婚約破棄で終わるはずでしたのに、気づけば全部あなた方が崩れておりました

しおしお

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第二十七話 継母は、娘が変わるほど自分の空虚さを思い知らされました

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第二十七話 継母は、娘が変わるほど自分の空虚さを思い知らされました

本邸の朝は、相変わらず重かった。

けれど、その重さの質は少しずつ変わってきている。

以前は、誰かが泣き喚き、誰かが怒鳴り、屋敷じゅうがその感情に振り回されていた。だが今は違う。騒がしさは減った代わりに、言葉にしづらい気まずさが、廊下にも応接間にも静かに沈んでいる。

使用人たちは、その変化を肌で感じていた。

ミレイユが怒鳴らなくなった。

いや、怒鳴れなくなったというより、怒鳴る代わりに考える時間が増えたのだ。

それは良い変化とも言える。

だが同時に、屋敷の中では別の歪みが目立つようになった。

ヘレナである。

娘が少しずつ“自分で何かをしようとする”ほどに、継母の方が落ち着きを失っていくのだ。

その日の午前、ヘレナは自室の机に向かったまま、三度目の手紙を書き損じていた。

便箋の上には書き出しだけが並んでいる。

季節の挨拶。

近況への気遣い。

どれも丁寧ではある。だが、その先へ進まない。

何を書いても、必死さが滲むからだ。

今さら親しげな文を書けば白々しい。

かといって、率直に助力を願うには誇りが邪魔をする。

結果として、どの文面も中途半端になり、最後には破るしかなくなる。

「……役立たず」

小さく吐き捨てたのは、紙に向けてか、自分に向けてか、ヘレナ自身にも分からなかった。

そこへ、扉が控えめに叩かれる。

「何」

「奥様、ミレイユ様がお呼びでございます」

ヘレナの眉がぴくりと動く。

呼ばれる。

以前なら、娘は母のところへ泣きつきに来た。自分が呼ばれる側になることなど、ほとんどなかった。

「何の用かしら」

「礼法の先生の件で、ご相談があると」

その一言で、ヘレナの胸に妙な不快さが走る。

娘は本気なのだ。

一時の気まぐれではなく、まだ続けている。

それが少し意外で、少し癪だった。

「……行くわ」

部屋を出て廊下を歩きながら、ヘレナは自分でも説明しづらい感情に苛立っていた。

娘が学ぼうとすること自体は、本来なら歓迎すべきだろう。

だが、素直にそう思えない。

なぜなら、それは同時に、自分が今まで何も与えてこなかった証拠でもあるからだ。

ミレイユの部屋へ入ると、娘は小さな丸卓に紙を広げていた。

礼法書が一冊。

書き直したらしい便箋が数枚。

そして、返信のない古い招待状まで置かれている。

まるで、自分がどこで間違えたのかを見比べる材料のようだった。

「お母様」

ミレイユが顔を上げる。

その目には以前のような甘えがない。

疲れてはいる。

だが、逃げるだけの顔でもなかった。

「何かしら」

ヘレナが問い返すと、ミレイユは一枚の紙を差し出した。

「先生に、改めてお願いする文面を書き直したの」

「見てくださる?」

ヘレナはそれを受け取った。

文面はまだ拙い。

だが、拙いなりに丁寧だった。

しかも、以前の娘なら絶対に使わなかったであろう言葉が並んでいる。

ご指導をお願いできれば幸いです。

ご都合が合いましたら。

ご無理のない範囲で。

それらは全部、お願いする側の言葉だ。

ヘレナは、しばらく黙ってそれを読んでいた。

「……悪くはないわ」

その返事に、ミレイユはわずかに肩の力を抜く。

ほんの些細な動きだった。

だが、ヘレナはそこで妙な違和感を覚えた。

娘は今、自分の言葉で何かを前へ進めようとしている。

それは、本来なら母として喜ぶべきことだろう。

なのに胸の奥では、別の感情が蠢いている。

置いていかれる、という感覚だった。

「ありがとう」

ミレイユは素直に言った。

その素直さが、かえってヘレナには刺さった。

以前の娘は、礼を言ってもそれは甘えの延長に近かった。今のそれは違う。本当に“手を借りたこと”を理解したうえでの礼だ。

つまり娘は少しずつ、自分が何も持たずに生きてきたことを理解し始めている。

その理解は当然、母にも向く。

どうして教えてくれなかったのかと。

どうして私は、可愛いだけでいいと思わされていたのかと。

「……そんなに急いでも仕方ないわ」

ヘレナが言うと、ミレイユは首を傾げた。

「急いでるつもりはないわ」

「でも、焦っているでしょう」

「焦ってるわよ」

あまりにあっさりと認められ、ヘレナは言葉を詰まらせた。

ミレイユは視線を紙へ落としたまま続ける。

「だって、焦らない方がおかしいもの。何も持っていなかったって、今さら分かったんだもの」

その言葉は静かだった。

だがヘレナの胸を鋭く刺した。

何も持っていなかった。

娘がそう言うたび、同時に自分の子育ての空虚さまで暴かれる気がする。

「でもね、お母様」

ミレイユが顔を上げる。

「焦ってるからって、何もしないでいたら、もっと空っぽになるでしょう?」

ヘレナは答えられなかった。

正しいからだ。

そしてその正しさは、今の自分にはないものだった。

自分は焦っている。

けれど何かを学ぼうとも、変えようともしていない。

ただ、失ったものを取り戻したいと足掻いているだけだ。

娘が変わろうとするほど、その差が見える。

その差が、ヘレナにはたまらなく苦かった。

「……そうね」

ようやく出た返事は、それだけだった。

ミレイユはそれ以上追及しなかった。

もう母に答えを求めていないのだろう。

そのことが、かえってヘレナには堪えた。

自分はまだ母として見られている。

だが、導く者としては見られていない。

この家で娘の上に立っていたはずなのに、その実、自分には何も教えられない。

その事実が、静かに、しかし確実に彼女を削っていた。

昼過ぎ、礼法教師から返事が届いた。

本邸の使用人たちは、その手紙を運ぶだけで妙に緊張した。

返事が来るかどうかも分からなかったのだ。

昔、一度で追い返された相手だ。断られても仕方ないと、皆どこかで思っていた。

ミレイユは封を切る手を少し震わせた。

文面は簡潔だった。

多忙ゆえ頻繁には無理だが、月に数度なら時間を取れる。

ただし、以前のような“お遊びの礼法”ではなく、本気で学ぶなら、甘えは許さない。

それが条件だった。

ミレイユは、その文を読み終えると、長く息を吐いた。

「来てくださるのね」

リナが小さく言う。

「ええ」

「よかったですね」

ミレイユは一瞬だけ笑いかけ、それからすぐ真顔へ戻った。

「よかった、だけじゃないわ」

「はい?」

「怖いの」

その言葉に、リナは目を見開く。

ミレイユは、指先で手紙の端をなぞった。

「本当に習うってことは、できないことを一つずつ見せられるってことでしょう?」

リナは何も言えなかった。

その通りだからだ。

けれど、ミレイユはそこで逃げなかった。

「でも、仕方ないわね」

そう言って、彼女は手紙を丁寧にたたんだ。

それは覚悟のように見えた。

同じ頃、王宮ではカイルがまた一つ、自分の周囲の変化を思い知らされていた。

懇談会の規模縮小について話を通したところ、残った側近たちですら、明らかにほっとした顔をしたのだ。

「その方が、殿下も落ち着いてお話しいただけるかと」

侍従長補佐は丁寧に言った。

だがその丁寧さの奥にある本音を、カイルは感じ取ってしまう。

これ以上、人の集まらぬ場を晒したくない。

そう思われているのだ。

自分のために、ではない。

王太子の見苦しさを少しでも隠すために。

そのことが分かるたび、胸の奥が妙にざらつく。

怒りたい。

だが、怒りの先が見つからない。

全部、自分の周囲から少しずつ消えていったもののせいであり、しかもその原因は自分自身にあると、薄々分かり始めているからだ。

別邸では、夕方になってグラントが新しい報せを持ってきた。

「義妹様ですが」

「ええ」

「礼法教師が来ることになったようです」

リディアナは顔を上げた。

「そう」

「月に数度ではありますが、本気で教える条件で」

マリアベルが小さく頷く。

「逃げられませんね」

「ええ」

リディアナは静かに言った。

「ようやく、夢ではなく手間のかかる現実へ足を踏み入れたのね」

その言葉に、グラントも低くうなずく。

「たしかに」

「それで、継母様の方は?」

「かなり居心地が悪そうにしておられるようです。娘が変わろうとするほど、ご自身の空虚さを思い知らされるのでしょう」

「そうでしょうね」

リディアナは窓の外を見た。

夕方の光が柔らかく庭を照らしている。

風はほとんどない。

だが、水面下では確実に何かが動いている。

義妹は、ようやく自分で頭を下げた。

それはみっともないことではない。

遅いし、苦しいし、恥もかくだろう。

けれど、本物だ。

一方で継母はどうか。

娘が変わるほど、自分の中身のなさが浮き彫りになる。

それは想像以上に痛いはずだった。

「継母は、娘が変わるほど自分の空虚さを思い知らされるのね」

リディアナが言う。

「はい」

「そしてたぶん、それが一番こたえるわ」

マリアベルが目を上げる。

「娘の成長が、喜びではなく痛みになる、と」

「ええ。だって、自分が与えなかったものを、娘が今さら自分で拾い始めるんだもの」

それは母として、かなり恥ずかしい。

しかも、その娘にすら少しずつ見限られ始めている。

ヘレナにとって、今の本邸は息苦しいだろう。

だがそれは当然の報いだった。

人を外見と甘さだけで育てた結果、その空虚さを真正面から返されるのだから。

「この先、義妹が少しでも積み始めたら」

リディアナは静かに続けた。

「継母はもっと苦しくなるわね。娘の変化を喜べない自分まで、見えてしまうもの」

それは哀れではある。

けれど、許されることではない。

リディアナはそう思った。

そして机の上の照会状へ再び視線を戻す。

王妃への返答を書かねばならない。

必要な線を引き、止めるべきものと止めぬべきものを分ける。

やるべきことは多い。

その一方で、本邸ではようやく誰かが、自分の足で立とうとし始めた。

遅い。

だがゼロではない。

それだけの違いが、この先、じわじわ効いてくるのだろう。
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