私の婚約者を奪った義妹は、幸せになるはずでした

しおしお

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32 もう誰も呼ばない名前

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32 もう誰も呼ばない名前

 カトリーヌが死んだのは、雨の止んだ朝だった。

 夜のあいだ降り続いていた水気がまだ石畳に残り、宿の中庭には薄い灰色の光がにじんでいた。夏の終わりの空気は重くもなく軽くもなく、何かが終わるにはひどくあっけない朝だった。

 宿の女将が異変に気づいたのは、いつもなら少しは動くはずの部屋が、朝になってもひっそりしたままだったからだ。

「薬、飲みな」

 ぶっきらぼうに声をかけても返事がない。

 扉を叩いても、やはり何も返らない。

 仕方なく合鍵で開けた時、部屋の中には夜の名残のような薄暗さが残っていた。

 寝台の上で、カトリーヌは横向きのまま動かなかった。

 片手は胸元のシーツを少しだけ握り、もう片方は寝台の縁から力なく垂れている。呼吸の気配はない。顔色は熱に浮かされていた昨夜とは違い、妙に静かで、痩せた頬だけがいっそうくっきりして見えた。

 女将はしばらく立ち尽くしていた。

 若い女が一人で病んでいるのは見ていた。けれど本当に死ぬとは、どこかで思っていなかったのかもしれない。

「……あんた」

 小さくそう呟いた声だけが、狭い部屋に落ちた。

 すぐに医者が呼ばれた。

 王都の端で細々と診るあの年配医師だ。寝台の脇に腰を下ろし、手首に触れ、まぶたを確かめ、短く息を吐く。

「夜のうちだな」

 それだけ言った。

 宿の女将は腕を組んだまま、落ち着かない顔で聞く。

「苦しんだのかい」

 医師は少しだけ黙ってから答えた。

「たぶん、長くはなかった」

 それが慰めになるのかはわからない。

 けれど、宿の女将もそれ以上は聞かなかった。

 死はあまりにも静かだった。

 誰を呼ぶ声もなく、誰かに手を握られることもなく、ただ熱に削られた身体が限界までいって、そこで止まっただけ。

 最後に何を思ったのか、誰にもわからない。

 枕元の小机には、水差しと飲み残しの薬、それに皺の寄った便箋が一枚だけ置かれていた。書きかけたようにも見えたが、文字にはなっていなかった。ただ、最初の一行にだけ、震えた筆跡でこう記されていた。

 ――お姉様

 そこから先は、白紙だった。

 報せがランベール侯爵家へ届いたのは、その日の午後だった。

 もう王都では半ば忘れられかけていた若い未亡人の死を、侯爵家はどう受け取るのか。そんな好奇の目が、表には出ないまま方々に広がっていた。

 父は書斎でその報を受け取り、しばらく何も言えなかった。

 義母は、一度は声を上げて泣こうとしたが、途中でひどく不自然な沈黙に変わった。声が出なくなってしまったのだ。涙だけが落ちるのに、喉がもう泣き方を忘れたようだった。

 レナールは顔を伏せたまま、長いこと立ち上がれなかった。

 フィオレッタは、その場で静かに目を閉じた。

 来るかもしれないと思っていた。

 思っていたのに、実際に“死んだ”と聞くと、胸の奥に落ちるものの重さは違った。

 可哀想だと思う。

 哀れだとも思う。

 でもその一方で、これはどこかで見えていた結末でもある。

 誰にも抱き留められず、どこにも戻れず、自分の犯したことと受けたことの両方に押し潰されて、一人で病んでいく。

 その道筋は、あまりにも残酷で、あまりにも途中から修正がきかなかった。

「遺体は……」

 義母がやっとのことで口にした。

 父が低く答える。

「仮安置されている。身元確認と引き取りの判断を求められている」

 その一言に、部屋の空気がまた張る。

 引き取るのか。

 引き取らないのか。

 死んでもなお、家は答えを迫られる。

 義母はすがるように夫を見た。

「今度こそ……今度こそ、あの子を」

「引き取る」

 父は遮るように言った。

 義母の目が大きく開く。

 父の顔は険しかった。だがその険しさは、家の論理を並べる時のものとは少し違っていた。

「生きている者を戻せぬ理由は多い。だが、死んだ娘を他人の手へ渡したままにはできん」

 その言葉は、弱さなのか、最後の情なのか、フィオレッタにもすぐにはわからなかった。

 ただ、父がようやく“家の論理”の向こう側にあるものを一つだけ選んだのだということはわかった。

 義母はそれを聞いた瞬間、とうとう声をあげて泣いた。

 遅かった。

 あまりにも遅かった。

 でも、もうそれを責める気力も誰にもなかった。

 カトリーヌの亡骸が侯爵家へ戻されたのは、その翌日だった。

 棺は簡素だった。

 ロシュフォール公爵家の若き未亡人として華やかに送られることもなく、かといって露骨に粗末にもされない。その中途半端さが、かえって彼女の立場そのもののようだった。

 礼拝堂での短い祈りには、身内とごく限られた者しか立ち会わなかった。

 社交界の夫人たちは、哀れみの言葉とともに花を送った。けれどその多くは、もう生きていた頃の彼女ではなく、“ひとつの教訓になった若い女”として花を送っているように見えた。

 義母は棺の前で、長いこと顔を上げられなかった。

「ごめんなさい」

 何度もそう呟いていた。

「守れなくて、ごめんなさい」

 その声を聞きながら、フィオレッタは自分の胸の内を確かめていた。

 涙は出なかった。

 だからといって悲しくないわけでもない。

 ただ、悲しみよりも先に、あまりにも多くの感情が絡まりすぎていたのだ。

 怒りもあった。

 哀れみもあった。

 そして何より、もうこれ以上この物語は続かないのだという、ひどく静かな終わりの感覚があった。

 棺の中のカトリーヌの顔は、ようやく苦しみから離れたように見えた。

 痩せてはいたが、死んで初めて誰の目も恐れていない顔だった。

 それが、皮肉なくらい穏やかで。

 フィオレッタはその顔を見て、ようやく心の中で小さく呟いた。

 終わったのね、と。

 ロシュフォール公爵の追及は、その後も続いた。

 義娘へ関係を迫ったこと、嫡男の死後にその未亡人を家のための道具にしようとしたこと、拘束の件を道連れにする形で公にしたこと。いずれも致命的だった。

 すぐに爵位が消えるようなことはない。大貴族の家は、そう簡単には崩れない。だが信用は確実に失われ、親族たちは離れ、社交界での発言力もじわじわと削られていった。

 ロシュフォール家は終わらない。

 だが、かつてのままではいられない。

 そしてその崩れの中心にいた若い女は、もういない。

 すべてが終わったあと、フィオレッタは一人で庭へ出た。

 初秋の気配が、ほんの少しだけ風に混じっている。夏の濃さが去り、薔薇の盛りも過ぎて、葉の色がわずかに落ち着いて見えた。

 あの子は結局、誰にも抱き留められなかった。

 実家にも。

 婚家にも。

 姉にも。

 それを思うと胸が痛んだ。

 だが同時に、フィオレッタははっきりと理解していた。

 それは誰か一人のせいではない。

 もちろん、始まりを作ったのはカトリーヌ自身だ。

 自分が欲しいと望み、奪い、見えないものを見ようとしなかった。

 けれど、その欲望を通してしまった母がいた。

 家のためと整えた父がいた。

 そして、そういうことが平然と通る貴族社会そのものがあった。

 だからこれは、一人の愚かな娘の転落であると同時に、家と家の論理が一人の女を使い潰した話でもあるのだろう。

「お嬢様」

 振り返ると、エマが少し離れた場所で頭を下げていた。

「お時間をお取りいたしました。アルディシア公爵閣下より、お手紙が届いております」

「ありがとう」

 フィオレッタはそれを受け取った。

 封を切る。

 フェリクスの筆跡が、変わらず静かに並んでいる。

 ――こちらの葡萄は、もうすぐ収穫の時期です。
 ――今年は風が穏やかで、甘みがよく乗ったと聞いています。
 ――あなたが落ち着いたら、一緒に見に行きましょう。

 それだけの文だった。

 なのに、フィオレッタの胸の奥で、何かが静かにほどけた。

 一緒に見に行きましょう。

 その未来には、檻も、鍵も、誰かの犠牲の上に立つ幸福もない。

 少なくともいまのところ、そこにあるのは、並んで何かを見に行くという、ごく当たり前の約束だけだ。

 幸福のかたちは、たぶんそういうものなのかもしれない、とフィオレッタは思った。

 誰かを押しのけて奪うものでも、閉じ込めて独り占めするものでもない。

 ただ、並んで歩けること。

 息をつけること。

 その静かな積み重ねの中にしか、本当の幸福は育たないのかもしれない。

 フィオレッタは手紙を胸元でそっと閉じた。

 カトリーヌはもういない。

 もう誰も、あの名を甘く呼ぶことはないだろう。

 けれどその死が無意味だったとは思いたくなかった。

 あの子の愚かさも、哀れさも、そして最後の孤独も、すべてを見た上で、フィオレッタは自分の明日を選ぶしかない。

 風が吹き、庭の木々がさやさやと鳴った。

 もう、振り返らなくていいのだろう。

 そう思った時、胸の奥に長く残っていた重みが、ようやく少しだけ前へ流れていく気がした。
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