若返りの聖女は揺籠を揺らす ――エイジングケア魔法士レミーと十万の赤ちゃん兵士――

しおしお

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第2章

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 披露祝宴から五日後。王城西翼二階、陽光が柔らかに差し込む王妃専用のプライベートサロンには、近親女官たちの驚嘆と歓喜のざわめきが満ちていた。鏡台の前に座るのは、王妃セレスティア。濃紺のビロードを思わせる夜会髪と、深紅の翠玉をちりばめたティアラ。その下の肌はまるで絹のように滑らかで、頬のくすみもシワも影を潜め、淡桃の光を放っている。数日前までは「ご公務の疲れでお痩せになった」と噂されていた王妃の肌が、わずか五十秒の施術でここまで変わるとは誰も想像していなかった。

 「まるで十年、いいえ二十年は若返られたご様子……!」
 侍女頭のフローラが震える声で呟くと、他の侍女たちも我先にと鏡をのぞき込み、口元を手で覆いながら歓声を漏らした。王妃は薄紅の唇を緩め、深い満足のため息をついた。

 「レミー様、本当に……なんということでしょう。お肌に光が宿っただけでなく、目元までもこんなに明るく。これが“奇跡”と呼ばれる所以なのですね」

 レミーは控えめに微笑み、ポーチに霊水の瓶とハーブオイルを収めながら首を横に振った。
 「いえ、王妃陛下。奇跡というほど大げさなものではございません。肌細胞を活性化し、血行を促しただけ。お疲れが溜まる前に施術すれば、効果は長く保てますわ」

 だが王妃と女官は半ば聞いていなかった。彼女たちの目に映るレミーは、美容術どころか神秘の力を振るう“現代の聖女”そのもの。事実、祝宴以来、城内いたるところで「聖女様」の呼び名が定着しつつあった。女官頭フローラは感極まった様子でレミーの手を取ると、言葉を弾ませた。

 「陛下は長年、宮廷医師や魔術師が開発した高位の美容薬をお試しでした。それでも取れなかったシミが、一度の施術で……! 王妃様の輝きは、王国の希望。聖女様のお力はまさに国の宝でございます!」

 レミーは困惑の笑みを浮かべながらも、軽く手を振ってその賛辞をはねのけようとした。だが次の瞬間、大理石の床に響く靴音がサロンの扉の外で止まった。扉が開くと、絹の袖口を揺らしながら入ってきたのは、宮廷筆頭侍医リュカ・デュアルドと、白と金の神職衣をまとう大聖堂の高位神官フィリベルトだった。

 「王妃陛下、失礼いたします。執政官閣下からの命で、聖女――もとい、ライフリィー子爵令嬢殿の施術内容を拝見し、医学的・神学的に検証させていただきたいのです」
 筆頭侍医が深々と頭を下げる。すかさず神官も胸元のロザリオに手を当て、神妙な声で続けた。
 「数多の癒しの奇跡を見てまいりましたが、亡き者が蘇るほどの力となれば、神の加護との関わりを確かめねばなりません」

 ――亡き者を蘇らせる? レミーは眉をひそめた。そういう噂が城内にも届いているのか。彼女はあくまで美容魔法士。蘇生など到底不可能だ。ところが両者とも当然のように聖女の“蘇生力”を前提に話を進めている。王妃は椅子から立ち上がり、侍医と神官を制するように手をかざした。

 「待ちなさい。私は今、若返りを体感しましたが、死人を生き返らせたわけではありません。レミー様の魔法は、あくまで美容と健康のためのもの。蘇生の奇跡だなどと、どこまで確かめたのかしら?」

 神官フィリベルトはすっと視線を逸らし、侍医リュカが渋い顔で答えた。
 「……巷の噂が膨れ上がっておりまして。民衆どころか神殿内部でも“聖女の蘇生奇跡”が語られ始めております。もし事実と異なるなら早急に訂正を――」

 「訂正すれば済む話ではありませんわ」
 レミーははっきりと口を開いた。侍医も神官も、そして王妃ですら、その毅然とした眼差しに息を呑む。
 「そもそも私は“聖女”ではありません。“若返り魔法士”です。施術は肌と血流に作用するだけで、生死を越える力など持ち合わせておりません。尾ひれのついた噂が誤解を生み、まことしやかに語られているだけ。――それが真実です」

 侍医と神官が顔を見合わせる。王妃は頷き、震える手で鏡を撫でた。
 「私は、この輝きが事実であればそれで良い。死者を甦らせる必要などございません。レミー様のお力で、国の婦人が元気になるし、それが国の幸福につながるでしょう」

 しかし侍医リュカは首を横に振った。
 「問題は、王子殿下が“蘇生の奇跡”という大義でレミー嬢を呼び寄せたこと。もし今更『蘇生は誤報』と明らかになれば、殿下の威信は地に落ち、政治的混乱は必至です」

 レミーの心臓が強く跳ねた。王子エグバルトが“蘇生”を信じ切った上で、自身の婚約者に仕立てたとすれば――真実を知った瞬間、怒りを向けるのは誰か? 王家は面子を守るため、真実を捻じ曲げようとするかもしれない。

 「私は嘘をつけません」
 レミーは静かに言った。「若返りが出来るのは真実。蘇生は出来ないのもまた真実。――私は、どちらも覆す気はありません」

 王妃はレミーの手を握り、ゆっくりと頷いた。
 「真実を曲げるほうが罪です。私が証人になりましょう」

 侍医と神官は沈黙したが、その背後で女官頭フローラがこっそりレミーに視線を送った。恐らく、王宮内の噂がさらに膨らむ前兆だろう。若返り魔法士の真実を話したところで、人々は都合よく“奇跡”を信じ続けるかもしれない。

 施術を終えて退室するレミーの足取りは重かった。回廊を抜け、外気を吸い込むと、胸の奥の靄が少しだけ晴れる。だがすぐに現実が肩にのしかかった。――自分は第一王子の婚約者として祝宴で宣言された。蘇生の誤解が暴かれたとき、王子はどう出るだろう。

 真実を語る覚悟はある。けれど、その代償として待つ“王家を欺いた罪”は、どれほど重いのだろうか。レミーは胸元のリボンを握りしめ、強く夜空を見上げた。春の星は瞬きながら、遠い戦地の火花のように線を結び、やがて鋭い矢の形を描いているように見えた。——そしてその矢は、静かに王城の塔へと向けられているようにも見えた。

 翌朝、王城の南翼に位置する政務評議室〈サン・レオナール〉では、二十本の燭台に火がともされ、重苦しい暖色の光が漆黒の木壁を染めていた。昨日まで祝宴の後片付けに忙殺されていた侍従や女官は姿を消し、代わりに軍務卿、財務卿、賢者会議代表、王国教会枢機卿、宮廷魔導師長らが長卓を囲んでいる。端には摂政アンセルム公、そして議長席に第一王子エグバルトが腰掛けた。だが彼の表情には、祝宴の夜に浮かべていた余裕の笑みは一切なく、鋭利な怒気だけが宿っていた。

 「――結論を急げ。『聖女』とやらの力は、死者蘇生ではない。肌の若返り程度の術でしかない、というのは本当なのか?」

 声が乾いた音を立てて響く。魔導師長フォルディアスは巻物を握った手を震わせながら咳払いし、慎重な口調で答えた。
 「わ、若返りの魔力反応は確かに検出されましたが、魂の引き戻しや生命核の再活性化に相当する因子は皆無でした。つまり蘇生とは――」

 「偽りということだな?」
 凍てつくような一言。魔導師長は必死に付け加える。
 「いえ、偽りというより誤解が拡大したという……」

 財務卿が椅子を軋ませ前のめりになった。
 「殿下、問題はそちらよりも財政にございます。『聖女披露』が引き金となって民衆の寄進と献金が急増し、宝物庫へは莫大な資金が流入しました。もし虚報だったと知れ渡れば、返還請求と暴動が――」

 軍務卿が卓を拳で叩く。
 「暴動より先に、隣国との軍事均衡が崩れる! 我が軍は“聖女がいる限り戦争は起こらない”との前提で士気を維持してきたのだ。嘘が露見すれば国境線は炎上するぞ!」

 枢機卿は数珠を握りしめ、蒼白な顔で口を開いた。
 「教会もすでに“奇跡”として宣言してしまいました。今さら誤報と訂正すれば、神威を軽んじたと他宗派から攻撃を受けるでしょう……」

 喧々囂々。責任の矛先をそらす声が飛び交い、エグバルトの怒気は濃度を増していく。彼はグラスを掴むと、中身の葡萄酒を一気に飲み干し、卓上へ鋭く置いた。キン、と薄水晶の杯が高い音を立てる。

 「要は、あの女がわたしを――いや、王家を欺いたということだ」

 摂政アンセルム公が控えめに手を上げる。
 「殿下、誤解の端緒となったのは巷の噂であり、令嬢本人は若返り魔法士と明言しております。欺いたとは断定しがたく――」

 「貴公、わたしに楯突くのか?」
 冷たい視線が走る。アンセルム公は口を閉ざし、会議室に圧迫感が増した。

 エグバルトは椅子から立ち上がり、ゆっくりと長卓を歩き始めた。背後で剣の柄が揺れる。
 「王家が“聖女”の名で政務を円滑に運び、民心を掌握し、国庫を潤わせたのは事実。だが、もしあれがただの小手先の美容術師に過ぎなかったとなれば――その罪は“王家を欺き、国を混乱させた大罪”だ。わたしが倒す敵兵十万にも匹敵する」

 一同は息を詰めた。枢機卿だけが絞り出すように言葉を投げた。
 「殿下、レミー嬢を『大罪人』と断定なさいますか? 民は彼女を慕っております。前言撤回の衝撃は収拾が――」

 「ならば証明させればよい!」
 王子の怒号が会議室の天蓋を震わせた。
 「明日、王都大聖堂前で『公開奇跡儀式』を執り行う。死人一人を蘇生させてみせれば今回の誤解は真実に変わる。失敗すれば――その場で“詐欺聖女”として断罪する!」

 衝撃が走る。賢者会議代表は顔色を失い、軍務卿が思わず立ち上がる。
 「い、いくら何でも……! 死人を還らせるのは禁忌ですぞ。もし失敗し、民衆の前で嘘と露呈すれば暴徒化は必至!」

 「暴徒など近衛で鎮圧すればよい」
 王子の言葉は氷のように冷ややかだった。

 財務卿がためらいながら提案する。
 「殿下、それよりも“婚約破棄”という落とし所はいかがかと。聖女の称号を剝奪し追放すれば、王家の面子は保てます」

 「わたしは面子のために動いているのだ!」
 エグバルトが怒鳴り、卓上の文書束を払った。紙が雪のように舞い、侍従が青い顔で拾い集める。王子は胸の前で拳を固く握り、ぎり、と奥歯を噛んだ。
 「……わたしが望むのは絶対の奇跡だ。王家が“死をも超越する力”を手にすれば、隣国は永遠に膝を屈し、臣民は決して王家から離れぬ。小娘にできることなど、その証明ひとつで良い――」

 彼の瞳は暗い炎を宿し、誰もその暴走を止められなかった。摂政アンセルム公は深い溜め息をつき、密かに指先で数珠を撫でる。魔導師長は巻物を胸に抱えたまま言葉を失い、枢機卿はおもむろにロザリオを高く掲げて祈りをささげ始めた。

 こうして、王子の“手のひら返し”は決定的となる。翌朝には「聖女、死人蘇生の公開奇跡を披露」と題した瓦版が刷られ、王都中を駆け巡った。集まる人の波、膨れ上がる期待、そして疑念。

 その最中で知らされることもなく、レミー・ライフリィーは自室に呼び戻され、王宮侍従から短い通達を受けるだけだった。
 「明朝、王都大聖堂前広場にて殿下の命による“奇跡儀式”がございます。ご準備を」

 ――奇跡儀式? 死人の蘇生? 胸の奥で、不気味な鉛の塊が沈んでいく。
 レミーは震える手で知らせの文書を握りしめ、覚悟を決めるより早く口をついて出た。

 「大丈夫。“後始末は王子が負う”――あの約束を、忘れないで」

 夜の王城に、春の風が吹き抜けた。窓辺のカーテンがひるがえり、遠くの塔屋に掲げられた王家の紋旗が、不吉な兆しのごとく軋む音を立てていた。

 王都に「公開奇跡儀式」の速報が駆け抜けた翌日未明。
 〈グラン・チボリ〉の一角に佇むエルダー侯爵夫人の私邸には、まだ朝露が残るうちから連日の馬車が押し寄せていた。降り立つのは豪華なドレスに身を包んだ上流貴婦人ばかり――ライフリィー家に若返りの施術を受け、レミーに恩義を抱く面々である。

 雪花石を敷き詰めた広い応接間では、ベルデ公爵夫人が腰まで届く金髪をバサリとかき上げ、テーブルを叩いていた。
 「死人蘇生? 殿下は何をお考えなの! “出来ないことを出来”と言わせるのは拷問と同じよ!」
 「しかも失敗したら“詐欺聖女”として断罪? 十万人の赤ちゃんを抱えさせておいて彼女に全責任を押しつけるなんて!」
 「奇跡で兵士を赤ちゃんにしたのは事実よ。あの子は人を殺さず戦争を止めた。それで十分じゃない!」

 口々に上がる憤慨の声。その熱は、繊細な磁器のティーカップから立ち上る茶の香りさえかき消すほどだった。エルダー侯爵夫人はグローブを外し、レミーの名刺を指で擦りながら、静かに座った全員へ視線を巡らせる。
 「今こそ私たち“フルブルーム淑女会”の結束を示すとき。――若返りの恩に報いて彼女を守るわ。王家と正面衝突は避けねばならないけれど、世論を動かすのは得意でしょう?」

 淑女会――正式名称〈Fleur‑Bloom Circle〉は、元来「美容・文化・慈善」を掲げた上流婦人の社交組織。だがその実態は各侯爵・公爵家の主婦が情報網と資産を束ねる非公式ロビーでもある。宮廷でも無視できない政治力を持つ彼女らが、今回は全会一致で「レミー擁護」を掲げたのだ。

 「最初の一手は瓦版ね。殿方の下世話な大見出しより、現場の私たちが見た事実を載せるの」
 「執筆はマーガレット子爵夫人が得意。先日の若返り効果を詳細に書き、蘇生は噂だと明記しましょう」
 「美肌術の安全性を示すなら実例写真も要るわね。議会印刷所に頼んで銅版画を起こせる?」
 「資金ならわたくしが出すわ。赤ちゃん兵士の孤児院運営費も兼ねて寄付金募集広告を載せましょう。民衆の感情を味方につけられるわ」

 マントを羽織った侯爵夫人が提案すると、公爵夫人たちは一斉に賛同の拍手を送る。早くも複数の書記官が取りまとめを始め、使い走りの従者が活版印刷工房へ走った。

 さらにベルデ公爵夫人は卓上の地図を開き、王都大聖堂前広場を指差した。
 「式典開始は正午。私たちは午前九時に広場東側テラス席を借り切るわ。貴族街の馬車通り沿いに“無料美容診断ブース”を設営して、レミー様の若返り効果を庶民にも体験してもらうの」
 「妙案ね。それなら立会人の民衆が“若返り=美容”と理解したうえで式を見るから、殿下が蘇生だの奇跡だの言っても違和感が出る」
 「広場に集めた孤児院の保母を通じ、赤ちゃん兵士たちの世話がどれほど大変かを同時に訴えれば、王家の責任問題も世論に浸透するでしょう」

 会話が進むほど、空気は熱を帯びていく。誰も彼も口角を上げて策略を転がしながら、一方でレミーの無実を信じ、その力を守ろうという真摯な意図が透けていた。
 最後にエルダー侯爵夫人が立ち上がる。紫水晶の指輪を煌めかせながら、真剣な面持ちで宣言した。
 「殿方が剣と槍を手にするなら、私たちは羽根ペンと香水瓶で戦うの。――レミー様の名誉、必ず守りましょう!」

 淑女たちのグローブが一斉に重なり、密かな戦いの火蓋が切られた。

 ***

 その日の午後。王都中心通り〈メイン・プロムナード〉に置かれた瓦版売りの台車から、「聖女真実報――若返り術の奇跡!」「赤ちゃん兵士孤児院支援金募集!」の見出しを掲げる号外が大量に配られた。
 美肌効果の銅版画、孤児院に抱かれる赤子兵士の微笑ましい挿絵、そして「死人蘇生は語弊。若返りが本当の奇跡」と強調する大文字。

 買い求めた庶民は目を丸くし、口々に語った。
 「やっぱり蘇生は噂か。でもあの若返りは本当らしいぜ」
 「『聖女』より『美容の守り人』って感じね。私も施術受けてみたいわ!」
 「赤ん坊兵士の世話を王家が全部やるんだと。面倒見切れるのかねぇ」

 瓦版の裏面には赤ちゃん孤児院への寄付先が大書され、同時に《フルブルーム淑女会》のロゴと署名が隅に刻まれていた。コインを握りしめた市民が行列を作り、寄付箱に銀貨を投げ入れては「王子も一緒にミルクをやれ!」と笑い合う。

 夕方には、王都全域で旧式印刷所がフル稼働した。淑女会特製“若返り美容ハンドブック”と称する小冊子が無料配布され、レミーの施術理論を平易に解説しながら「生き返り」は誤解だと説明。王家の“蘇生奇跡”宣伝を婉曲に牽制する。

 夜が更けるころ、王城の窓辺からは燃えるような街の灯が見えた。ローズウッドの書斎でエグバルトは瓦版を握り締め、唇を噛む。
 「淑女会め……余を面目丸つぶれにする気か」

 そこへ侍従が駆け込み、貴族街の邸宅を起点に、王宮宛てに“嘆願書”が雪崩れ込んでいると報告した。内容はすべて、雷のように同じ文言を刻む。

 >「聖女レミー様は戦わずして国を救った真の恩人。危険な蘇生実験を強要することなく、美容と平和の奇跡を讃えてくださいませ」

 署名は侯爵夫人、公爵夫人、伯爵令嬢、果ては商会の女主人から市場の若い裁縫師まで、階級を超えて連署され、束ねられた紙はすでに電話帳の厚みを越えていた。

 ――貴婦人会の逆襲。
 彼女たちは剣を振るわず、怒号もあげず、しかし言葉と銀貨で“常識”そのものを揺さぶり始めていた。エグバルトは脳裏に浮かぶドレス姿のレミーを思い描き、拳を握り締めた。
 「ならば、なおのこと蘇生を成し遂げさせる。失敗すれば民衆の信頼など一瞬で裏返る!」

 窓外の遠い灯が、夜風に揺れて滲んだ。翌日正午の大聖堂前――“公開奇跡儀式”は、王子と淑女会の見えない戦争の初陣となるのだった。


 披露祝宴から三日後の朝、王城西棟三階の政庁会議室〈サン・レオナール〉には、重臣たちの怒号が積み上がった文書束を震わせていた。長楕円の黒檀卓を囲むのは、摂政アンセルム公を筆頭に、軍務卿、財務卿、賢者会議代表、宮廷魔導師長、王国教会枢機卿――そして議長席の第一王子エグバルトである。

 机上には瓦版と訴状が山をなし、最上段の見出しが真紅のインクで主張していた。

> 《聖女は詐欺か、それとも王家の陰謀か》
《若返りは本物! 蘇生は噂!》



 「民衆が“聖女”の真偽を疑い始めております」
 財務卿が震える指で瓦版を示す。
 「侯爵夫人連名の嘆願書が二百通。『美容の恩人を詐欺呼ばわりするな』との内容です。もし強硬処分すれば寄進が一夜にして引き揚げられ、宝物庫への資金流入が――」

 「だが放置すれば、宮廷の威信は雪崩を打って崩れる!」
 軍務卿が卓を拳で叩く。
 「兵の間でも“聖女は肌専門らしい”という笑い話が出始めた。軍は“蘇生の奇跡”があるからこそ隣国と睨み合えたのだ。虚報が露見すれば士気が地に落ちる!」

 枢機卿が数珠を鳴らし、蒼白い顔で言葉を挟む。
 「教会も“死人蘇生”を公認し、巡礼寄進を呼び掛けました。いま訂正すれば『神威を偽った』と他宗派から攻撃を受けましょう……」

 議場に怒号と懸念が飛び交うなか、エグバルト王子は杯の葡萄酒をひと口啜り、冷えた琥珀の瞳で全員を見渡した。
 「要するに――そやつを“聖女”として押し立てるにも、詐欺師として斬るにも、どちらにも損失が伴う。だからどうした」

 摂政アンセルム公が咳払いし、慎重に切り出す。
 「殿下。そもそも誤解を拡大させたのは瓦版であり、令嬢本人は“若返り魔法士”と明言しております。欺いたと言い切るのは……」

 「欺きでなければ何だ?」
 王子の声が低く噛みつくように響く。
 「王家の権威は“奇跡”で磨かれてきた。民は奇跡に跪き、隣国は奇跡に怯える。若返り程度の術しかないなら、王家は民に笑われ、敵に侮られるだけだ!」

 魔導師長フォルディアスが怯えた目で巻物を差し出す。
 「殿下、若返りでも充分に医療革命です。医学界は資金と実績を――」
 「革命? 老人の皺が消えて何が変わる!」
 王子の怒鳴り声に、魔導師長は肩をすくめた。

 重臣たちが居並ぶ中、王子は椅子から立ち上がり、窓辺へ歩み寄る。午前の光が鎧の刺繡に反射し、薄金色の影を床に落とす。
 「よいか、諸卿。王家が無謬であることを示すには、レミーとやらが蘇生の奇跡を披露するか、さもなくば“王家を欺いた大罪人”として血の儀をもって償わせる――その二択しかない」

 軍務卿が声を潜める。
 「しかし殿下、貴婦人会が盾となり、王妃陛下までもが“美容効果は事実”と発言なさったとか。強硬処分は火に油を――」

 「ならば追い落とせば良い!」
 王子の叫びと同時に、杯が壁に叩きつけられ、赤い雫が漆黒の板壁を滑った。
 「貴婦人会だと? 美と贅沢を貪る女どもが『奇跡』を軽んじるから噂が膨れ上がったのだ。……よかろう。余が“奇跡”を真実に変えてやる」

 エグバルトはゆっくりと振り返り、炎のような眼差しで宣言した。
 「聖女に命じる。敵軍を討つに等しい奇跡を示せ。さもなくば偽聖女として処刑――。その勅命を近く下す。民衆の面前でな」

 会議室に沈黙が落ちた。自ら引き返せない道を選んだ王子の背は、誰の言葉も跳ね返すほど硬く見える。摂政アンセルム公は額を押さえ、重い声で問うた。
 「……“奇跡”の証明を強行し、失敗した場合の後始末は?」

 エグバルトは一拍ののち、薄く笑った。
 「後始末? ――余が背負う。だが背負うと決めた以上、退くことはない」

 その笑みは、勝利を確信した覇者のものではなく、崖縁に立って背水の矢を番えた男のそれだった。重臣たちは顔を見合わせつつも誰も止められない。王子の激情がもたらす結論はただ一つ――「公開の脅迫」。その脚本が、いまこの場で固められた。

 王都がまだ春の陽光に洗われる午後、王宮の奥で密かに起草された召喚状がライフリィー子爵邸へ届けられることになる。

 > 《王家布告》
 > 「第一王子エグバルトは、“聖女”と称されるライフリィー子爵令嬢に“真の奇跡”を示させるべく、近日中に公開実演を命じる。
 >  ……万が一、奇跡と認められぬ場合は法の裁定を受けさせるものとする」

 紙面に踊る漆黒の王家紋章は、王都に新たな嵐を呼び込む狼煙だった。そして、この布告が――レミーを戦場へ送り出す最後の押し出しとなる。

 外では春風が王城の旗を翻し、まだ芽吹ききらぬ若木の枝を鳴らした。
 「追放では生ぬるい」――王子の呟きは、板壁に貼り付いた赤い葡萄酒の滴とともに、ゆっくりと床へ落ちた。


 王子主導の「公開奇跡実演」が通達されてから二日後、王城南門の見張り櫓に血相を変えた伝令が駆け込んだ。肩から下げた革鞄は泥に塗れ、胸元にはかすかに矢痕。息も絶え絶えの兵士が叩きつけた羊皮紙には、紅殻で大きな“急”の字が走る。

> 〈国境緊急報〉
 フェーリス王国、峡谷側街道より総勢十万の大軍進軍。
 前鋒が第一防壁《リンドブルク砦》突破。
 現地司令、日没まで持たずとの報。



 報せは稲妻のように宮廷を駆け抜けた。摂政アンセルム公が臨時評議室を招集した頃には、軍務卿の唇は紫に変わり、財務卿は帳簿を抱えて震えていた。

 「フェーリスめ、赤ん坊兵士を抱えたまま再侵攻とは……」
 「いえ、“赤ん坊にされた兵の仇”と触れ回り、復讐を標榜している模様です!」

 怒号渦巻く室内の扉が勢いよく開き、エグバルト王子が白銀の軍装で現れた。新たな侵攻情報など想定内という顔で卓を叩く。

 「良い機会だ。公開奇跡など準備に手間が掛かる。敵軍を一撃で黙らせ、聖女の真価を世界に示せば済む話だろう?」

 賢者会議代表が青ざめる。
 「殿下、フェーリス軍は十万。王都防衛線を越えれば首都が火に包まれます。間に合いません!」

 「聖女がいれば充分だ」
 王子は言い切り、侍従へ視線を投げる。
 「召喚状を今すぐライフリィー邸へ。聖女は直ちに出征準備。王家近衛を指揮し、最前線で奇跡を示すのだ」

 「な、殿下!」
 王妃が思わず声を上げる。あの穏やかな顔に、初めて激しい憂色が宿った。
 「彼女は美容の術者であって、戦場の兵ではありません!」

 だが王子は涼しい表情で王妃を見据えた。
 「母上こそ、彼女の力をお認めになったではないか。若返りが出来るなら、老兵も青年に戻せよう。兵士が死にそうになれば、若き肉体へ引き戻せば良い。――不死身の軍が完成する」

 室内が凍り付く。軍務卿は拳を握り、言葉を飲み込んだ。摂政アンセルム公だけが低い声で問う。
 「殿下、その奇跡がもし起こらなければ?」

 「その時は、王家が詐称被害を受けた証として――偽聖女を断罪し、国民に謝罪する。それで秩序は保たれる」

 “後始末”という語をあえて使わぬ冷酷な宣言。誰も口を挟めない。
 その夕刻、レミーの手元に届いた王家封蝋の召喚状には、ただ一行。

> 「明朝未明、王都北門より出陣。戦場にて真の奇跡を示されたい」



 ***

 ライフリィー子爵邸では、召喚状を読み上げた瞬間、母アナスタシアの手から手紙が滑り落ちた。庭先には貴婦人会の馬車が列をなし、侯爵夫人が嘆願書の束を抱えて駆け込んでくる。

 「王子は何を考えているの! 美容師を十万の軍へたったひとりで?」

 レミーは震える母を抱き、深く息を吸い込んだ。
 「大丈夫。私は“若返り”で命を奪わず戦争を止めます。……ただし、王子殿下が責任を果たさなければ、私も“次”を考えます」

 侯爵夫人は息を呑み、やがて強く頷いた。
 「私たちは物資と軍装を用意します。魔力増幅指環、解毒ハーブ、守護の護符……すべて戦地へ届けましょう」

 その夜、邸内のランタンは一つも消えなかった。貴婦人たちが自ら霊水瓶を梱包し、使用人が荷馬車に積み込み、老執事がルーン刻印の地図を広げる。
 レミーは鏡の前で髪を束ね、指環を嵌め直した。指先の宝石が月灯りを弾き、瞳に映り込む。

 「明日、行ってくるわ。――帰ってきたら、必ず笑顔で会いましょう」

 母は頷き、震える指で祈りのサインを描いた。玄関先では侯爵夫人がマントをレミーの肩にかける。

 「あなたは聖女じゃない。けれど彼らを救えるのは、戦わないあなたの魔法だけ。私たちが背中を守ります」

 夜空には、北から吹き下ろす冷たい風が月光を波立たせていた。フェーリス軍の松明が遠い山並みに揺れ、赤い点滅がまるで天啓のように瞬く。
 レミーは馬車の階段を上がり、望んだわけでもない戦場への旅支度を整える。

 ――死を止めるための若返り。命を縮めぬための魔法。
 その矛盾を抱き締め、少女は夜明け前の王都を後にした。

 やがて街の灯が背後で小さくなり、北風がマントをはためかせる。遠くの城壁で鳴る警鐘が、戦の幕開けを告げた。

 レミーの足元へ続く石畳は、もはや“聖女”の行列ではなく、戦場へ赴くただ一人の魔法士の道だった。

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