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第2編「仮面の夫婦生活」
しおりを挟むヴァンフィールド侯爵邸に迎えられて三日目。ルシア=レイオットは、窓辺のベンチに腰を下ろし、珈琲の湯気越しに白い雲の浮かぶ空を見上げていた。初春の王都はまだ肌寒く、庭の樹々は芽吹きを準備するばかり。けれどその空気は清々しく、どこか新しい世界へ踏み出すような感覚を彼女にもたらしていた。
「……静か、すぎるわね」
呟くと、向かいで控えていた老執事ハワードが頷いた。
「使用人たちは皆、完璧な作法と距離感を心得ております。噂話すら耳にしません。さすがは侯爵家の中枢――この徹底ぶりは、ある意味で戦場に等しい」
「ほんと、気を抜く暇もないわ」
ルシアは苦笑した。言葉遣い、所作、目線の配り方。公爵令嬢としての礼儀作法はもちろん身に染みている。だが“侯爵夫人”ともなれば、その全てが「夫の格を落とさないこと」に直結する責任だ。
それも「契約上の仮初めの妻」である自分が務めねばならないとは皮肉というほかない。だが不思議と、苦ではなかった。
(それだけ私が、“立ち直ってきている”証なのかもしれない)
婚約破棄された日、すべてが終わったと思った。けれど、こうして再び立っている。誰の庇護でもなく、自分の意志で選び取った立場で。
ノア=ヴァンフィールド侯爵。冷徹と評される政敵多き若き領主。けれど彼の屋敷は驚くほど秩序正しく、無駄がなく、すべてが機能している。
(彼は“支配”しているのではなく、“管理”しているのね)
居住区に割り当てられたのは、南翼の「藤花の間」から繋がる専用居室。窓からは中庭の温室が見え、控えの間や書斎、衣裳部屋までが一続きになった贅沢な構造だった。
ただし、侯爵と寝室を共にすることはない。――契約に則った、完全な「別居型の夫婦生活」である。
「……ですが、お嬢様」
ハワードが声を潜めて問う。
「……侯爵閣下は、まことに一切“干渉”してこられませんな。儀礼としての接触は最低限、食事も別、会話も公務のみに限定。これは想像以上に……冷たい」
「それが約束だもの。むしろ都合がいいわ」
そう言いつつも、ルシアは思い返す。初日の夜――ノアは寝室の前で立ち止まり、こう言ったのだ。
『契約が不満になれば、いつでも話してくれ。私たちの関係に必要なのは“調整”だ。感情ではない』
その言葉に、妙に救われた自分がいた。
「にしても……あの温室、ずいぶん丁寧に手入れされていますわね」
ルシアは視線を外の庭へ向けた。南庭の奥にあるガラス張りの温室は、侯爵が代々受け継いできた家宝とも呼ばれる施設で、珍しい薬草や観賞用の植物が育てられている。開かれたばかりの藤のつぼみが、うす紫の雫のように天井からぶら下がっていた。
「侯爵閣下の趣味かもしれませんな。先代の侯爵も温室を好まれていましたが、閣下は特に“香草”に造詣が深いとか」
「意外ね。てっきり“無味乾燥な政策家”かと思ってた」
その時、ノックが響いた。
「失礼いたします、セドリックでございます」
執事長セドリックが入室し、銀盆の上に数枚の書状を乗せて差し出した。
「本日、侯爵閣下より夫人宛てに“私的閲覧推奨”の書類が届いております」
「……私的閲覧?」
ルシアが訝しむと、セドリックは一礼して説明する。
「侯爵閣下は、現在進行中の三つの領地改革計画のうち、第一案“農産流通改革”について、ご夫人のご意見を伺いたいとのこと」
「意見? 私に?」
セドリックは頷いた。
「侯爵閣下曰く、『ルシア嬢の視点は、貴族にも農民にも属さず、非常に実用的な目を持っている。是非、忌憚なき見解を』とのことでした」
ルシアは驚きのあまり声が出なかった。貴族の男性が、女性の、ましてや契約妻の“意見”を求めるなど――それはこの世界では異例中の異例だった。
書状を受け取り、封を解くと、そこには詳細な統計と収支グラフ、農産品の価格推移、さらに収穫量の見込みが整然と記されていた。
(……これ、完全に実務の書類だわ)
文字通り、政の現場に“意見を挟む”ことを求められている。
「……面白い」
つい笑みがこぼれる。そう、これは対等な契約なのだ。飾りではなく、実際に“夫婦の形”として彼女を扱おうとしているのだと、改めて思い知らされる。
「ハワード、書庫から“西方連邦の農業会計法”の写本を持ってきて。あと、商会の通商記録も。……徹底的に比較してみるわ」
「お嬢様……いえ、奥様。まさしく公爵家の名に恥じぬお働きですな」
ハワードが微笑み、退出した後、ルシアは書状の束を抱えながら立ち上がった。
(仮面の夫婦。けれど、仮面の下で手を取り合えるなら――それは、悪くない)
“干渉のない生活”という契約の裏側に、思いがけず現れた“信頼”の兆し。まだそれは脆く、小さな芽にすぎない。
けれどそれは、確かに暖かく育ちつつあった。春風のような穏やかな変化が、ルシアの日常に入り込み始めていた。
新たな日々の始まり。仮面の夫婦生活は、静かに、けれど確実に幕を上げていた。
白磁のように磨き上げられた王宮の大理石(だいりせき)回廊。天井を彩るフレスコ画には春の女神と竜が戯れ、壁には膨大な量の金糸タペストリーが揺らめいている。王太子戴冠二年目を祝す“新緑の祝宴”──王宮社交界の開幕を告げる最初の夜会だ。そこへ、ヴァンフィールド侯爵夫妻として初お目見えすることになったルシアは、淡い藤色のシルクドレスを両手でそっと持ち上げた。
「歩幅は半靴(パンプス)三足分。扇子は胸より高く掲げない」
自らに言い聞かせる傍ら、ノア=ヴァンフィールドが小声で囁く。
「緊張している?」
「当然ですわ。私を“所有物”として披露すると閣下が宣言なさった夜会ですもの」
「所有物……ね。私はそう言ったが、実際は“共犯者”だと思っている。だから肩の力を抜いて、ルシア」
さらりと下の名を呼ばれ、胸が一瞬だけ跳ねる。だが次の瞬間、回廊の向こう側から噂好きの伯爵夫人たちの視線が雨あられと飛んできた。
──“白い結婚”の花嫁。侯爵に気に入られただけの没落公爵令嬢。
侮蔑を孕んだ囁きが、袖の下で扇子を揺らすたび花火のように弾ける。けれど背を丸めたら負けだ。ルシアは扇子を一拍で閉じ、さりげなくターンして正面の貴婦人たちに微笑んだ。光沢のあるパール飾りが耳元で揺れる。
「本日は麗しい装いでいらっしゃいますのね、ディアーデ侯爵夫人。冬薔薇(ふゆそうび)の赤がとてもお似合いですわ」
褒め言葉を投げかけられた夫人が虚を突かれ、ぴくりと眉を動かす。咄嗟に礼を返さねば自分が無礼者になってしまう立場柄、夫人は渋々ながらドレスの裾を摘まんで会釈した。つられて周囲の貴婦人方も形ばかりの礼を整える。
(第一波、完了)
同時にルシアは気付いていた。この場に集う“格上”の令嬢や夫人は、皆同じパターンの人選だ。──保守派の貴族、旧アルバーグ派閥、そして……元婚約者ディランの縁故者。つまり今日の夜会は、彼らが“侯爵家の新妻の値踏み”を行う最初の審査でもある。
その狙いを見透かした上で、あえて“誉め殺し”を仕掛けたのだ。侮辱の種を刈り取るには、先にこちらから礼を尽くすのが最も効果的。礼節をもって屈服させ、笑顔の下で主導権を奪う。
「まあ、なんて聡明なお方。話に聞くよりずっと魅力的ですわね」
人垣の奥から、絹糸のように甘い声が響く。王女付き女官長の姪にして社交界随一の毒舌令嬢──オルガ=バリレットが扇子を掲げて進み出た。ドレスの胸元に飾られた翡翠のブローチが、あからさまに家格の高さを誇示している。
「ただ……侯爵夫人としては少々“見映え”が質素でございませんこと? 藤色は慎ましやかで素敵ですが、この場に相応しい華やかさとなると──」
言外に〈貧相〉と言いたいのだ。周囲に含み笑いが広がる。しかしルシアは扇子を腰へ戻し、微笑を崩さず一歩前へ。
「ご忠告ありがとうございます、オルガ様。けれど今日の私は〈若草萌ゆる季節〉を祝う象徴として、この国の染師(そめし)が誇る“藤の初芽色”をご所望いただいたのです。陛下からね」
ざわっ、と空気が揺れた。王太子陛下が染色工房を保護するために制定したばかりの“郷土色推進勅令”──その宣伝役を、侯爵夫人が担っているという既成事実を今ここで突きつけたのだ。
「まさか……陛下直々に?」
オルガの声がかすれた。彼女は保守派であるがゆえ、王太子の改革を公然と批判できない立場にある。反論すれば“不敬”となり、沈黙すれば策略に屈した格好だ。
ルシアは追撃を忘れない。「侯爵閣下のドレスコードも同じ理念で統一しておりますの。ほら、ご覧ください」
視線を誘導すると、ノアがいつの間にか貴族たちの輪の外側へ立ち、上着の襟元を軽く整えていた。襟には藤の新芽を模したシルバータイピンが輝く。陛下の改革を象徴する“新緑”の意匠だ。
「……お見事だ」
低く唸ったのは、列席していた第三王子レオン本人だった。王族が賞賛した以上、それが答えだ。瞬時にホールの空気が反転し、拍手がぱらぱらと起こる。礼節を欠いたまま沈黙していたら、自分こそが非常識と見なされる──貴族社会の恐ろしい同調圧力である。
オルガは顔色を変えたが、王子の前では引くしかない。苦笑いで腰を落とし、「さすが侯爵夫人」と絞り出すと、人垣は雪崩を打ったように賞賛に回った。白い手袋が次々と差し出され、ルシアはその一つ一つに完璧な礼を返す。
(第二波、完了。あとは波に乗るだけ)
その最中、ホールの奥で揺れる青騎士団の礼服が視界を掠めた。ディラン=アルバーグ。ルシアと視線が合った瞬間、彼は信じられないものを見たように瞳を見開き、何か言いたげに口を開きかけ――結局、何も言わず背を向けた。
(……私を落とした石は、あなた自身に返る運命よ)
胸の奥で小さく呟き、ルシアは扇子を閉じる。
そこへノアが歩み寄り、低く頭を下げた。
「私の誇り高き妻へ、祝杯を」
騎士仕込みの所作で差し出されたシャンパンのグラスには、藤色のエディブルフラワーが一輪浮かんでいる。ルシアはグラスを受け取り、ノアと視線を交わし――小さく笑った。
「乾杯、ノア。今宵だけは“所有物”に甘んじて差し上げますわ」
「では代償として、あなたの輝きを存分に見せてくれ。叫ぶ者ほど沈黙させるには、ただ美しくあればいい」
グラスが触れ合い、乾いた音が弾ける。
夜会はまだ始まったばかり。だが今日、王宮社交界は確かに見た──侯爵の“盾”として迎えられたはずの契約妻が、舌鋒ひとつで舞台を制圧する姿を。
紫藤(しとう)の香を纏い、ルシアは新緑の祝宴を歩いていく。静かに、そして誇らしく――“仮面の夫婦”の片翼として、初めての勝利を掴みながら。
ヴァンフィールド侯爵邸に戻った翌朝――夜会の余韻を残したまま、ルシアは屋敷南廊の奥で奇妙な光景に出くわした。
朝八つ刻。使用人は皆朝食の支度に追われているはずの時間帯なのに、白磁の回廊を歩く見慣れない令嬢が一人。薄紅のフードで顔を隠し、急ぐ様子もなく絨毯を踏み締めていく。
(来客の予定はなかったはず……)
侯爵家の客は正面玄関を通るのが慣例だ。裏廊下を歩くのは家人かよほど特別な関係者――そう悟った瞬間、令嬢は中庭へ抜ける扉へ身を滑らせ、温室のほうへ消えた。
「怪しいわね……」
人目を憚るようにドレスの裾を摘み、ルシアも後を追う。匂い立つジャスミンと湿った土の匂いの中、薄紅のフードは温室中央の薬草棚へ向かっていた。そこで彼女は卓上の木箱を開け、何やら小さな包みを取り出す……。
「そちら、どなた?」
思わず声をかけた。フードの奥で黒曜石の瞳が揺れ、令嬢は驚いたように肩を震わせ――が、次の瞬間には浅い会釈をしてみせた。
「園丁への差し入れを……失礼、夫人」
「あなたは?」
「……下働きの者でございます」
舌足らずで震えがちな返答、だが高価な靴と手袋は間違いなく“貴族の令嬢”の証。誤魔化しが下手すぎる。ルシアは一歩踏み出し――
「誰かと勘違いしていないか?」
背後から聞き慣れた低音。ノア・ヴァンフィールドが小径をたどり現れた。令嬢は安堵の息を漏らし、ノアへ駆け寄ると、掌に包みを押しつけた。わずかに首肯し、ノアはそれを上着の内側へ。
「夫人には説明する。下がってよい」
令嬢は深く一礼し、温室の裏口――城壁沿いの抜け道へと消えた。
残されたルシアは、怒気ではなく好奇心に眉を上げた。
「……早朝から秘密の逢瀬? 楽しそうで羨ましいわ」
ノアは苦笑する。「恋人ではない。むしろ“情報屋”だ」
「情報屋?」
「王宮会計局付き書記官、セレナ・バレロ。彼女は汚職資料の写しを運んでくれる」
ノアは温室の出入口を確かめ、扉を閉めた。空気に薬草の匂いが濃くなる。
「昨夜、君が社交界で見事に舞った陰で、私は旧派閥の裏帳簿を手に入れた。汚職の中核は王宮建設局と会計局が癒着した土地買収――証憑(しょうひょう)は、さっきの包みの中にある」
言葉の端が熱を帯びている。冷徹と噂された男の瞳に、たしかな怒りと使命感の火が灯っていた。
「それを……どうするつもり?」
「まず、国庫の流出を止め、次に関係者を法廷に立たせる。そのために“白い結婚”が要る。私は派閥争いを超えて改革を遂行する名目として、安定した夫婦像を示さねばならない」
ルシアは息を呑む。自分が“盾”であり“共犯”だと明言された瞬間だった。
「では、私にも役割があるのね?」
「もちろん。会計帳簿の読み解き、領地経営の数字感覚――君が昨晩示した機転は本物だ。共犯者として意見をくれ」
温室のガラス天井を透かし、春の陽光が藤の蔓を照らす。ルシアは手袋を外し、薬草棚に手を添えた。
「共犯者なら、等しく情報を共有いただくわ。包みを拝見して?」
ノアは一瞬迷ったが、やがて頷き、内ポケットから封筒を差し出した。蝋封を切ると、中から複写された帳簿の断片と領收証の写し。金額の桁、受領者の署名、日付――不自然な改竄が一目で分かる。
「これ……額面が実際の四倍。土地の名義も架空名ばかり」
「そして裏金の流れはディラン・アルバーグの遠縁、“アルバーグ男爵家”の金融部門を経由している」
ディランの名を聞き、ルシアは唇を引き結んだ。
「彼は旧派の純粋な“駒”だと思っていたけれど、裏では……」
「気付かないふりをしていただけかもしれない。だが証拠が揃い次第、王家の特別査問廷に提出する」
ルシアは書類を畳みながら、決意を固めた。
「私も手伝うわ。会計局の文官に旧友がいるの。記帳法改正の草案を作っていた才女よ。彼女なら追加資料を取れる」
「助かる。だが危険は増す」
「危険? 婚約破棄を公衆の面前でやらかされた女に、今さら何を恐れろと?」
笑ってみせると、ノアは苦く笑い返す。
「強いな、君は」
「強がりよ。でも、あなたの理想は私の理想でもある。汚職で国が腐るのは見過ごせないもの」
ノアは一歩近づき、真剣な眼差しで手を差し出した。
「共犯者として、改めて握手を」
ルシアは素手のまま彼の掌を取る。薬草の香りに混じり、鉄とインクの匂い――戦う者の匂いがした。
指先に宿る熱が、冷たい契約を確かな絆へと変えていく。
こうして二人は、王都を揺るがす“汚職追及作戦”の幕を上げた。仮面の夫婦は、今や影で剣を交える同志(どうし)でもある。春の温室で交わした密約は、やがて王宮を震撼させる嵐の序章となるのだった。
春まだ浅い王都の夜は、昼間の薄陽(うすび)が嘘のように冷え込む。
汚職資料を解読し続けていたルシアは、暖炉の残火が尽きたころには項垂(うなだ)れていた。文字の行が揺れ、額にざらりと汗が浮く。
──立ち上がった瞬間、視界が白く弾けた。
「……っ」
紙束が床に散る。急な耳鳴りと吐き気。膝が折れ、冷たい石畳に頬が触れたそのとき、肩を支える腕が伸びてきた。
「大丈夫か?」
低く沈んだ声。ノア=ヴァンフィールドが夜着のまま駆けつけていた。彼は片腕でルシアの背を抱き上げ、もう片方で召し鐘を鳴らす。
「湯を。薬師を呼べ」
普段飄々(ひょうひょう)とした執事長セドリックですら、寝間着姿の主君を初めて見るらしく目を見開いた。侍女が湯壺と乾いたタオルを運び込み、薬草師が脈を測る。
「急な気温変化と過労で熱を上げただけ。安静にすれば快復いたします」
薬草師の診断に、ノアは顔色ひとつ変えず頷いた。だが薬師が去るや否や、彼は自ら冷水に浸した手拭(てぬぐい)を絞り、ルシアの額へ。昼間の理知的な輝きとは違う、夜目にも深い紫紺の瞳が近い。
「無茶をしすぎた」
「……書類が膨大で」
「共犯者なら倒れられては困る。私は臆病でね、味方が減るのが怖い」
冗談めかしながらも手つきは優しい。濡れ髪をかきあげ、首筋まで布を滑らせる。ひたり、と指先が触れ、ルシアは思わず息を飲み込む。
(近い……)
契約書には「身体的接触は双方の同意で制限」と明記した。だが今この瞬間、拒む理由は微塵も浮かばない。むしろ、この距離が心地よいと感じている自分に気付く。
──だが、それは危険な兆候だ。
「……干渉しない約束でしょう?」
囁くと、ノアの指が動きを止めた。眇(すが)められた瞳が揺れる。
「干渉、か。あの条文を書いたときは、私も自分の感情を計算に入れていなかった」
「感情……?」
「今日、君が倒れた時、真っ先に浮かんだのは“資料が台無しになる”なんて打算じゃない。――ただ、怖かった」
照明も落とした薄闇で、紫紺の瞳に灯る光がはっきり見える。まるで炎の芯だけを見せるような微かな熱。その熱が頬へこぼれ落ちる前に、ルシアはぎゅっと拳を握った。
「……私だって怖いわ。初めてよ、誰かにこうして看病されて動揺するなんて」
ずっと公爵令嬢として、気丈であることを期待され続けた。涙も弱音も、人前で零したことはない。だが彼の掌を額に受けた瞬間、──脆さも赦されるのだと身体が理解してしまった。
「じゃあ互いに譲歩しよう」ノアは静かに言う。
「干渉しない約束は維持する。ただし“体調を崩した時は例外”と注釈をつけよう。妻を守るのは夫の義務だから」
「……私が夫を看病するときも、同じ注釈を許して?」
「もちろん」
ふ、と二人は笑った。まるで幼い子供が秘密の合言葉を決めた時のように。
ルシアは瞼を閉じ、安堵と熱の中で囁く。
「心の距離、一センチね」
「ん?」
「くっついても燃え移らない、けれど離れもしない。ちょうど指先が触れる距離」
ノアは小さく頷き、額に当てていた手拭を替える。冷たい布越しに伝わる掌の温度は、確かに“契約”を越えた位置にあった。
やがて侍女が用意した薄粥(うすがゆ)を運び込み、ルシアは枕元でスプーンを受け取る。けれど腕に力が入らず、匙の縁から雫が零れた。
「貸して」
ノアが銀匙を取り、まるで幼子をあやすように口元へ運ぶ。戸惑いながらも熱に浮かされた身体は素直に受け入れた。粥(かゆ)の優しい温度が喉を通るたび、胸の内に温もりが降り積もる。
半刻ほどで椀を空けると、ノアはろうそくを絞り、寝台脇の肘掛け椅子に腰を落ち着けた。
「もう下がって。閣下まで風邪を引くわ」
「医師は“夜通し看病は不要”と言ったが、私が勝手にここにいるだけだ。契約違反にはならない」
「頑固ね……」ルシアは苦笑し、毛布を引き上げた。「――ノア」
「何だ」
「ありがとう」
短い言葉。けれど今の自分に掛けられる最大限の真心だった。
ノアは椅子の背にもたれ、静かに目を閉じる。夜更けの静寂(しじま)の中、二人の呼吸だけが重なり合い、やがて微かな寝息へ変わっていく。
指先一センチの距離。燃え広がるには足りない。だが、凍えるには十分な温もり。仮面の裏で交わされた“注釈付きの契約”は、薄明かりの中で幼い芽のように膨らみ始めていた。
夜が白み始める頃、ルシアは熱の残滓(ざんし)の中で確信した。──この距離は、易々と広がるものではない。むしろ一歩踏み出せば、契約の枠を越えた世界へ墜(お)ちてしまいそうだ。
けれどまだ、その一歩は踏み出さない。
これは共犯者の誓い。炎になる前の、甘い前兆(ぜんちょう)。
そして春の暁(あかつき)は、二人の影を寄せ、静かに長く伸ばしていった。
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