契約だけのはずが、溺愛でした ――白い結婚から始まる逆転ざまぁ恋物語

しおしお

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第1編 契約の口づけ

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 王城の大広間。

 幾重にも重ねた絹のドレスの裾を踏まぬよう注意しながら、公爵令嬢ルシア=レイオットは人々のうねりの中に立っていた。天井を埋め尽くす水晶のシャンデリアが、溶けかけの金色の雪のように光を降らせる。今日は王太子の戴冠一周年を祝う盛大な舞踏晩餐会。列席を許されるのは、貴族社会の〈選ばれし百家〉のみ――本来なら名誉きわまる場だった。

 だがルシアの胸は重く沈んでいた。没落しかけの実家を再興する望みとして、幼い頃から約束されていた婚約。その相手、騎士団副団長ディラン=アルバーグが、ここ数か月彼女を公に避け続けている。それだけで十分胸を痛めていたというのに、今日はなぜか「夜半の余興」があると聞かされている。嫌な予感は、先ほどから鈍い頭痛となってこめかみを叩いていた。

 ──舞曲が終わり、乾いた拍手が天井を揺らす。司会役の侍従が一歩前に出た。

「諸侯閣下、貴婦人方。本日は王太子殿下の栄えある記念日に際し、若き騎士よりご報告がございます」

 ざわめきが走り、視線が一点に集まる。銀糸の礼服に身を包んだディランが、悠然と壇上へ。整った顔に浮かぶのは、恋慕とは程遠い硬質の笑み。

 「ルシア=レイオット嬢」

 突然名を呼ばれた。胸が小さく跳ね、周囲の視線が今度はルシアに突き刺さる。

 「貴女と私の婚約――本日、この場にて破棄させていただく」

 息が止まった。

 氷の塊が喉に詰まる。ルシアは何かを言おうと唇を震わせるが、声帯が凍りついたように動かない。

 「理由は単純だ。私は王太子騎士としてより高き責務を負う身。没落寸前の公爵家に未来を託すわけにはいかない。ルシア嬢を蔑む意図はないが、家柄の現状は周知の事実だ」

 会場の至る所で、扇子の陰に隠された嘲笑が花ひらく。

 「したがって、正式な証人を前に、今ここで婚約を解消する。諸侯もご確認いただきたい」

 侍従が差し出した証書にディランが羽ペンを走らせる。朱の封蝋が鮮血のように照明を弾いた。

 ――こんなかたちで? 父も母も、ここにはいないのに?

 屈辱と悔しさで視界が滲む。けれど泣くのはもっと惨めだと、ルシアは背筋を伸ばした。踵の高い靴が床を鳴らし、壇へ歩み寄る。

「……承知いたしました」

 震えぬ声を搾り出す。その小さな一言に、微かなざわめきと哄笑が混じった。

 ディランが「賢明なご判断だ」と無慈悲な勝利者の微笑を浮かべた瞬間――

 「待たれよ」

 低く響く男声が大広間の空気を切り裂いた。場が静まり返り、人々の視線が声の主へと流れる。壁際で沈黙を保っていた黒髪の青年が、ゆっくりと壇に近づいた。燃ゆるような紫紺の瞳、洗練を極めた立ち居振る舞い。侯爵ノア=ヴァンフィールド。その名がさざ波のように囁かれる。

 「この一件、王家侍従長の監査印が欠けている。手続きは無効と聞き及ぶが?」

 静かな問いかけ。だが指摘の鋭さにディランが一瞬言葉を失う。ノアは視線を逸らさず、ゆるやかにルシアへ手を差し出した。その瞳は、不思議なほど温かい。

 「令嬢、あなたが屈辱に伏す理由はない。──少なくとも、私の目には」

 心臓が跳ねた。救いの手か、それとも新たな取引の始まりか。答えを知る余裕もなく、会場には再びざわめきが渦を巻く。

 ルシアは深く息を吸い、濡れた睫毛をそっと上げた。──まだ、終わっていない。むしろここからが幕開けなのだ。

 宵の宴は、今まさに色を変えようとしている。



   戴冠一周年舞踏会の混乱は、侍従長の機転でどうにか収拾した。
 王太子からの謝辞と形だけの乾杯が行われるあいだ、ルシアは周囲の好奇と侮蔑を同時に浴び、もはや息苦しさすら感じていた。

 ──早く帰りたい。
 そう思った矢先、背後からそっと名前を呼ぶ低音が落ちた。

「ルシア=レイオット嬢。少しだけ、お時間をいただけますか」

 振り返れば、淡い紫紺の瞳をした侯爵ノア=ヴァンフィールド。先ほど助け舟を出した当人だ。礼を述べるよりも先に、彼は「落ち着ける場所で話そう」とだけ告げ、壁際の扉へとエスコートした。

    ◇◆◇

 案内されたのは、王城の貴賓用サロン。豪奢なはずの室内に妙な静寂が漂うのは、外の喧騒に比してあまりに別世界だったからだろう。
 テーブルの上に湯気の立つカップが二つ置かれる。侍女も下がり、扉が遠慮深く閉じられた瞬間、ノアは本題を切り出した。

「今夜の一件……無礼を受けながら、毅然と立ったあなたの胆力に感服しました。──そこで提案があります」

「提案?」

 爪先ほどの声しか出せない。だがノアは淡々と続きを紡いだ。

「私は領地改革を急いでおり、王家内の旧派閥に睨まれています。そこで“淑女らしく派手すぎない妻”という盾が必要になった。利害の一致さえあれば、あなたと私の関係は――」

 言葉を区切り、ノアは指を組む。まるで法廷で宣誓する弁護士のように整った所作だった。

「世間で“白い結婚”と呼ばれる形を取りましょう。互いの家を守り、干渉は最低限。子をつくらぬ前提で、契約期間は一年。夜会や公式行事には揃って出席しますが、それ以外は自由。どうでしょう」

 ルシアは思わず息を呑む。
 白い結婚――形だけの夫婦。寝室も別、愛情の拘束もなし。ただし、外からは円満夫婦として振る舞う契約同盟。 aristocracy の世界では、片方に致命的な病や秘密の愛人がいる場合に稀に用いられた異端の制度だ。

「……わたくしに、拒否権は?」
「もちろん。だが、ご実家の財政は逼迫していると聞く。私の後ろ盾を得れば、最低限の資金援助と交易利権を約束できます」

 心臓が早鐘を打った。没落寸前の家を救う方法としては魅力的すぎる提案。けれど同時に、あまりにも都合が良すぎて裏がないか勘ぐってしまう。

「侯爵閣下。わたくしは……お飾りかつ盾の妻、ということでしょうか」

 ノアは否定も肯定もせず、真っすぐに彼女を見た。その眼差しは奇妙に透明だった。
 剣のように冷徹とも、かすかな慈愛を含むとも取れる視線――受け取り方で意味が変わる危うい煌めき。

「正確には“対等な商取引の相手”です。あなたは私に安定した妻の立場を提供し、私はあなたに時間と資金を提供する。恋愛感情など、最初から勘定に入れない。それが白い結婚の利点でしょう」

 さざ波のように言葉が耳朶を撫でる。
 感情を度外視した合理——けれどディランに踏みにじられたプライドを癒やす薬でもあった。

「わたくしの自由は、どこまで保証されますか?」

「夜会と式典で私の傍に立つこと。それ以外の行動を私は制限しません。趣味でも慈善でも領地運営でも。──ただし、世間体を保つために公の場では夫婦らしく振る舞っていただきます」

 ルシアは瞠目した。〈自由〉——それこそが彼女が今もっとも欲しているものだ。
 誰かに飼われるのではなく、守られながらも自分の翼を畳まない選択肢。

「この場で即答せよとは言いません。夜明けまでに結論をください。正式な証書を用意し、王家の侍従長の監査のもと契約書に署名する」

 淡々とした口調の裏に、わずかな熱を感じたのは気のせいだろうか。
 いや、錯覚だ。彼の瞳は初対面から変わらず鏡のように静かだ。

 カップを口に運ぶ。香ばしいハーブの香りが張り詰めた神経をほんの少しほぐした。が、次の瞬間、

「一つ、条件を付けても?」

「聞きましょう」

「わたくしが望むなら——一年以内でも、契約を解除する自由をいただきたい」

 ノアの眉が僅かに上がる。「ほう」と興味深げに呟き、すぐ頷いた。

「拒む理由はありません。ただし、その際は公に“円満離縁”という形式を取ってもらう。それで構わないなら」

「……承知いたしました」

 自分でも気づかぬうちに敬語が滑らかになっていた。交渉の席で交わす言葉は、失った誇りをゆっくりと取り戻させてくれる。

「では、夜明け前にまたお会いしましょう。貴女の返答をお待ちしています、レイオット嬢」

 ノアが椅子を引き、淑女への作法通りに立ち上がる。黒い手袋のまま差し出された手のひらは、決して強制せず、けれど確かな庇護を示すよう穏やかだった。
 ルシアは深く息を吸い、その手を取る。肌の温もり越しに、自分の運命がわずかに軌道を変え始めた手応えを感じた。

 ──これは取引。情に溺れぬ安全な港。

 そう唱えながらも、薄く震える胸の高鳴りを完全には抑えられなかった。

 王城の鐘が四つを告げ、夜の闇が蒼く薄らいでいく。

 ルシア=レイオットは、公爵家の控え室——と名ばかりの小さな待機室で、敷き詰められた緋色の絨毯をじっと見つめていた。傍らには、幼い頃から仕えてくれている老執事ハワード。しわがれた声で「温かい茶を」と差し出したカップを、彼女はそっと受け取る。

 「お嬢様……本当に“白い結婚”などという奇策を?」

 ハワードの眉間に浮かぶ深い皺が、言外に“不安”を物語る。だがルシアは首を横に振った。

 「奇策こそが、生き残りの道よ。放っておけば家名は失墜し、借財は雪だるま。父様の病状も——」

 言いかけたところで自分の声音が震えた。父は領地経営の失敗と持病の悪化で床に伏しがちだ。今日の晩餐会にも姿を見せられず、母も看病に付き添っている。

 せめて自分が盾となり、家を守らねば。ディランに踏みつけられた屈辱を思い出し、拳をぎゅっと握る。

 「でも条件は、こちらからも上乗せするわ」

 ハワードの白眉が上がる。「上乗せ……?」

 緩やかに茶をすすり、ルシアは夜会で受け取った名刺大のカードを指で弾いた。黒地に銀の箔で刻まれた三本線——ヴァンフィールド侯爵家の紋章だ。

 ——わたくしに時間と資金を提供する、と彼は言った。だが金だけでは足りない。

 「契約は一年。けれどその一年で、我が家の借財を圧縮し、領地の交易網を整える目処を立てたいわ。こちらが再起不能にならぬ保証を取らないと、対等な取引じゃないもの」

 「お嬢様……やはり“交渉人”のご気質はお父上譲りですな」

 ハワードが微笑み、老執事としてではなく一人の人間として忠告するように言う。

 「ですが、侯爵閣下は冷徹で有名なお方。情け容赦のない条件を飲ませる可能性も——」

 「だから、こちらも情けは掛けないの」

 ルシアは立ち上がり、鏡台に向かった。明け方の白光が差し込む窓辺で、ドレスの胸元をきゅっと整える。頬の赤みを抑えるためパウダーを薄く叩き、涙の跡さえ残さない。

 「交渉は、弱みを隠し切った者が勝つ。幼い頃父様から教わったわ」

 ハワードは静かに頭を下げると、懐から革張りの小さな帳簿を取り出した。「領地の最新収支、そして鉱山の埋蔵査定書でございます。先ほど急ぎ写しを作らせました」

 「ありがとう、ハワード。——この数値が私の武器になる」

    ◆◆◆

 約束の時刻、王城東翼の第二貴賓サロン。

 扉を開けると、薄紫の夜明けを背景にした侯爵ノア=ヴァンフィールドがいた。黒の燕尾に身を包み、卓上のランプだけを灯して文書を読んでいる。立ち上がった彼は、微かな眠気を押し殺すようにゆるく口角を上げた。

 「返答を、伺いましょう」

 「まずは書類を拝見しても?」

 ノアはうなずき、卓上に一枚の羊皮紙を滑らせた。縁は王家の紋章の透かし、中央に〈婚姻契約覚書〉と明朝体で記されている。下には条文——

 一 両名は婚姻を結び、期間を一年と定める。
 二 期間中、子を為さず、身体の接触は双方の同意により制限できる。
 三 公務・夜会・王宮儀礼においては夫婦として同行する。
 四 互いの私生活・領地経営には干渉しない。
 五 一年満了時、円満離縁を妨げない。

 シンプルな五条。ルシアは視線を滑らせ、羽ペンを取った。

 「素案としては申し分ありません。ただ——追記事項を」

 ペン先で六条目の余白を示しながら、落ち着いた声で告げる。

 「六条。ヴァンフィールド侯爵家は、レイオット公爵家の借財総額のうち三割を肩代わりし、残額について返済猶予を取り持つこと」

 ノアの眉がピクリと動く。

 「七条。レイオット領内ミロア鉱山の再開発に関わる技術顧問と初期投資を、ヴァンフィールド側が提供すること。収益の二割を侯爵家に分配。なお一年満了後も契約は維持」

 ノアは腕を組み、少しだけ重心を後ろに引いた。紫紺の双眸が、静かな水面のごとくルシアを映す。

 「随分と攻める。あなたは、救いを乞うのではなく“提携”を望むのだな」

 「乞うつもりなら、ここへ来ません。私の家は私が守る。あなたは“盾”とおっしゃったけれど、盾より剣の方が好き。斬り結べば互いの強度も分かるでしょう?」

 言い終え、ルシアはドキリとした。剣——ずいぶん挑発的に聞こえただろうか。だがノアは短く笑った。

 「面白い。それでこそ交渉する価値がある」

 彼は契約書を取り戻すと、用意していた羽ペンでさらさらと追記事項を書き足す。羊皮紙にインクが沈む匂い。

 「三割の肩代わりは良い。だが猶予期間は五年だ。利息は不要。ただし、鉱山収益の二割に加え、あなた自身が年に一度、私の領地視察を手伝うことを条件にしよう」

 「……領地視察?」

 「私は改革派だと言ったはず。現地での交易会議、慈善院の査察、新しい農法の実験——夫人としての意見をぜひ欲しい。あなたの洞察力と胆力なら、役立つと確信している」

 “夫人として”。その響きが胸の奥を微かに温めた。恋情ではない、しかし尊重と信頼を含んだ言い方。

 「わかりました。お引き受けします」

 ルシアが頷くと、ノアは印章箱を開け、蝋を溶かし始めた。深紅の蝋滴が羊皮紙の隅に落ち、侯爵家の三本線のエンブレムが押し付けられる。続いてルシアも、レイオット家の鷹翼の紋入り印章を押した。

 赤と青、二色の封蝋が並び、契約は成立。

 「これで互いに裏切る余地は無い」

 ノアが言い、ルシアは静かに息を吐いた。恐怖よりも、久々に感じる高揚が勝っている。自ら掴んだ綱を手繰り寄せた感触。

 「では侯爵閣下。あとは形式的な口づけを?」

 冗談めかして問いかけると、ノアは瞬きし、わずかに口角を吊り上げた。

 「契約に恋は含めないと先に言っただろう? ……もっとも、形式的であっても、私に拒む理由はない」

 淡い光の中、二人の影がテーブルに重なる。ノアは紳士の手つきで彼女の手袋越しの指先を掬い、掌にそっと唇を触れた。熱は布越しでも明確に伝わる。

 「誓おう。これは利害の一致。しかし私は、自分の“盾”を粗末には扱わない」

 指に落ちた吐息に、ルシアの鼓動が跳ねた。

 契約——それは冷たい言葉のはずなのに、体温を伴って胸奥で灯がともる。

 夜が完全に明ける頃、二人は羊皮紙を折りたたみ、互いに一礼した。

 ――こうして〈交渉の裏側〉は幕を閉じる。
 けれどそれは同時に、波乱へと続く第二幕の幕開けでもあった。

 春を遅らせた夜風が王都に甘い花の香を運び始めたころ、ルシア=レイオットはヴァンフィールド侯爵邸の正門前にいた。黒鉄の門扉には淡紫の蔦バラが絡み、月光を吸った花弁が星屑のように瞬いている。その奥――白亜の本館が静かに光を返し、まるでこれから迎え入れる“契約夫人”を値踏みするように佇んでいた。 

 「深呼吸を」
 隣に立つノア=ヴァンフィールドが低声で促した。夜会の余燼を宿した燕尾服姿。契約書へ署名してからわずか三刻しか経っていないというのに、この男は相変わらず隙のない優雅さをまとっている。 

 「緊張……して見えます?」
 「いいえ。獲物を狙う鷹と同じ目だ」
 「それは褒め言葉と受け取ってよろしいのかしら」
 ノアは口の端をわずかに持ち上げ、門衛に合図を送った。重厚な門扉がゆっくりと開き、螺旋階段の踊り場まで仄白い灯が連なる。 

 枢機卿立会いのもと王城内で交わされた“形式的な口づけ”から一転、これからは侯爵邸での正式な入館挨拶――使用人の前で改めて夫婦として紹介される段取りだと聞かされている。扉口の向こうには召使い・執事・侍女・近衛騎士が整列しているらしい。ルシアは喉の奥で小さく唾を飲み込んだ。 

 (これは交渉ではなく演技――妻の役を完璧に演じ切る舞台の第一幕) 

 ノアがエスコートの腕を差し出す。ルシアは手袋越しの指を絡め取られ、月下の花道を並んで進んだ。石畳は暖かく、春の夜露が微かににじむ。 

      ◆ ◆ ◆ 

 天井の高い玄関ホールに一歩足を踏み入れた瞬間、左右一列に並ぶ従者たちが一斉に頭を垂れた。蝋燭シャンデリアの金色が、深夜にも関わらず昼のごとく広間を照らす。 

 「我が邸へようこそ、ルシア侯爵夫人」
 最前列で恭しく頭を下げるのは、執事長のセドリック。銀髪を後ろで束ね、黒服に白手袋――老齢ながら背筋は剣のようにまっすぐだ。 

 「皆に紹介しよう。今宵より私の“最も信頼する伴侶”だ」
 ノアの言葉に、ルシアは会釈する。瞬間、抑えきれぬ囁きが列の奥で揺れた。〈白い結婚〉と噂に聞いていたはずの新人夫人が、侯爵本人から“信頼”と称された意外性――その温度差がざわめきを生む。 

 「侯爵閣下、儀礼上のご挨拶を」
 セドリックが進言すると、ノアはルシアの正面へ向き直った。そこかしこから息を呑む音。契約条項で定めた〈人前での口づけ〉は、いわば屋敷の内規としての正式手続き。拒めばたちまち信用を損ねる。 

 「ルシア」――下の名を呼ばれただけで、胸の鼓動が一つ跳ねる。
 ノアは両手で彼女の指先を包み込み、微笑を浮かべた。 

 「形式的、と先に断っておく。だが“蔑む目的の口づけ”ではない」
 「ええ。こちらも“媚びた口づけ”はしないわ」 

 互いに微かな冗談を乗せて視線を絡める。瞬間、ノアはルシアの右手甲へ唇を触れさせた。温度は絹手袋越しでも驚くほど熱く、静電気のように火花が散った気がした。 

 続いてルシアが礼を返す。香り高い香油の残り香が鼻先をかすめ、ホールに甘いざわめきが広がる。儀礼は十五秒で終わった。それだけで充分だった――観衆の瞳に「円満夫妻」の像を焼きつけるには。 

      ◆ ◆ ◆ 

 式後すぐに案内されたのは、南棟の“藤花の間”。夫婦共用の応接室という触れ込みだが、実質は〈日中に一時的に顔を合わせるだけのセーフルーム〉らしい。 

 「ここで使用人との連絡帳を確認し、連名の書簡に署名していただく。ミーティングが済めば、あなたは東翼の婦人居室、私は西翼の主寝室――それが基本の生活動線だ」
 「つまり寝室は完全に分ける、と」
 「契約条項二の“身体的干渉の制限”を遵守する形だが、不都合は?」
 「いいえ。むしろ安心だわ」 

 ルシアは昼間の打ち合わせで受け取った屋敷配置図を広げる。広大な邸は迷宮のようだ。薔薇庭園に面した温室や貴賓図書室など魅力的な部屋名が並ぶが、彼女の視線は地下蔵書庫に釘付けになった。 

 「……アカデミア分館と並ぶ蔵書量、と書いてあるけれど」
 「先代が書を集める趣味でね。閲覧許可証は明日発行しよう。あなたの滞在中、研究者も出入りするが気兼ねなく使ってくれ」 

 契約の盾――そのはずなのに、ノアはまるで高価な扉の鍵を惜しげなく渡すかのようだ。 

 「それと、あなたの執事ハワード氏には公爵家客室を。レイオット家からの侍女を追加で呼ぶなら、南翼離れに部屋を用意する」
 「至れり尽くせりね。……見返りを請求されないと落ち着かないわ」
 ノアは苦笑し、机の上で指を組む。 

 「私には味方が必要だ。剣より言葉で戦える盟友を。あなたは正面から踏み込む胆力と、背後を読む目を持っている――初対面で確信した」
 「……おだてても何も出ません」
 「おだてではなく見立てだよ。私の領地改革は敵が多い。だからこそ、今日あなたが自分に突きつけた“交渉条件”を歓迎している」 

 静かな称賛は、ディランにされた嘲笑とは対極の重みを持って胸に沈んだ。 

      ◆ ◆ ◆ 

 真夜中を回った頃、セドリックが白湯を携えて入室し、〈本日の連絡帳〉を差し出す。公式届け出や帳簿類に続き、今後の予定――三日後の王家晩餐会、五日後の孤児院寄付式――などが並ぶ。ルシアは羽ペンを走らせながら、ふとノアに尋ねた。 

 「……侯爵閣下」
 「ノアで構わない」
 「ではノア。壇上でわたくしを擁護したのは、単なる偶然?」
 「偶然は嫌いだ。私の動きが遅れれば、あなたの名誉が地に落ち、ディランの旧派閥が勢いづくと読んでいた」
 「つまり計算づく」
 「そう。だが“正義感”が皆無とは言い切れない。私は借りを作ったまま眠れない性質なんだ」 

 ルシアはペンを置き、立ち上がった。淡い暖炉の灯りの中、ドレスの裾が波打つ。 

 「なら、こちらも借りは作りたくない。――婚約破棄で奪われた名誉を取り戻し、借財を整理し、レイオットの名を再び誇りに変える。その成果を以て、あなたへの礼とするわ」
 「取引以上の贈り物だ。期待している」 

 ノアが微かに頭を垂れ、ルシアも静かに礼を返した。契約夫婦は、ここに正式に始動した――互いの利害を背中合わせにしながら。 

 夜更けの廊下を歩き、自室へ案内されるころ、ルシアはそっと胸に手を当てた。 

 (これは剣を交える同盟。恋でも同情でもない。……それでも、不思議と背筋が軽い) 

 ディランの嘲笑で折れかけた翼は、まだ飛べる。むしろ今、夜明け前の風を掴み直したばかりだ。 

 ――明日から始まる仮面の夫婦生活。その行く末に待つのは、知らぬ間に芽吹く微熱か、それとも冷厳な契約の成就か。 

 答えはまだ、夜の向こう側。


 
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