『婚約破棄された令嬢ですが、王太子殿下に一途に愛されまして? 気づいたら王妃候補ですわ』

しおしお

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第29話 「静かに広がる誤解と、ひとつの胸騒ぎ」

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第29話 「静かに広がる誤解と、ひとつの胸騒ぎ」

 昼下がりの宮廷図書室──。  高い天窓から柔らかな光が降り注ぎ、積み上がった書物の山を淡く照らしていた。

 フェリシェールは、いつものように静かに本を読み耽っていた。
 婚約破棄から逃れ、ルシアンとの白い結婚に落ち着いてから、読書の時間は彼女にとって貴重な“安らぎ”になっていた。

 ページをめくる指は細く白く、時折見せる微笑みは春の陽光のようにやわらかい。

 ――その光景を、少し離れた席から見つめる影があった。

「……なんというか、あれは……尊い」

「ええ、まさか辺境公爵夫人があんなに儚げだったとは」

「図書室が浄化されていく……」

 どういうわけか、宮廷の学者や騎士たちが彼女を遠巻きに見守り、勝手に癒やされていた。

 フェリシェール本人は全く気付いていない。

 

 その時、ルシアンが図書室に姿を現した。

 鎧姿ではなく、珍しく落ち着いた濃紺の衣服。
 彼が入ってきただけで、周囲の空気がぴりりと引き締まる。

「フェリシェール」

「あ、ルシアン。お仕事は終わったのですか?」

「一区切りついた。迎えに来た」

 その自然な言葉に、周囲の数名が本を落としそうになった。

 まるで恋人同士のようなやり取り。
 しかし“白い結婚”であることは宮廷でもまだ知られていない。

 フェリシェールは本を閉じ、微笑んだ。

「もう少ししたら戻りますので、先に休んでいても大丈夫ですわ」

「……いや。待つ」

 短く答えたルシアンは、彼女の隣の席に腰掛けた。
 無言のうちに、フェリシェールの周囲にいた学者や騎士たちが静かに身を引く。

「…………」

「…………?」

 フェリシェールは気づかないままページをめくる。

 しかし、周囲の“ざわめきが消えた”ことには気づいた。

「いつの間に、こんなに静かに?」

「俺が来たからだろうな」

「え? なぜでしょう?」

「知らん」

 知らん、ではない。
 明らかに“夫(仮)による無言の支配力”である。

 だがフェリシェールは、彼が理由を含んでいながら言わないことを知らない。

 

 そのとき、近くの若い宮廷魔術師が勇気を出してフェリシェールに声をかけた。

「あの……フェリシェール様。先日の魔法陣の件、またお力を借りても……」

 次の瞬間。

 ぱたり、と空気が揺れた。

 ルシアンの視線が鋭く向けられたのだ。
 何も言わないのに、まるで“距離を取れ”と語るかのように。

 魔術師は一歩後ずさり、震えながら頭を下げた。

「す、すみません! やはりまた今度に……!」

「???」

 フェリシェールは目をぱちぱちと瞬かせる。

 ただ相談されただけなのに、なぜか相手が逃げていく。

「……ルシアン、何かしました?」

「別に?」

 完全にしている。

 フェリシェールは気づかないが、周囲の者たちは悟った。

 ――公爵閣下、完全に夫人を囲い込む気だ。

 ルシアン自身も気づき始めていた。

 彼が、なぜこんなにも些細な視線に反応するのか。
 なぜ彼女に話しかけられるだけで、胸の奥がざわつくのか。

(……これは、なんだ)

 説明のつかない感情。
 だが確かなことがひとつ。

 フェリシェールが他の誰かと笑い合うのが嫌なのだ。

 

 フェリシェールが本を閉じ、静かに立ち上がった。

「ルシアン、帰りましょうか」

「ああ。……帰るぞ」

 並んで歩く二人。

 周囲の者たちはただ見送るしかなかった。

 すでに宮廷では噂が生まれ始めていた。

「辺境公爵閣下が夫人にだけ見せる顔」

「白い結婚と言われてるけど、本当は……」

「いや、あの雰囲気はもう……」

 勝手に盛り上がる宮廷内の妄想。

 その中心にいる二人だけが、まだ“本当の気持ちに気づいていない”のだった。


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