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第30話 「忍び寄る縁談の影と、公爵の静かな怒り」
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第30話 「忍び寄る縁談の影と、公爵の静かな怒り」
宮廷に吹く風が、微かな変化を孕んでいた。
フェリシェールが図書室で穏やかな時間を過ごしていた頃。
別の場所では――彼女に関する、厄介な噂が立ち始めていた。
「聞いたか? 第一王子殿下が、辺境公爵夫人に関心をお持ちだとか」
「えっ……本当か? 白い結婚だろう? ならば……」
「殿下の婚約者候補に、とまで囁かれているらしい」
「まさか……あの可憐な夫人が……」
砂粒ほどの噂が、いつの間にか宮廷全体に散っていく。
――そしてついに、その話がルシアンの耳にも届いた。
側近の一人が、恐る恐る報告を持って来たのだ。
「公爵閣下……本日、王宮内で奇妙な噂が流れております」
「……なんの噂だ」
「その……フェリシェール様が、第一王子殿下の婚約候補に挙げられたのでは、という……」
刹那。
空気が凍りついた。
ルシアンの手が止まる。
その指先が、書類の端をわずかに震わせた。
「……馬鹿げている」
「わ、我々もそう思っておりますが……殿下の側近が、図書室でのご様子を見かけたとかでして……」
「図書室での様子?」
「はい。殿下の側近いわく……『あれは王太子妃にふさわしい気品だ』と……」
ルシアンの眉がわずかに動く。
図書室──
今日のフェリシェールの姿。
読書を楽しむ彼女、柔らかく微笑む姿。
たしかに、誰が見ても魅了されるのは理解できる。
だが。
(……それを、殿下が持って行く?)
胸の奥に、ざらりとした感情が湧き上がる。
名も知らぬ誰かの視線なら、まだ耐えられた。
しかし、王子。
この国で最も権力を持つ男が彼女を見初めたなどという噂が、本当であるはずがないと分かっているのに――
理性とは無関係に、腹の奥が煮えたぎるように熱い。
ルシアンは低く息を吐いた。
「……側近」
「はいっ」
「殿下の前で、私とフェリシェールの“夫婦仲は円満”であると示せ」
「え……円満……」
「不自然でない程度にな。勘違いはさせるな。
我らは白い結婚だが――」
言いかけて、ルシアンは言葉を呑み込んだ。
(……白い結婚、か)
そうだ。
フェリシェールと自分は、形式上の夫婦であり、互いに自由を尊重する関係。
だからこそ本来、誰が彼女に興味を持とうが、口を挟む資格はない。
なのに。
「……他の男に向けられる笑顔は、腹が立つ」
低く呟いた声は誰にも聞こえないほど小さかった。
「公爵閣下……?」
「何でもない。下がれ」
「はっ!」
側近が去ったあと、ルシアンは椅子に深く背を預ける。
胸の中で渦巻くものを整理しようとするが、それは簡単に形にならなかった。
(フェリシェールが誰かに求婚される……?)
想像しただけで、喉の奥が焼けるように苦い。
(……なぜ俺が、こんなにも苛立っている)
答えは分かっている。
しかし認めてしまえば、二人の関係も、白い結婚の前提も、全部が変わってしまう。
だからまだ認めない。
認めないまま、胸の奥のざわつきを押し込めた。
一方その頃、フェリシェールは。
王宮の庭園で、何気なく散策をしていた。
秋の薫りを帯びた風が、淡い銀髪の一房を揺らす。
「気持ちいい……」
ひとりの時間を満喫しながら、彼女は知らなかった。
茂みの奥から、複数の視線が彼女を見つめていることを。
(あれが……噂の辺境公爵夫人か)
(たしかに、殿下が心を動かされるのも納得だ)
(近くで見たい……)
フェリシェールは、また自覚なく人を惹きつけていた。
――その噂が、すぐにルシアンの耳まで届くことになるとは知らずに。
そして夕方。
屋敷へ戻ったフェリシェールを迎えたルシアンは、いつもより言葉数が少なかった。
「ルシアン……?」
「……今日は庭園に行ったのか」
「ええ。とても気持ちよかったですわ」
「そうか」
それ以上何も言わないのに、どこか沈んだ雰囲気を漂わせている。
フェリシェールは不思議そうに首を傾げた。
「どうかなさいましたか?」
「……いや。何も」
違う。
本当は“他の男に見られるのが嫌だった”のだ。
だが言えるはずがない。
白い結婚の約束を結んだのは自分だ。
(……俺は、何をしているんだ)
ルシアンは自分の胸に生まれた感情を、まだ名前すらつけられないままだった。
宮廷に吹く風が、微かな変化を孕んでいた。
フェリシェールが図書室で穏やかな時間を過ごしていた頃。
別の場所では――彼女に関する、厄介な噂が立ち始めていた。
「聞いたか? 第一王子殿下が、辺境公爵夫人に関心をお持ちだとか」
「えっ……本当か? 白い結婚だろう? ならば……」
「殿下の婚約者候補に、とまで囁かれているらしい」
「まさか……あの可憐な夫人が……」
砂粒ほどの噂が、いつの間にか宮廷全体に散っていく。
――そしてついに、その話がルシアンの耳にも届いた。
側近の一人が、恐る恐る報告を持って来たのだ。
「公爵閣下……本日、王宮内で奇妙な噂が流れております」
「……なんの噂だ」
「その……フェリシェール様が、第一王子殿下の婚約候補に挙げられたのでは、という……」
刹那。
空気が凍りついた。
ルシアンの手が止まる。
その指先が、書類の端をわずかに震わせた。
「……馬鹿げている」
「わ、我々もそう思っておりますが……殿下の側近が、図書室でのご様子を見かけたとかでして……」
「図書室での様子?」
「はい。殿下の側近いわく……『あれは王太子妃にふさわしい気品だ』と……」
ルシアンの眉がわずかに動く。
図書室──
今日のフェリシェールの姿。
読書を楽しむ彼女、柔らかく微笑む姿。
たしかに、誰が見ても魅了されるのは理解できる。
だが。
(……それを、殿下が持って行く?)
胸の奥に、ざらりとした感情が湧き上がる。
名も知らぬ誰かの視線なら、まだ耐えられた。
しかし、王子。
この国で最も権力を持つ男が彼女を見初めたなどという噂が、本当であるはずがないと分かっているのに――
理性とは無関係に、腹の奥が煮えたぎるように熱い。
ルシアンは低く息を吐いた。
「……側近」
「はいっ」
「殿下の前で、私とフェリシェールの“夫婦仲は円満”であると示せ」
「え……円満……」
「不自然でない程度にな。勘違いはさせるな。
我らは白い結婚だが――」
言いかけて、ルシアンは言葉を呑み込んだ。
(……白い結婚、か)
そうだ。
フェリシェールと自分は、形式上の夫婦であり、互いに自由を尊重する関係。
だからこそ本来、誰が彼女に興味を持とうが、口を挟む資格はない。
なのに。
「……他の男に向けられる笑顔は、腹が立つ」
低く呟いた声は誰にも聞こえないほど小さかった。
「公爵閣下……?」
「何でもない。下がれ」
「はっ!」
側近が去ったあと、ルシアンは椅子に深く背を預ける。
胸の中で渦巻くものを整理しようとするが、それは簡単に形にならなかった。
(フェリシェールが誰かに求婚される……?)
想像しただけで、喉の奥が焼けるように苦い。
(……なぜ俺が、こんなにも苛立っている)
答えは分かっている。
しかし認めてしまえば、二人の関係も、白い結婚の前提も、全部が変わってしまう。
だからまだ認めない。
認めないまま、胸の奥のざわつきを押し込めた。
一方その頃、フェリシェールは。
王宮の庭園で、何気なく散策をしていた。
秋の薫りを帯びた風が、淡い銀髪の一房を揺らす。
「気持ちいい……」
ひとりの時間を満喫しながら、彼女は知らなかった。
茂みの奥から、複数の視線が彼女を見つめていることを。
(あれが……噂の辺境公爵夫人か)
(たしかに、殿下が心を動かされるのも納得だ)
(近くで見たい……)
フェリシェールは、また自覚なく人を惹きつけていた。
――その噂が、すぐにルシアンの耳まで届くことになるとは知らずに。
そして夕方。
屋敷へ戻ったフェリシェールを迎えたルシアンは、いつもより言葉数が少なかった。
「ルシアン……?」
「……今日は庭園に行ったのか」
「ええ。とても気持ちよかったですわ」
「そうか」
それ以上何も言わないのに、どこか沈んだ雰囲気を漂わせている。
フェリシェールは不思議そうに首を傾げた。
「どうかなさいましたか?」
「……いや。何も」
違う。
本当は“他の男に見られるのが嫌だった”のだ。
だが言えるはずがない。
白い結婚の約束を結んだのは自分だ。
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ルシアンは自分の胸に生まれた感情を、まだ名前すらつけられないままだった。
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