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第二十九話 義妹は、初めて叱られて逃げませんでした
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第二十九話 義妹は、初めて叱られて逃げませんでした
礼法教師が本邸へ来る日、朝から屋敷の空気は妙に張っていた。
華やかな客を迎える時の浮き立った緊張ではない。
もっと地味で、重くて、言い訳のきかない種類の緊張だ。
使用人たちも、それをよく分かっていた。
今日来るのは、甘い言葉をくれる客ではない。
娘の機嫌を取るための相手でもない。
足りないところを、足りないとそのまま言う人間だ。
それはこの屋敷にとって、あまり慣れた空気ではなかった。
ミレイユは朝から落ち着かなかった。
落ち着かないといっても、以前のように苛立って侍女へ当たり散らすのではない。支度を何度も見直し、部屋の卓の位置を確かめ、ノート代わりに用意した紙を整え、また読みかけの礼法書を開いては閉じる。そういう、逃げたいくせに逃げたくない者の落ち着かなさだった。
「お茶はこのくらいでいいかしら」
「はい。ですが先生は、授業中はほとんど手をつけられないかもしれません」
リナが答える。
「そう」
「……怖いですか」
その問いに、ミレイユは少し黙った。
そして、小さく答える。
「怖いわ」
否定しなかった。
そこが、前とは違っていた。
「でも、怖いからやめるのは、もっと嫌」
リナは何も言わず頭を下げた。
その頃、ヘレナは自室で落ち着かない時間を過ごしていた。
自分が呼んだわけでもない教師が屋敷へ入る。しかも今さら娘に、足りないものを一つずつ教え込むために。
それは本来なら、自分がもっと早く整えておくべきことだった。
そう思えば思うほど、気分が悪くなる。
だからといって止めることもできない。
止めれば、自分が何も与えなかった母だと、ますますはっきりしてしまうからだ。
「奥様」
控えていた侍女が告げる。
「先生が到着なさいました」
ヘレナは指先をわずかに握り、それから平然とした声を作った。
「……応接間ではなく、ミレイユの部屋へ直接お通しして」
「かしこまりました」
やがて廊下の向こうから、規則正しい足音が近づいてきた。
ミレイユの部屋へ通されたのは、以前と変わらぬ年配の女性だった。
灰色がかった髪をきっちりとまとめ、飾り気のない濃紺のドレスを隙なく着こなしている。美しいというより、無駄がない。姿勢の一本までが“整っている”人だった。
ミレイユは立ち上がり、一礼した。
少しぎこちない。
だが、逃げなかった。
教師はその動きを一目見て、淡々と言った。
「以前よりは、ましになられました」
それは褒め言葉ではない。
だが完全な否定でもなかった。
ミレイユは少しだけ息を詰め、それでも答える。
「ありがとうございます」
教師の片眉が、ごくわずかに上がる。
礼を言うとは思っていなかったのかもしれない。
「では始めましょう」
その一言で、空気が変わった。
最初は座り方からだった。
椅子の引き方。
腰の落とし方。
膝の向き。
手の置き方。
どれもミレイユには窮屈で、ぎこちなく、思った以上に難しかった。
「違います」
教師が言う。
「背を反らせるのではなく、積み上げるのです」
「はい」
やり直す。
「違います」
「顎が上がりすぎです」
「……はい」
またやり直す。
十分もしないうちに、ミレイユの背にはうっすら汗が滲み始めた。
だが教師は止めない。
「あなたは今まで、“可愛らしく見える角度”ばかりを覚えてこられたのでしょう」
不意に言われ、ミレイユの肩が揺れた。
図星だった。
正面を向かず、少し首を傾ける。
目を丸くし、伏せ、困ったように笑う。
そういう仕草ばかりを、自分は磨いてきたのだと、今なら分かる。
「ですが淑女に必要なのは、愛らしく見えることではありません」
教師は静かに続けた。
「まず、自分の身体を自分で支えることです」
その言葉は、礼法の話なのに、なぜか胸の奥まで刺さった。
自分の身体を自分で支える。
ミレイユは一瞬だけ目を伏せた。
それは、今の自分にいちばん足りないものだったからだ。
次は挨拶。
次は返答。
次は、紹介された相手へどう視線を向けるか。
教師の指摘は容赦がなかった。
「語尾が曖昧です」
「笑って誤魔化さない」
「聞き取れぬ返事は、返していないのと同じです」
「それは媚びであって礼ではありません」
ひとつ言われるたびに、ミレイユの頬が熱くなる。
恥ずかしかった。
情けなかった。
逃げたかった。
以前の自分なら、もう泣いていたかもしれない。機嫌を損ねたふりをして、今日は体調が悪いのだと終わらせたかもしれない。
けれど今日は違った。
「もう一度」
教師が言う。
ミレイユは唇を引き結ぶ。
「はい」
やり直す。
うまくいかない。
また言われる。
またやり直す。
その繰り返しだった。
部屋の外で控えていたリナは、途中から胸が痛くなってきていた。
あまりに容赦がないからではない。
ミレイユが逃げないからだ。
こんなふうに真正面から足りなさを突きつけられて、それでも座ったままでいる姿を、彼女は初めて見た。
廊下の向こうでは、ヘレナもまた落ち着かずに歩いていた。
最初は、自室で待つつもりだった。
だが結局じっとしていられず、娘の部屋に近い回廊まで出てきてしまったのだ。
扉越しに聞こえる教師の声は冷たい。
だが正しい。
その正しさが、ヘレナにはひどく耳障りだった。
「違います」
「そこは頭を下げるところではなく、視線を止めるところです」
「その曖昧な笑みをやめなさい」
曖昧な笑み。
ヘレナは思わず立ち止まった。
それは、まるで自分が娘へ教え込んできたもの全部を否定されているようだった。
可愛らしく見えればいい。
困った顔が似合えばいい。
少し守ってやりたくなる方が得だ。
そうやって仕込んできたものが、今、この部屋の中で一つずつ“不要”と切り捨てられている。
しかも娘は、それに耐えている。
逃げずに、聞いている。
その事実が、ヘレナには苦かった。
授業が終わったのは、昼をかなり回ってからだった。
教師が部屋を出るとき、ミレイユは立ち上がった。
最初よりはましな一礼だった。
けれど足は少し震えている。
教師はそれを見て、初めてほんの少しだけ声を和らげた。
「今日はここまでにいたしましょう」
「はい」
「明日、身体が痛むはずです」
ミレイユが目を瞬く。
「身体、ですか」
「当然です。今まで使っていなかった筋と意識を使いましたから」
教師は淡々と言う。
「ですが、それは悪いことではありません」
その一言だけが、わずかな労いだった。
ミレイユは小さく息を吐き、そして言った。
「ありがとうございました」
それは朝より少しだけ、形になっていた。
教師が去ったあと、部屋にはしばらく静けさが残った。
リナがおそるおそる入る。
「ミレイユ様……大丈夫ですか」
ミレイユは椅子へ座ったまま、しばらく返事をしなかった。
それから、疲れ切った顔で笑う。
「全然大丈夫じゃないわ」
その正直さに、リナは少しだけほっとする。
「でも」
ミレイユは自分の手を見た。
さっきまで何度も何度も置き方を直された手だ。
「逃げなかった」
ぽつりと言ったその一言は、小さいのに重かった。
自分で言って、自分で確かめているようだった。
逃げなかった。
叱られた。
恥をかいた。
何度も直された。
それでも席を立たなかった。
それは、彼女にとって初めてのことだった。
その頃、王宮ではカイルがさらに嫌な現実に触れていた。
午後の執務の合間、侍従長補佐が新たな連絡を持ってくる。
「殿下、明日の訪問予定ですが、ラスティン侯爵家より延期の願い出が」
「またか」
「はい。ご当主の急な体調不良により」
「もういい」
カイルは手で制した。
聞き飽きた。
皆、同じような理由で離れていく。
病人、領地、家内事情。
理由そのものはどうでもよかった。
問題は、自分がもう優先されていないことだった。
しかも、そのことが日に日に露骨になっている。
「……誰も彼も」
小さく漏らした声に、補佐は答えない。
答えられるはずがない。
王太子は今、自分が切り捨てたものの大きさより、自分から離れていく人の数の方ばかりを見ている。
それがまた、周囲には情けなく映るのだろう。
別邸では夕方、グラントがその両方を報告していた。
「義妹様ですが」
「ええ」
「かなり厳しく叱られたようです。けれど、一度も席を立たなかったとか」
リディアナは静かに顔を上げた。
「そう」
「はい。初めてだったようです」
マリアベルが小さく息をつく。
「それは……大きいですね」
「ええ」
リディアナは頷いた。
「叱られて逃げないのは、思った以上に難しいもの」
「殿下の方は?」
「また一件、訪問が延期になったようです」
その対比があまりに鮮やかで、リディアナは一瞬だけ目を伏せた。
一方は、叱られても席を立たなかった。
もう一方は、誰も自分の席を守ってくれない現実に、日ごと追い詰められている。
どちらも苦しいだろう。
だが、苦しみの質が違う。
「義妹は、初めて叱られて逃げなかったのね」
「はい」
「なら、その一日だけは意味があるわ」
グラントがうなずく。
「殿下には、そうした意味のある一日がございませんな」
「ええ」
リディアナは窓の外を見た。
夕方の庭は静かだった。
誰も騒いでいない。
けれどその静けさの中で、確かに差が開き始めている。
叱られ、恥をかき、それでも自分から席に座り続けた者。
笑われ、避けられ、なお自分が当然持ち上げられるべきだと思っている者。
その差はすぐには見えないかもしれない。
けれど、あとになって必ず効いてくる。
「継母の方は」
マリアベルが問う。
「苦しいでしょうね」
リディアナは静かに答えた。
「娘が叱られて育ち始めるたび、自分が何も与えてこなかったことを突きつけられるんだもの」
それはたぶん、王太子が笑われる痛みによく似ている。
失ったものや足りなかったものを、日々、目の前で見せつけられる苦しみだ。
ただし、継母と王太子では決定的に違う。
娘は少しずつ学び始めた。
王太子は、まだ学ぶより先に苛立っている。
その違いが、この先また大きく開いていくのだろう。
「苦しいなら、なおさらでしょうね」
リディアナは小さく言った。
「本物になるには、逃げないことしかないもの」
礼法教師が本邸へ来る日、朝から屋敷の空気は妙に張っていた。
華やかな客を迎える時の浮き立った緊張ではない。
もっと地味で、重くて、言い訳のきかない種類の緊張だ。
使用人たちも、それをよく分かっていた。
今日来るのは、甘い言葉をくれる客ではない。
娘の機嫌を取るための相手でもない。
足りないところを、足りないとそのまま言う人間だ。
それはこの屋敷にとって、あまり慣れた空気ではなかった。
ミレイユは朝から落ち着かなかった。
落ち着かないといっても、以前のように苛立って侍女へ当たり散らすのではない。支度を何度も見直し、部屋の卓の位置を確かめ、ノート代わりに用意した紙を整え、また読みかけの礼法書を開いては閉じる。そういう、逃げたいくせに逃げたくない者の落ち着かなさだった。
「お茶はこのくらいでいいかしら」
「はい。ですが先生は、授業中はほとんど手をつけられないかもしれません」
リナが答える。
「そう」
「……怖いですか」
その問いに、ミレイユは少し黙った。
そして、小さく答える。
「怖いわ」
否定しなかった。
そこが、前とは違っていた。
「でも、怖いからやめるのは、もっと嫌」
リナは何も言わず頭を下げた。
その頃、ヘレナは自室で落ち着かない時間を過ごしていた。
自分が呼んだわけでもない教師が屋敷へ入る。しかも今さら娘に、足りないものを一つずつ教え込むために。
それは本来なら、自分がもっと早く整えておくべきことだった。
そう思えば思うほど、気分が悪くなる。
だからといって止めることもできない。
止めれば、自分が何も与えなかった母だと、ますますはっきりしてしまうからだ。
「奥様」
控えていた侍女が告げる。
「先生が到着なさいました」
ヘレナは指先をわずかに握り、それから平然とした声を作った。
「……応接間ではなく、ミレイユの部屋へ直接お通しして」
「かしこまりました」
やがて廊下の向こうから、規則正しい足音が近づいてきた。
ミレイユの部屋へ通されたのは、以前と変わらぬ年配の女性だった。
灰色がかった髪をきっちりとまとめ、飾り気のない濃紺のドレスを隙なく着こなしている。美しいというより、無駄がない。姿勢の一本までが“整っている”人だった。
ミレイユは立ち上がり、一礼した。
少しぎこちない。
だが、逃げなかった。
教師はその動きを一目見て、淡々と言った。
「以前よりは、ましになられました」
それは褒め言葉ではない。
だが完全な否定でもなかった。
ミレイユは少しだけ息を詰め、それでも答える。
「ありがとうございます」
教師の片眉が、ごくわずかに上がる。
礼を言うとは思っていなかったのかもしれない。
「では始めましょう」
その一言で、空気が変わった。
最初は座り方からだった。
椅子の引き方。
腰の落とし方。
膝の向き。
手の置き方。
どれもミレイユには窮屈で、ぎこちなく、思った以上に難しかった。
「違います」
教師が言う。
「背を反らせるのではなく、積み上げるのです」
「はい」
やり直す。
「違います」
「顎が上がりすぎです」
「……はい」
またやり直す。
十分もしないうちに、ミレイユの背にはうっすら汗が滲み始めた。
だが教師は止めない。
「あなたは今まで、“可愛らしく見える角度”ばかりを覚えてこられたのでしょう」
不意に言われ、ミレイユの肩が揺れた。
図星だった。
正面を向かず、少し首を傾ける。
目を丸くし、伏せ、困ったように笑う。
そういう仕草ばかりを、自分は磨いてきたのだと、今なら分かる。
「ですが淑女に必要なのは、愛らしく見えることではありません」
教師は静かに続けた。
「まず、自分の身体を自分で支えることです」
その言葉は、礼法の話なのに、なぜか胸の奥まで刺さった。
自分の身体を自分で支える。
ミレイユは一瞬だけ目を伏せた。
それは、今の自分にいちばん足りないものだったからだ。
次は挨拶。
次は返答。
次は、紹介された相手へどう視線を向けるか。
教師の指摘は容赦がなかった。
「語尾が曖昧です」
「笑って誤魔化さない」
「聞き取れぬ返事は、返していないのと同じです」
「それは媚びであって礼ではありません」
ひとつ言われるたびに、ミレイユの頬が熱くなる。
恥ずかしかった。
情けなかった。
逃げたかった。
以前の自分なら、もう泣いていたかもしれない。機嫌を損ねたふりをして、今日は体調が悪いのだと終わらせたかもしれない。
けれど今日は違った。
「もう一度」
教師が言う。
ミレイユは唇を引き結ぶ。
「はい」
やり直す。
うまくいかない。
また言われる。
またやり直す。
その繰り返しだった。
部屋の外で控えていたリナは、途中から胸が痛くなってきていた。
あまりに容赦がないからではない。
ミレイユが逃げないからだ。
こんなふうに真正面から足りなさを突きつけられて、それでも座ったままでいる姿を、彼女は初めて見た。
廊下の向こうでは、ヘレナもまた落ち着かずに歩いていた。
最初は、自室で待つつもりだった。
だが結局じっとしていられず、娘の部屋に近い回廊まで出てきてしまったのだ。
扉越しに聞こえる教師の声は冷たい。
だが正しい。
その正しさが、ヘレナにはひどく耳障りだった。
「違います」
「そこは頭を下げるところではなく、視線を止めるところです」
「その曖昧な笑みをやめなさい」
曖昧な笑み。
ヘレナは思わず立ち止まった。
それは、まるで自分が娘へ教え込んできたもの全部を否定されているようだった。
可愛らしく見えればいい。
困った顔が似合えばいい。
少し守ってやりたくなる方が得だ。
そうやって仕込んできたものが、今、この部屋の中で一つずつ“不要”と切り捨てられている。
しかも娘は、それに耐えている。
逃げずに、聞いている。
その事実が、ヘレナには苦かった。
授業が終わったのは、昼をかなり回ってからだった。
教師が部屋を出るとき、ミレイユは立ち上がった。
最初よりはましな一礼だった。
けれど足は少し震えている。
教師はそれを見て、初めてほんの少しだけ声を和らげた。
「今日はここまでにいたしましょう」
「はい」
「明日、身体が痛むはずです」
ミレイユが目を瞬く。
「身体、ですか」
「当然です。今まで使っていなかった筋と意識を使いましたから」
教師は淡々と言う。
「ですが、それは悪いことではありません」
その一言だけが、わずかな労いだった。
ミレイユは小さく息を吐き、そして言った。
「ありがとうございました」
それは朝より少しだけ、形になっていた。
教師が去ったあと、部屋にはしばらく静けさが残った。
リナがおそるおそる入る。
「ミレイユ様……大丈夫ですか」
ミレイユは椅子へ座ったまま、しばらく返事をしなかった。
それから、疲れ切った顔で笑う。
「全然大丈夫じゃないわ」
その正直さに、リナは少しだけほっとする。
「でも」
ミレイユは自分の手を見た。
さっきまで何度も何度も置き方を直された手だ。
「逃げなかった」
ぽつりと言ったその一言は、小さいのに重かった。
自分で言って、自分で確かめているようだった。
逃げなかった。
叱られた。
恥をかいた。
何度も直された。
それでも席を立たなかった。
それは、彼女にとって初めてのことだった。
その頃、王宮ではカイルがさらに嫌な現実に触れていた。
午後の執務の合間、侍従長補佐が新たな連絡を持ってくる。
「殿下、明日の訪問予定ですが、ラスティン侯爵家より延期の願い出が」
「またか」
「はい。ご当主の急な体調不良により」
「もういい」
カイルは手で制した。
聞き飽きた。
皆、同じような理由で離れていく。
病人、領地、家内事情。
理由そのものはどうでもよかった。
問題は、自分がもう優先されていないことだった。
しかも、そのことが日に日に露骨になっている。
「……誰も彼も」
小さく漏らした声に、補佐は答えない。
答えられるはずがない。
王太子は今、自分が切り捨てたものの大きさより、自分から離れていく人の数の方ばかりを見ている。
それがまた、周囲には情けなく映るのだろう。
別邸では夕方、グラントがその両方を報告していた。
「義妹様ですが」
「ええ」
「かなり厳しく叱られたようです。けれど、一度も席を立たなかったとか」
リディアナは静かに顔を上げた。
「そう」
「はい。初めてだったようです」
マリアベルが小さく息をつく。
「それは……大きいですね」
「ええ」
リディアナは頷いた。
「叱られて逃げないのは、思った以上に難しいもの」
「殿下の方は?」
「また一件、訪問が延期になったようです」
その対比があまりに鮮やかで、リディアナは一瞬だけ目を伏せた。
一方は、叱られても席を立たなかった。
もう一方は、誰も自分の席を守ってくれない現実に、日ごと追い詰められている。
どちらも苦しいだろう。
だが、苦しみの質が違う。
「義妹は、初めて叱られて逃げなかったのね」
「はい」
「なら、その一日だけは意味があるわ」
グラントがうなずく。
「殿下には、そうした意味のある一日がございませんな」
「ええ」
リディアナは窓の外を見た。
夕方の庭は静かだった。
誰も騒いでいない。
けれどその静けさの中で、確かに差が開き始めている。
叱られ、恥をかき、それでも自分から席に座り続けた者。
笑われ、避けられ、なお自分が当然持ち上げられるべきだと思っている者。
その差はすぐには見えないかもしれない。
けれど、あとになって必ず効いてくる。
「継母の方は」
マリアベルが問う。
「苦しいでしょうね」
リディアナは静かに答えた。
「娘が叱られて育ち始めるたび、自分が何も与えてこなかったことを突きつけられるんだもの」
それはたぶん、王太子が笑われる痛みによく似ている。
失ったものや足りなかったものを、日々、目の前で見せつけられる苦しみだ。
ただし、継母と王太子では決定的に違う。
娘は少しずつ学び始めた。
王太子は、まだ学ぶより先に苛立っている。
その違いが、この先また大きく開いていくのだろう。
「苦しいなら、なおさらでしょうね」
リディアナは小さく言った。
「本物になるには、逃げないことしかないもの」
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