一通、フェリクスから短い便りが届いていた。

 ――今日は領内の古い葡萄棚を見てきました。
 ――今年は手入れがうまくいっているそうです。
 ――あなたが来る頃には、日陰の風が気持ちよいはずです。歩くのに向いています。

 フィオレッタはその文を読んで、自然に口元がやわらぐのを感じた。

 日陰の風が気持ちよい。

 歩くのに向いている。

 それは何でもない情景描写だ。

 でも、その何でもない風景の中に、自分がすでに少しだけ含まれていることがわかる。

 あなたが来る頃には。

 その未来を、彼は当たり前のように書く。

 しかもそれは、誰かを閉じ込めるための未来ではない。隣に並んで歩くことを前提にした未来だ。

 フィオレッタは椅子に腰かけ、しばらくその手紙を眺めていた。

 他国で芽吹く信頼。

 そんな大げさな言葉にするには、まだ早いのかもしれない。

 けれど少なくとも、恐怖だけだった未来の中に、今は少しずつ別の色が混じり始めている。

 それは、義妹の結婚が檻になっていく気配と、あまりにも鮮やかな対照をなしていた。
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