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第二十八話 王太子は、もう誰も自分を持ち上げてくれない席に座りました
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第二十八話 王太子は、もう誰も自分を持ち上げてくれない席に座りました
翌日の王宮は、やけに静かだった。
静かなのはいつものことだ。王宮とは本来そういう場所で、無駄な私語も物音も嫌われる。だが今日の静けさは、規律というより空白に近かった。
王太子の周囲に、無駄な声がなくなっているのだ。
以前なら、朝の控えの間には必ず何人かの若い貴族子息がいた。顔を見せ、軽口を叩き、昨夜の遊びや次の催しの話を持ち込み、王太子の気分がよければ一緒に笑う。そういう、実のない賑やかさがあった。
今はない。
人がいないわけではない。
侍従はいる。
女官もいる。
補佐官も控えている。
だが彼らは最初から“職務でいる者”だ。
王太子その人を面白がり、持ち上げ、中心に据えて場を温める種類の人間がいない。
その違いは、思っている以上に大きかった。
カイルは朝から不機嫌だった。
いや、不機嫌というより、座り心地の悪さを隠せずにいる顔だった。執務机に向かっても落ち着かず、届いた一覧をめくっては置き、補佐官が確認を求めれば返答が一拍遅れる。
集中できていない。
それは誰の目にも明らかだった。
「殿下、本日午後の小会合ですが」
侍従長補佐が静かに言う。
「何だ」
「規模を縮小したうえで、そのまま行う形に整いました」
「……そうか」
短い返答だった。
本来なら、王太子が人を集める側である。
なのに今は、人が集まらないから縮小する。
その事実そのものが、彼の神経を逆撫でしていた。
「参加者は」
「六名にございます」
もともとは、倍以上の予定だった。
その数字を口に出されるだけで惨めだったのか、カイルは机の上の紙を指先で叩いた。
「少ないな」
「はい。ですが、この方がまとまりはよろしいかと」
補佐官の言い方は丁寧だった。
けれど、その丁寧さがまた、どこか慰めめいて聞こえる。
惨めな王太子へ“このくらいがちょうどよろしいのでは”と遠回しに言われている気がして、カイルは気分が悪くなった。
「余計な気遣いは要らん」
「失礼いたしました」
補佐官はすぐに下がる。
だが、その去り際までどこか慎重で、そこにもまた以前との違いがあった。
誰も、この男の機嫌を本気でよくしようとしていない。
ただ荒れさせないようにしているだけだ。
午後、小会合は王宮内の中広間で行われた。
以前なら、もう少し広い部屋が使われただろう。
参加者も多く、酒や軽食ももう少し華やかだったはずだ。けれど今は違う。人数に見合った小ぶりの部屋。整ってはいるが、どこか控えめな設え。あまりに現実的で、夢がない。
カイルが入ると、すでに集まっていた若手貴族たちが一斉に立ち上がった。
礼はする。
動きに乱れもない。
だが、その場に漂う空気は冷えていた。
誰も笑っていない。
誰も、王太子の一言目を待って嬉しそうに顔を上げたりしない。
皆、うっすらと緊張し、しかもその緊張は敬意からくるものではなく、“失敗しないようにしよう”という種類のものだった。
カイルはそれを見た瞬間、胸の奥がざらついた。
「楽にしろ」
椅子へ座りながら言う。
声はいつも通りのつもりだったが、少し硬かった。
全員が座る。
そして、そこから先が続かない。
以前なら、誰かがすぐに口を開いた。
狩りの話でも、舞踏会の噂でも、新しい酒の話でもいい。とにかく王太子が黙っていても、誰かが場を温めた。
今は違う。
誰も、自分から場を動かそうとしない。
カイルはそれに耐えかねて、自分から口を開いた。
「近ごろ、王都はずいぶん騒がしいな」
無難な話題だった。
だが、返ってきたのはさらに無難な答えだった。
「はい、殿下」
それだけ。
会話にならない。
カイルは眉を寄せる。
「それで終わりか」
六人のうち、一人が慌てて言葉を継いだ。
「その……各家でも、いろいろと確認事が増えているようでございます」
「確認事?」
「はい。支払いのことや、後援の扱いなど……」
口にしながら、その青年自身が居心地悪そうに目を伏せる。
言ってはいけない話題へ半歩踏み込んだと、自分でも分かっているのだろう。
カイルはその顔を見て、苛立った。
「結局、お前たちもその話か」
「いえ、そういうつもりでは」
「では何だ」
返答がない。
また沈黙が落ちる。
その沈黙の中で、カイルは嫌でも理解し始めていた。
もう誰も、自分を持ち上げてくれない。
少し気の利いた追従も。
機嫌を取るための軽口も。
“さすが殿下”と場を整える言葉も。
どれもない。
皆、自分がどこまで安全に座っていられるかだけを考えている。
この席にいる意味が、自分のためではなく、自分たちの体面のために変わってしまっている。
「……つまらんな」
思わず零れた言葉は、本音だった。
その一言に、場の空気がまた少し冷える。
若い貴族たちは誰も顔を上げない。
つまらないのは、こちらも同じだ。
そう思っていたとしても、もちろん誰も口にはしない。
カイルはふいに、自分がひどく間抜けに思えた。
王太子として席に座っている。
だが、その席にはもはや何の熱もない。
誰もこの場を楽しんでいないし、誰も自分を中心に見ていない。
ただ、必要だから座っているだけだ。
それは王太子にとって、かなり屈辱的な現実だった。
小会合は、予定よりずっと早く終わった。
誰も引き留めようとしない。
カイルも、続けたいとは思わなかった。
部屋を出るとき、参加者たちは一礼したが、その顔をまともに見る気になれなかった。
見ると分かってしまうからだ。
彼らが今、この席にいた自分たちを少し恥じていることが。
そしてそれと同時に、自分の近くにいることそのものが、もう誇りではなくなっていることが。
王宮の回廊へ出たあとも、そのざらつきは消えなかった。
風はない。
足音だけが石床に響く。
だが、その一歩一歩のたびに、自分がどんどん空っぽな場所へ追いやられていくような感覚があった。
叱責より痛いのは、こういうことなのだと、彼はようやく本気で思い始めていた。
本邸では、その頃ミレイユが礼法教師を迎える準備をしていた。
迎える、といっても華やかなものではない。机の位置を整え、椅子を余計に豪奢なものから普通のものへ替え、筆記具を揃え、侍女へ必要なものだけを残して下がるよう指示する。そのひとつひとつが、今の彼女には不慣れだった。
けれど、やっていた。
自分で。
「そこは、もう少し簡素でいいわ」
リナに言いながら、自分でも少し驚いている顔だった。
以前なら、豪華であることの方を喜んだだろう。
だが今は違う。
相手が何を見ているかを、少しずつ考え始めている。
「ミレイユ様」
リナがそっと言う。
「お疲れではありませんか」
「疲れてるわ」
ミレイユは正直に答える。
「でも、何もしないまま待つ方がもっと嫌なの」
その言葉に、リナは何も返せなかった。
昔のミレイユなら絶対に口にしなかった言葉だったからだ。
待つ方が嫌。
つまり、もう“誰かが整えてくれる”ことを当然と思っていない。
それは遅い変化だったが、本物でもあった。
別邸では、夕方にその両方の報せが届いていた。
「殿下の小会合ですが」
グラントが言う。
「かなり冷えたものになったようです」
「そう」
「誰も殿下を持ち上げず、場も続かず、予定より早くお開きになったとか」
マリアベルが静かに息をつく。
「とうとう、そこまで」
「ええ」
リディアナは窓の外を見た。
夕方の光はやわらかい。
けれど、その柔らかさとは裏腹に、話の中身は冷えきっていた。
「義妹様の方は、礼法教師を迎える準備を自分で進めているようです」
「へえ」
リディアナは少しだけ目を細めた。
「それは、良い変化ね」
「殿下とは対照的でございますな」
グラントが低く言う。
「ええ」
リディアナは短く答えた。
「殿下は、まだ誰かが自分の席を温めてくれると思っている。でも義妹は、ようやく自分で椅子を引こうとし始めた」
その違いは大きかった。
王太子は、高い席に座っているつもりでいる。
けれど、その席はもう冷えきっている。
誰も持ち上げず、誰も笑わず、誰も“そこにいて気持ちよくなれる空気”を作ってくれない。
その一方で、義妹は低いところから始めている。
頭を下げ、教えを乞い、自分の不出来さを前提に準備をしている。
もちろん今さら遅い。
足りないものも多すぎる。
けれど、それでも差は出る。
「王太子は、もう誰も自分を持ち上げてくれない席に座ったのね」
リディアナが言う。
「はい」
「それは思った以上に、堪えるでしょうな」
グラントの声に、彼女は静かにうなずいた。
「ええ。高い席に座っているほど、寒さは目立つもの」
その言葉は冷たかったが、正確だった。
人は低い場所で恥を知るより、高い場所で空っぽを晒す方が苦しい。
王太子は今、まさにその苦しさを味わい始めているのだ。
翌日の王宮は、やけに静かだった。
静かなのはいつものことだ。王宮とは本来そういう場所で、無駄な私語も物音も嫌われる。だが今日の静けさは、規律というより空白に近かった。
王太子の周囲に、無駄な声がなくなっているのだ。
以前なら、朝の控えの間には必ず何人かの若い貴族子息がいた。顔を見せ、軽口を叩き、昨夜の遊びや次の催しの話を持ち込み、王太子の気分がよければ一緒に笑う。そういう、実のない賑やかさがあった。
今はない。
人がいないわけではない。
侍従はいる。
女官もいる。
補佐官も控えている。
だが彼らは最初から“職務でいる者”だ。
王太子その人を面白がり、持ち上げ、中心に据えて場を温める種類の人間がいない。
その違いは、思っている以上に大きかった。
カイルは朝から不機嫌だった。
いや、不機嫌というより、座り心地の悪さを隠せずにいる顔だった。執務机に向かっても落ち着かず、届いた一覧をめくっては置き、補佐官が確認を求めれば返答が一拍遅れる。
集中できていない。
それは誰の目にも明らかだった。
「殿下、本日午後の小会合ですが」
侍従長補佐が静かに言う。
「何だ」
「規模を縮小したうえで、そのまま行う形に整いました」
「……そうか」
短い返答だった。
本来なら、王太子が人を集める側である。
なのに今は、人が集まらないから縮小する。
その事実そのものが、彼の神経を逆撫でしていた。
「参加者は」
「六名にございます」
もともとは、倍以上の予定だった。
その数字を口に出されるだけで惨めだったのか、カイルは机の上の紙を指先で叩いた。
「少ないな」
「はい。ですが、この方がまとまりはよろしいかと」
補佐官の言い方は丁寧だった。
けれど、その丁寧さがまた、どこか慰めめいて聞こえる。
惨めな王太子へ“このくらいがちょうどよろしいのでは”と遠回しに言われている気がして、カイルは気分が悪くなった。
「余計な気遣いは要らん」
「失礼いたしました」
補佐官はすぐに下がる。
だが、その去り際までどこか慎重で、そこにもまた以前との違いがあった。
誰も、この男の機嫌を本気でよくしようとしていない。
ただ荒れさせないようにしているだけだ。
午後、小会合は王宮内の中広間で行われた。
以前なら、もう少し広い部屋が使われただろう。
参加者も多く、酒や軽食ももう少し華やかだったはずだ。けれど今は違う。人数に見合った小ぶりの部屋。整ってはいるが、どこか控えめな設え。あまりに現実的で、夢がない。
カイルが入ると、すでに集まっていた若手貴族たちが一斉に立ち上がった。
礼はする。
動きに乱れもない。
だが、その場に漂う空気は冷えていた。
誰も笑っていない。
誰も、王太子の一言目を待って嬉しそうに顔を上げたりしない。
皆、うっすらと緊張し、しかもその緊張は敬意からくるものではなく、“失敗しないようにしよう”という種類のものだった。
カイルはそれを見た瞬間、胸の奥がざらついた。
「楽にしろ」
椅子へ座りながら言う。
声はいつも通りのつもりだったが、少し硬かった。
全員が座る。
そして、そこから先が続かない。
以前なら、誰かがすぐに口を開いた。
狩りの話でも、舞踏会の噂でも、新しい酒の話でもいい。とにかく王太子が黙っていても、誰かが場を温めた。
今は違う。
誰も、自分から場を動かそうとしない。
カイルはそれに耐えかねて、自分から口を開いた。
「近ごろ、王都はずいぶん騒がしいな」
無難な話題だった。
だが、返ってきたのはさらに無難な答えだった。
「はい、殿下」
それだけ。
会話にならない。
カイルは眉を寄せる。
「それで終わりか」
六人のうち、一人が慌てて言葉を継いだ。
「その……各家でも、いろいろと確認事が増えているようでございます」
「確認事?」
「はい。支払いのことや、後援の扱いなど……」
口にしながら、その青年自身が居心地悪そうに目を伏せる。
言ってはいけない話題へ半歩踏み込んだと、自分でも分かっているのだろう。
カイルはその顔を見て、苛立った。
「結局、お前たちもその話か」
「いえ、そういうつもりでは」
「では何だ」
返答がない。
また沈黙が落ちる。
その沈黙の中で、カイルは嫌でも理解し始めていた。
もう誰も、自分を持ち上げてくれない。
少し気の利いた追従も。
機嫌を取るための軽口も。
“さすが殿下”と場を整える言葉も。
どれもない。
皆、自分がどこまで安全に座っていられるかだけを考えている。
この席にいる意味が、自分のためではなく、自分たちの体面のために変わってしまっている。
「……つまらんな」
思わず零れた言葉は、本音だった。
その一言に、場の空気がまた少し冷える。
若い貴族たちは誰も顔を上げない。
つまらないのは、こちらも同じだ。
そう思っていたとしても、もちろん誰も口にはしない。
カイルはふいに、自分がひどく間抜けに思えた。
王太子として席に座っている。
だが、その席にはもはや何の熱もない。
誰もこの場を楽しんでいないし、誰も自分を中心に見ていない。
ただ、必要だから座っているだけだ。
それは王太子にとって、かなり屈辱的な現実だった。
小会合は、予定よりずっと早く終わった。
誰も引き留めようとしない。
カイルも、続けたいとは思わなかった。
部屋を出るとき、参加者たちは一礼したが、その顔をまともに見る気になれなかった。
見ると分かってしまうからだ。
彼らが今、この席にいた自分たちを少し恥じていることが。
そしてそれと同時に、自分の近くにいることそのものが、もう誇りではなくなっていることが。
王宮の回廊へ出たあとも、そのざらつきは消えなかった。
風はない。
足音だけが石床に響く。
だが、その一歩一歩のたびに、自分がどんどん空っぽな場所へ追いやられていくような感覚があった。
叱責より痛いのは、こういうことなのだと、彼はようやく本気で思い始めていた。
本邸では、その頃ミレイユが礼法教師を迎える準備をしていた。
迎える、といっても華やかなものではない。机の位置を整え、椅子を余計に豪奢なものから普通のものへ替え、筆記具を揃え、侍女へ必要なものだけを残して下がるよう指示する。そのひとつひとつが、今の彼女には不慣れだった。
けれど、やっていた。
自分で。
「そこは、もう少し簡素でいいわ」
リナに言いながら、自分でも少し驚いている顔だった。
以前なら、豪華であることの方を喜んだだろう。
だが今は違う。
相手が何を見ているかを、少しずつ考え始めている。
「ミレイユ様」
リナがそっと言う。
「お疲れではありませんか」
「疲れてるわ」
ミレイユは正直に答える。
「でも、何もしないまま待つ方がもっと嫌なの」
その言葉に、リナは何も返せなかった。
昔のミレイユなら絶対に口にしなかった言葉だったからだ。
待つ方が嫌。
つまり、もう“誰かが整えてくれる”ことを当然と思っていない。
それは遅い変化だったが、本物でもあった。
別邸では、夕方にその両方の報せが届いていた。
「殿下の小会合ですが」
グラントが言う。
「かなり冷えたものになったようです」
「そう」
「誰も殿下を持ち上げず、場も続かず、予定より早くお開きになったとか」
マリアベルが静かに息をつく。
「とうとう、そこまで」
「ええ」
リディアナは窓の外を見た。
夕方の光はやわらかい。
けれど、その柔らかさとは裏腹に、話の中身は冷えきっていた。
「義妹様の方は、礼法教師を迎える準備を自分で進めているようです」
「へえ」
リディアナは少しだけ目を細めた。
「それは、良い変化ね」
「殿下とは対照的でございますな」
グラントが低く言う。
「ええ」
リディアナは短く答えた。
「殿下は、まだ誰かが自分の席を温めてくれると思っている。でも義妹は、ようやく自分で椅子を引こうとし始めた」
その違いは大きかった。
王太子は、高い席に座っているつもりでいる。
けれど、その席はもう冷えきっている。
誰も持ち上げず、誰も笑わず、誰も“そこにいて気持ちよくなれる空気”を作ってくれない。
その一方で、義妹は低いところから始めている。
頭を下げ、教えを乞い、自分の不出来さを前提に準備をしている。
もちろん今さら遅い。
足りないものも多すぎる。
けれど、それでも差は出る。
「王太子は、もう誰も自分を持ち上げてくれない席に座ったのね」
リディアナが言う。
「はい」
「それは思った以上に、堪えるでしょうな」
グラントの声に、彼女は静かにうなずいた。
「ええ。高い席に座っているほど、寒さは目立つもの」
その言葉は冷たかったが、正確だった。
人は低い場所で恥を知るより、高い場所で空っぽを晒す方が苦しい。
王太子は今、まさにその苦しさを味わい始めているのだ。
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