婚約破棄で終わるはずでしたのに、気づけば全部あなた方が崩れておりました

しおしお

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第二十六話 義妹は、初めて自分から頭を下げました

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第二十六話 義妹は、初めて自分から頭を下げました

本邸の朝は、相変わらずどこか息苦しかった。

けれど、以前のような騒がしさはない。誰かが泣き喚くわけでもなく、怒鳴り声が響くわけでもない。ただ、屋敷の中を満たしている空気そのものが重いのだ。

使用人たちは静かに動く。

目立たぬように、余計な音を立てぬように。

この家では今、誰もが同じことを知っている。

何かが決定的に狂ったのに、それを元へ戻せる者が一人もいない。

その朝、ミレイユは一人で小さな書き物机に向かっていた。

机の上には開きっぱなしの礼法書と、昨夜途中まで目を通した帳簿の初歩。それから、何度も書き直した跡のある紙が数枚、乱れて置かれている。

インクの染みた指先を見れば、彼女がどれほど不慣れな作業に苦戦しているかはすぐに分かった。

「……違う」

小さく呟いて、また紙を脇へ避ける。

文面が整わない。

言葉が浮かばない。

それでも書こうとしているのは、もう誰かが自分のために整えてくれるとは思っていないからだろう。

扉の外で控えていた侍女リナが、そっと声をかける。

「ミレイユ様。お茶をお持ちしましょうか」

「いらないわ」

以前なら、苛立った声でそう返したはずだった。

だが今のミレイユの声は、疲れているだけだった。

「……そこにいて」

リナは少し驚いたように目を瞬く。

「はい」

「変な文になっていたら教えて」

その一言に、リナは何とも言えない顔になった。

ミレイユが、侍女にそれを頼む。

昔ならありえなかった。

自分の可愛らしさや立場を当然のように受け取り、細かなことは誰かが整えてくれるものだと思っていた娘が、今は自分の言葉の拙さを認めている。

それは小さな変化だったが、確かな変化でもあった。

「どなたへ、お書きになるのですか」

リナが恐る恐る尋ねると、ミレイユは少しだけ間を置いた。

「……マナーの先生へ」

リナの目が大きくなる。

「先生、でございますか」

「ええ」

ミレイユは視線を紙へ落としたまま言った。

「昔、一度だけ来てくださったでしょう。お母様が、わたくしにはまだ早いって言って、それきりになったけれど」

リナは覚えていた。

年配の厳しい女教師だった。

一度目の授業で、ミレイユの座り方や手の置き方、返答の仕方を次々に直し、ヘレナが露骨に機嫌を悪くした。こんな堅苦しいことを覚えなくても、この子には別の良さがあるのだと言って、結局その教師は二度と呼ばれなかった。

あのときは、リナもそれでいいのだと思っていた。

ミレイユは可愛いのだから、そこまで厳しく仕込む必要はないと。

だが今は違う。

その甘さが、今になって一気に返ってきている。

「お願いしてみようと思うの」

ミレイユが言う。

「来てくださるか分からないけれど」

その言葉は、以前の彼女なら絶対に口にしなかったものだった。

来てくださるか分からない。

つまり、自分がお願いする立場だと分かっているのだ。

それは小さいようでいて、とても大きかった。

「文面は……」

リナが紙を見せてもらう。

まだぎこちない。

敬語も少し怪しい。

だが、必死さだけは伝わった。

「ここは、もう少し控えめなお書き方の方がよろしいかと」

「……どこ」

「この、“ぜひお越しくださいませ”のところを、“もしご都合が合いましたら”くらいに」

ミレイユはすぐに頷く。

「分かったわ」

素直だった。

素直すぎて、リナの方が胸の奥を少し痛める。

もっと早く、こういうふうに学べていたらと、どうしても思ってしまうからだ。

その頃、ヘレナは別室で苛立ちを募らせていた。

机の上には、まだ返事の来ない手紙がいくつも積まれている。以前なら、こちらが一通出せば数通は好意的な返答があった。だが今は違う。沈黙が多い。返ってきても曖昧だ。しかもその曖昧さの方が、露骨な拒絶より厄介だった。

「まったく……」

小さく吐き捨てる。

そこへ控えていた侍女が、おずおずと告げた。

「奥様」

「何」

「ミレイユ様が、昔の礼法の先生へお手紙を」

ヘレナの手が止まる。

「……何ですって」

「ご指導をお願いしたいと」

一瞬、何とも言えない感情が胸を過ぎった。

驚き。

苛立ち。

それから、ほんのわずかな安堵。

やっと危機感を持ったのか、と。

けれどその安堵はすぐに別の不快さへ変わる。

自分を通さず、娘が勝手に動いている。

しかも、今さら礼法の教師だなどと。そんなもの、一朝一夕でどうにかなるはずがないのに。

「……好きにさせなさい」

結局そう言うしかなかった。

止めれば、また娘に見限られる。

かといって、応援したいわけでもない。

ヘレナのその複雑な沈黙を、使用人たちはよく見ていた。

本邸の中では、もう誰も、この母娘が一枚岩だとは思っていない。

一方、王宮ではカイルが朝から機嫌を損ねていた。

前日の懇談会の空虚さが、まだ尾を引いているのだろう。残った者たちのぎこちない笑顔、薄い忠誠、目の奥の居心地の悪さ。それらを思い出すたび、胸の奥がじわじわと熱を持つ。

だが、その熱は怒りというより、傷に近かった。

「殿下」

侍従長補佐が声をかける。

「本日の午後、王妃殿下より」

「またか」

「定例の確認にございます」

カイルは舌打ちした。

今の王宮では、何かといえば確認だ。書類だ。整理だ。

なぜ自分ばかりが、こんな細かなことへ引きずり込まれなければならないのか。

そう思う一方で、もう誰も以前のように勝手に整えてはくれないことも、彼は嫌でも理解し始めていた。

理解している。

だが受け入れられない。

その苛立ちが、日に日に彼を狭くしていた。

「それから」

補佐が続ける。

「ブラウネル伯爵家の次男殿ですが、今後しばらく王宮への出入りを控えたいとのことです」

カイルがゆっくり顔を上げる。

「……何だと」

「家の意向と」

また家だ。

また家の意向。

また、こちらではなく向こうが選ぶ話だ。

「好きにしろ」

吐き捨てるように言ったが、その声は思ったより乾いていた。

怒鳴る気にもなれない。

怒鳴ったところで戻らないと、もう分かっているからかもしれない。

別邸では、午後になってグラントがその両方の報せを持ってきていた。

「本邸ですが」

「ええ」

「義妹様が、昔の礼法教師へ手紙を出したようです」

リディアナはペンを止めた。

「へえ」

「かなり不器用な文面だったとか」

マリアベルが小さく息をつく。

「それでも、ご自分で書いたのですね」

「ええ」

グラントがうなずく。

「侍女に見てもらいながらではありますが」

リディアナはしばらく黙っていたが、やがて静かに言った。

「初めて、自分から頭を下げたのね」

「はい」

「殿下の方は?」

「側近がまた一人、距離を置いたようです」

「そう」

その二つの報せは、妙に対照的だった。

一方は、何も持たないと知った娘が、ようやく自分の手で何かを掴もうとしている。

もう一方は、選ぶ側だと思っていた王太子から、人が静かに離れていく。

どちらも落ちている。

だが、落ち方が違う。

「面白いものね」

リディアナがぽつりと言う。

「何がでございますか」

マリアベルが尋ねる。

「義妹は、やっと地面に足をつけようとしている。でも殿下は、まだ高いところにいるつもりで、足場だけ消えていくのを見ている」

グラントが低くうなずく。

「たしかに」

「どちらが先に立ち直れるかは分からないけれど、少なくとも、何もしない方が先に沈むわ」

その言葉に、マリアベルは少しだけ微笑んだ。

「義妹様に甘いのですね」

「いいえ」

リディアナは首を振る。

「甘くはないわ。ただ、何も持たぬまま選ばれた気になっていた子が、自分から先生を呼ぼうとするなら、その一歩だけは本物でしょう」

それは本音だった。

許すつもりはない。

同情もしない。

けれど、人が初めて自分の無力を認めて頭を下げる瞬間だけは、嘘ではない。

その価値を、リディアナは知っていた。

「でも」

彼女は静かに続けた。

「その一歩で全部埋まるほど甘くもないわ」

礼法を学ぶ。

帳簿を読む。

頭を下げる。

どれも必要だ。

だが、失った時間も、積み重ねられなかったものも、それだけで一気に戻るわけではない。

そして、その現実はたぶんミレイユ自身が一番苦く味わうことになる。

窓の外では、夕方の光が少しずつ傾き始めていた。

長い影が庭に落ちていく。

王太子の足場も。

義妹の見ていた夢も。

今は同じように崩れている。

けれど崩れたあと、初めて自分から頭を下げた者と、まだ周囲が悪いと思っている者とでは、いずれ差が出る。

「義妹は、初めて自分から頭を下げたのね」

「はい」

「なら、これから苦しいわよ」

リディアナは静かに言った。

「でも、その苦しさだけは本物だから、そこから先は少しだけ違うかもしれない」

それは希望ではない。

ただの事実だった。

夢が壊れたあとに残るものが、恥だけか、恥の上に積もうとする意志か。

その違いは、あとになってじわじわ効いてくる。
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