婚約破棄で終わるはずでしたのに、気づけば全部あなた方が崩れておりました

しおしお

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第三十話 王太子は、初めて自分から席を立ちました

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第三十話 王太子は、初めて自分から席を立ちました

王宮の夜は、昼より静かだ。

だが静かだからこそ、昼間に受けた小さな傷がよく響く。

その夜、カイルは自室に戻ってからもしばらく椅子へ座ったまま動けなかった。机の上には、今日も処理しきれなかった書類が残っている。訪問延期の連絡、支払い整理の確認、王妃付きから回された一覧の写し。どれもこれも、目を通しただけで気分が悪くなるものばかりだった。

以前なら、こういうものは気づけば片づいていた。

自分が一つひとつ向き合う必要などなかった。

必要な形に整えられ、面倒な角を削られ、自分の前には“殿下、こちらへご署名を”という形で出されていた。

それが今は違う。

何も整わない。

誰も先に消してくれない。

そして、そのことを認めるのもまた不快だった。

「殿下」

扉の外から、控えめな声がした。

侍従だ。

「何だ」

「本日の未確認案件につきまして、明朝に持ち越すものを分けておきますか」

一瞬、返事が遅れた。

以前なら、“好きにしろ”で済ませただろう。だが今は、その“好きにしろ”すら危うい。なぜなら侍従たちも、もう以前のように“殿下の代わりにうまくやっておこう”とは思っていない気配があるからだ。

雑に返せば、本当に雑に処理されるかもしれない。

そんな疑いがよぎること自体、もう王太子としてはかなり終わっていた。

「……重要なものだけ残せ」

「かしこまりました」

侍従の足音が遠ざかる。

その足音を聞きながら、カイルはふいに疲れを感じた。

怒りではない。

苛立ちでもない。

もっと重くて、鈍いものだ。

誰も持ち上げてくれない。

誰も先回りして笑顔を差し出さない。

そして何より、自分がそういう扱いを失ったことを、もう自分でも感じ取っている。

それが王太子にとって、こんなにも息苦しいとは思わなかった。

翌朝、王妃ロザリアは珍しく、朝食の席にカイルを呼んだ。

呼んだと言っても、親子水入らずの会話を望んだわけではない。むしろ逆だ。執務室ではなく食卓で会わせることで、息子が逃げ場のない形で現実と向き合うかを見るつもりなのだろう。

食堂には、無駄のない整った朝食が並んでいた。

焼きたてのパン、温かなスープ、薄切りの果物、卵料理。

どれも完璧だ。

だが、その完璧さが今のカイルにはかえって窮屈だった。

ロザリアは先に席についていた。

「座りなさい」

「……はい」

カイルは短く返し、向かいへ座る。

給仕が音もなく皿を置く。

しばらくは食器の触れ合う音だけが続いた。

以前なら、この沈黙に母の苛立ちを感じただろう。だが今は違う。ロザリアは怒っているというより、測っている。息子がどれほど現実を飲み込めるかを見ている。

その冷静さが、またきつかった。

「昨日の小会合は」

ロザリアが先に口を開く。

「予定通り行ったそうね」

「はい」

「どうでした」

答えづらい問いだった。

楽しかったとは言えない。

充実していたとも言えない。

冷えていた、と言ってしまえば、自分の惨めさを認めることになる。

カイルは少し黙ってから答えた。

「問題なく終わりました」

ロザリアはバターを薄く塗ったパンを皿へ置いた。

「問題なく、とは便利な言葉ね」

その一言で、返答が薄かったことを見抜かれたと分かった。

「実際、そうです」

「人は足りていたの?」

カイルの手がわずかに止まる。

「……少なかったですが」

「ですが?」

「支障はありませんでした」

ロザリアはそこで初めて、まっすぐ息子を見た。

「支障がないことと、恥をかかないことは別ですよ」

カイルの胸がざらつく。

恥。

今の自分に一番触れられたくない言葉だった。

「母上は、何をそこまで」

「何を、ですって?」

ロザリアの声は穏やかだった。

だが、その穏やかさの方が怖い。

「私は、王家が笑われる理由を減らしたいだけよ」

「あなたが傷つくかどうかではなく?」

「今のところは、そちらの方が軽いわ」

その言葉は冷酷だった。

けれど、もうカイルには言い返す言葉がなかった。

以前なら、母はもっと感情でぶつかってきた。怒り、失望し、ため息をつき、それでも最後にはどこかで息子を“まだ守るべきもの”として見ていた。

今は違う。

守るより先に切り分けている。

王家の傷と、息子個人の傷を。

そこまで来てしまったのだ。

朝食のあと、カイルは珍しくそのまま中庭へ出た。

執務室へ戻る気になれなかった。

中庭では、下働きの若者たちが朝の片づけをしている。普段なら目にも留めない光景だ。だが今は、彼らの視線が自分へ向くたび、ほんのわずかに背筋が固くなる。

笑っているわけではない。

無礼でもない。

ただ、一礼したあとの目が、昔より早く逸れる。

それだけで十分だった。

自分が“見ていたい相手”ではなくなっている。

その感覚が、鈍い痛みになって広がる。

「殿下」

背後から補佐官の声がした。

「……何だ」

「本日の午後、王妃殿下よりご指示のあった一覧整理ですが、関係各所と照合を進めるにあたり、殿下ご自身のお言葉をいただきたい項目が三つございます」

「また私か」

思わずそう言ってしまう。

補佐官は淡々としていた。

「はい。殿下のご意思がなければ切り分けられぬ案件にございますので」

つまり、自分が関わらなければ進まない。

だが、進めたくはない。

進めれば進めるほど、“自分の名で曖昧にしていたもの”がはっきりするからだ。

それでも補佐官は待っている。

逃げ場のない沈黙が落ちた。

カイルはそこで初めて、ひどく面倒な、しかし避けられない感覚に襲われた。

これ以上この場に立っていたくない。

補佐官の目も。

侍従の静けさも。

中庭の空気も。

全部が、自分へ向けて同じことを言っているように思えた。

――もう以前のままではいられない。

その瞬間、カイルは低く言った。

「……後で持ってこい」

「殿下」

「後でだ」

補佐官は一礼したが、すぐには退かなかった。

「本日中にお願いできますか」

そこまで言われて、カイルの中で何かが切れた。

怒鳴るのではなかった。

ただ、急に嫌になったのだ。

この場に立ち、見透かされたような目に囲まれ、自分の曖昧さを一つずつ差し出さなければならないことが。

「知らん」

小さく吐き捨てるように言う。

補佐官の目がわずかに揺れた。

「殿下?」

「今日はもう知らん。好きにしろ」

それだけ言って、カイルは踵を返した。

補佐官を置いたまま。

侍従も、下働きもいる中庭から。

自分から席を立ったのだ。

王太子が。

しかも、怒鳴り散らすでもなく、堂々と命じるでもなく、ただ嫌になって逃げるように。

その姿は、王太子としてはあまりにもみっともなかった。

補佐官はしばらくその背を見送っていたが、やがて深く息を吐いた。

怒りよりも先に、疲労が来る。

今の殿下は、真正面から叱責されると荒れる。だが、もっと厄介なのはこういう時だ。急に自分から席を外し、投げ、逃げる。

それでは整理も進まない。

王妃に報告すれば、さらに空気は悪くなるだろう。

だが、報告しないわけにもいかない。

「……記録しておけ」

補佐官が低く言うと、控えていた侍従が無言でうなずいた。

その頃、本邸では礼法教師の最初の授業を終えたミレイユが、まだ疲れの残る身体で廊下を歩いていた。

歩き方まで注意されたせいで、いつもと同じはずの廊下が妙に長く感じる。

「大丈夫ですか」

リナが小声で尋ねる。

「全然」

ミレイユは正直に答える。

「足も痛いし、背中も変な感じ」

「お部屋でお休みになりますか」

「ええ……でも、その前に」

彼女は少し迷い、それから足を止めた。

ちょうど厨房へ近い回廊だった。

奥では下働きの娘たちが、昼の仕込みのために忙しく動いている。

以前のミレイユなら、そんな場所へ自分から目を向けなかっただろう。いて当然の人たち、動いて当然の人たちとしか思っていなかったからだ。

だが今は違った。

自分の足が痛い。

背中が苦しい。

そういう小さな痛みが、初めて“人が動くこと”を具体的に感じさせたのかもしれない。

「リナ」

「はい」

「お茶を持ってきてもらった時、ありがとうって言ったかしら、わたくし」

リナは少し驚いたように目を瞬く。

「……いいえ」

「そう」

ミレイユは少しだけ黙る。

そして小さく息を吐いた。

「今さらね」

「でも、覚えておきたいわ」

その言葉は、以前の彼女からは想像もつかないものだった。

別邸では、その日の夕方、グラントが二つの報せを持ってきていた。

「殿下ですが」

「ええ」

「本日、整理の途中でご自分から席を立たれたようです」

リディアナは手元の便箋から顔を上げた。

「へえ」

「投げた、と言ってよいかと」

「ついに、ね」

マリアベルが静かに言う。

「義妹様の方は」

「初回の礼法を受けきったあと、使用人への礼が足りていたかを気にしたとか」

その報告に、リディアナはほんのわずかに目を細めた。

「そう」

二つの話が、あまりに対照的だった。

一方は、高い席に座っていた男が、自分でそこを放り出した。

もう一方は、ようやく低いところから、自分の周りにいた人間を見始めた。

どちらもまだ途中だ。

だが、方向はまるで違う。

「王太子は、初めて自分から席を立ったのね」

「はい」

「しかも逃げる形で」

グラントが答える。

「義妹様は、初めて叱られたあとに周囲を見たようです」

リディアナは窓の外を見た。

夕方の庭は静かだった。

風もない。

けれど、その静けさの下で、明らかに流れは分かれ始めている。

「高い場所から降りるのと」

彼女は小さく言った。

「低い場所から学び始めるのとでは、あとでずいぶん差がつくわ」

マリアベルが頷く。

「ええ。恥をかいても残る人と、恥から逃げて席を立つ人とでは」

「そう」

リディアナは短く答えた。

それは救済ではない。

義妹が変わったからといって、今までのことが消えるわけではない。許されるわけでもない。

けれど、崩れたあとにどう動くかで、その人間の底は見える。

王太子は今日、それを見せたのだ。

笑われるのが痛い。

整理を迫られるのが嫌だ。

だから自分から席を立つ。

その弱さを。

「これで、もっと人が離れるわね」

リディアナは静かに言った。

「はい」

「残った側近ほど、見てしまいましたでしょうから」

王太子が逃げるところを。

責任の場から、自分から席を立つところを。

それはたぶん、叱責よりずっと効く。

王太子はもう、ただ笑われているだけではない。

支える価値がないと思われ始めているのだ。
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