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11-6 アコード王子の失意と後悔
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11-6 アコード王子の失意と後悔
昼下がりの王宮は、冬を告げる灰色の光に満ちていた。磨かれた大理石の床は冷たく、長い回廊を渡る風は、重ねた外套の下まで容赦なく入り込んでくる。
アコードは歩いていた――いや、彷徨っていた。足音だけが、やけに広く響いた。
再婚約は、丁重に、しかし確固として退けられた。加えて、ディオール家は「婿を取る」という前代未聞の方針を公にした。
胸の奥で、慣れ親しんだ自尊心が音を立てて崩れていく。王家の第一王子として、提案は受け入れられて当然――そんな思考の残滓が、今はただ、ひどく浅はかに思えた。
(私は、あの子を“ただの子供”として扱い、先に手放した。なのに今になって、取り戻したいと願ったのは誰だ?)
喉の奥が熱くなった。彼女がもはや「公爵令嬢」という肩書きだけでは語れない存在になっていることは、幾度となく耳にしている。道路は延び、倉庫は満ち、作柄は改善に向かい、領民は笑う。
その変化の根に、必ず小さな名がある――セリカ。
四歳。たったそれだけの年齢で、書類の欄外に識見を添え、現地に足を運び、結果を置いてくる。伝聞でさえ眩しいのに、直接会えば、なおさらだった。
無邪気な瞳で真っ直ぐに言う。「では、とりあえずキープでもよろしかったのでは?」――あの一言が、何度も胸を刺す。
軽口に見せかけた、徹底した現実認識。自分の立場も、相手の立場も、未来の不確実さも、すべて見た上での言葉だった。
中庭の噴水まで来ると、アコードはふと足を止めた。水面は薄い風に乱れ、映る顔を細かく砕く。
砕けたのは水か、それとも自分か。判別がつかない。
「殿下」
背後から控えめな声。振り返ると、侍従のルーカスが跪き、視線だけを上げた。忠実で、言葉を選べる青年だ。
「朝からお戻りになられず。……お身体が冷えてしまいます」
「心配はいらない。冷えるべきは頭の方だ」
自嘲の色を滲ませると、ルーカスは短く目を伏せたのち、静かに言った。
「王室は“拒絶された”のではなく、“方針を示された”のです。ディオール家は、娘君の力を領地の柱にする、と。――王家にとっても、国の土台が強固になるのは利でございます」
「理屈はわかる。わかっているのに……胸の底で何かが暴れる。みっともない話だが」
「みっともなくはございません」
ルーカスは淀みなく続けた。「かつて殿下は彼女を“守るべき幼子”として手放された。今、殿下は彼女を“並び立つべき才”として見ておられる。視座が変われば、痛みも変わります」
アコードは小さく笑う。「口が達者だ」
「務めですので」
わずかに口元だけで笑い、ルーカスは言葉を探るように間を置いた。「……殿下は、彼女を“側に置く”ことで救いたいのですか。――それとも、“彼女の選んだ場所で力を尽くせるよう、遠くから道を整える”ことで救いたいのですか」
噴水の水音が、一拍、重く響いた。
問いは刃だ。避ければ傷になり、受ければ血を流す。それでも、ここで避けるほど若くはない。
「後者だと、答えるべきなのだろう」
言葉にした瞬間、胸の疼きが少しだけ形を与えられる。「本心は、未練に濁っている。だが、王は未練で動いてはならない」
「殿下はまだ王ではありませんが、王になる方です」
ルーカスは淡々と、しかし温度を宿して言った。「ならば、“道”をお持ちください」
「道……」
「ディオール領が育てる才が、王都でも息をする道です。街道、関税、学舎、奨学。彼女が発する知を、王国規模で循環させる仕組み――それが、王の愛であり、政治です」
アコードは目を閉じ、ゆっくり息を吐いた。
脳裏に、幾度も見た小さな横顔が浮かぶ。書板を抱え、背筋を伸ばし、難しい語彙を噛み砕いて説明する姿。わからないことは「見に行きます」と言って現地に降りる、小さな足。
手を伸ばせば届く距離に置きたい。だが――彼女の立つ場所を狭めたくはない。
「……わかった、ルーカス。ならば私は、“並び立つ準備”をする」
言葉に芯が通る。「王立学院の奨学金を拡充する。出自を問わず、地方の才が王都で学べるようにする。交易路はディオールと王都を結ぶ幹線を先行整備。関所の手数料は領内産品に限って減免を……いや、等しく扱おう。偏りは禍根になる」
ルーカスが安堵の息を漏らす。「承知いたしました。政務局と学院に手を回します」
「それと」
アコードは噴水の縁から手を離し、指先の冷えを握り込んだ。「個人的なことだが――私信を書こう。儀礼ではなく、正直な言葉で。……“あなたの選択を尊重する。あなたが進む道に、私は王として道標を置こう”と」
ルーカスは深く頷いた。「殿下の言葉なら、必ず届きます」
「届けるだけでいい。掴もうとはしない」
自分に言い聞かせるように繰り返し、アコードは小さく笑った。「そう決めないと、私はきっと、また子供じみた過ちを犯す」
沈む陽が、薄金の光を中庭に撒いた。長い影が二つ、石畳に並ぶ。
王子の影は、さっきよりも少しだけまっすぐだった。
歩き出す。回廊の先には政務局、学院、地図室。やるべきことは尽きない。
それでいい。未練は手を動かす熱へと変えればいい。
(セリカ。君が選んだ場所を、私は侵さない。
だが、君が見据える遠い地平へ続く大路を、私は引く。王として)
静かな決意が、胸の中心に灯る。
それは恋よりも長く燃える火――“責務”の温度だった。
ふと、振り返る。噴水の水面は、先ほどよりも穏やかだ。
砕けていた面影が、ひとつに戻りつつある。
「行こう、ルーカス」
「はい、殿下」
二人の足音が、今度は同じ調子で廊下に刻まれていった。
失意は、消えない。後悔も、消えない。
それでも――歩むための道が、確かに見え始めていた。
昼下がりの王宮は、冬を告げる灰色の光に満ちていた。磨かれた大理石の床は冷たく、長い回廊を渡る風は、重ねた外套の下まで容赦なく入り込んでくる。
アコードは歩いていた――いや、彷徨っていた。足音だけが、やけに広く響いた。
再婚約は、丁重に、しかし確固として退けられた。加えて、ディオール家は「婿を取る」という前代未聞の方針を公にした。
胸の奥で、慣れ親しんだ自尊心が音を立てて崩れていく。王家の第一王子として、提案は受け入れられて当然――そんな思考の残滓が、今はただ、ひどく浅はかに思えた。
(私は、あの子を“ただの子供”として扱い、先に手放した。なのに今になって、取り戻したいと願ったのは誰だ?)
喉の奥が熱くなった。彼女がもはや「公爵令嬢」という肩書きだけでは語れない存在になっていることは、幾度となく耳にしている。道路は延び、倉庫は満ち、作柄は改善に向かい、領民は笑う。
その変化の根に、必ず小さな名がある――セリカ。
四歳。たったそれだけの年齢で、書類の欄外に識見を添え、現地に足を運び、結果を置いてくる。伝聞でさえ眩しいのに、直接会えば、なおさらだった。
無邪気な瞳で真っ直ぐに言う。「では、とりあえずキープでもよろしかったのでは?」――あの一言が、何度も胸を刺す。
軽口に見せかけた、徹底した現実認識。自分の立場も、相手の立場も、未来の不確実さも、すべて見た上での言葉だった。
中庭の噴水まで来ると、アコードはふと足を止めた。水面は薄い風に乱れ、映る顔を細かく砕く。
砕けたのは水か、それとも自分か。判別がつかない。
「殿下」
背後から控えめな声。振り返ると、侍従のルーカスが跪き、視線だけを上げた。忠実で、言葉を選べる青年だ。
「朝からお戻りになられず。……お身体が冷えてしまいます」
「心配はいらない。冷えるべきは頭の方だ」
自嘲の色を滲ませると、ルーカスは短く目を伏せたのち、静かに言った。
「王室は“拒絶された”のではなく、“方針を示された”のです。ディオール家は、娘君の力を領地の柱にする、と。――王家にとっても、国の土台が強固になるのは利でございます」
「理屈はわかる。わかっているのに……胸の底で何かが暴れる。みっともない話だが」
「みっともなくはございません」
ルーカスは淀みなく続けた。「かつて殿下は彼女を“守るべき幼子”として手放された。今、殿下は彼女を“並び立つべき才”として見ておられる。視座が変われば、痛みも変わります」
アコードは小さく笑う。「口が達者だ」
「務めですので」
わずかに口元だけで笑い、ルーカスは言葉を探るように間を置いた。「……殿下は、彼女を“側に置く”ことで救いたいのですか。――それとも、“彼女の選んだ場所で力を尽くせるよう、遠くから道を整える”ことで救いたいのですか」
噴水の水音が、一拍、重く響いた。
問いは刃だ。避ければ傷になり、受ければ血を流す。それでも、ここで避けるほど若くはない。
「後者だと、答えるべきなのだろう」
言葉にした瞬間、胸の疼きが少しだけ形を与えられる。「本心は、未練に濁っている。だが、王は未練で動いてはならない」
「殿下はまだ王ではありませんが、王になる方です」
ルーカスは淡々と、しかし温度を宿して言った。「ならば、“道”をお持ちください」
「道……」
「ディオール領が育てる才が、王都でも息をする道です。街道、関税、学舎、奨学。彼女が発する知を、王国規模で循環させる仕組み――それが、王の愛であり、政治です」
アコードは目を閉じ、ゆっくり息を吐いた。
脳裏に、幾度も見た小さな横顔が浮かぶ。書板を抱え、背筋を伸ばし、難しい語彙を噛み砕いて説明する姿。わからないことは「見に行きます」と言って現地に降りる、小さな足。
手を伸ばせば届く距離に置きたい。だが――彼女の立つ場所を狭めたくはない。
「……わかった、ルーカス。ならば私は、“並び立つ準備”をする」
言葉に芯が通る。「王立学院の奨学金を拡充する。出自を問わず、地方の才が王都で学べるようにする。交易路はディオールと王都を結ぶ幹線を先行整備。関所の手数料は領内産品に限って減免を……いや、等しく扱おう。偏りは禍根になる」
ルーカスが安堵の息を漏らす。「承知いたしました。政務局と学院に手を回します」
「それと」
アコードは噴水の縁から手を離し、指先の冷えを握り込んだ。「個人的なことだが――私信を書こう。儀礼ではなく、正直な言葉で。……“あなたの選択を尊重する。あなたが進む道に、私は王として道標を置こう”と」
ルーカスは深く頷いた。「殿下の言葉なら、必ず届きます」
「届けるだけでいい。掴もうとはしない」
自分に言い聞かせるように繰り返し、アコードは小さく笑った。「そう決めないと、私はきっと、また子供じみた過ちを犯す」
沈む陽が、薄金の光を中庭に撒いた。長い影が二つ、石畳に並ぶ。
王子の影は、さっきよりも少しだけまっすぐだった。
歩き出す。回廊の先には政務局、学院、地図室。やるべきことは尽きない。
それでいい。未練は手を動かす熱へと変えればいい。
(セリカ。君が選んだ場所を、私は侵さない。
だが、君が見据える遠い地平へ続く大路を、私は引く。王として)
静かな決意が、胸の中心に灯る。
それは恋よりも長く燃える火――“責務”の温度だった。
ふと、振り返る。噴水の水面は、先ほどよりも穏やかだ。
砕けていた面影が、ひとつに戻りつつある。
「行こう、ルーカス」
「はい、殿下」
二人の足音が、今度は同じ調子で廊下に刻まれていった。
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それでも――歩むための道が、確かに見え始めていた。
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