92 / 108
22-1 第二王子、エリシオン王子
しおりを挟む
第22章 第二王子、エリシオン王子
22-1 第二王子、エリシオン王子
リュミエール王宮の朝は、鐘の音より先に剣の風で目覚める。
東庭――白い石畳の内側、露をまとった芝の上で、一人の王子が無駄のない足さばきで木剣を振っていた。
第二王子、エリシオン。
飾り気のない黒の稽古着。金糸も宝石もなく、ただ呼吸と重心だけで形を創る剣。そこにあるのは、見せるためではなく“整えるため”の技だった。
「殿下、第一組の稽古人員、揃いました」
「……続けてくれ。私はここまでだ」
軽く顎を引いて木剣を納めると、彼は誰より早く周囲の汗止めの布を回収し、手早く桶に落とした。
王族の所作ではない――そう言って眉をひそめる者は少なくない。だが彼は、いつも通り気に留めない。
王族である前に、ここでは剣の学徒であるだけだ。そういう顔をしていた。
王宮の誰もが知っている。
第一王子アコードが陽なら、第二王子エリシオンは影。
影は目立たない。だが、陽が揺らいだとき、初めてその輪郭の鋭さが露わになる。
それでも彼は、陽の座を望まない。
> 「やりたいやつがやればいい。私はその気はない」
口数少なく、いつも同じように言う。
宮廷は彼を“異端”と呼ぶ。王の血を引き、智も武も備えながら、権勢に背を向けるからだ。
けれど本人は、呼び名の重さに肩をすくめるばかりだった。
---
午前の執務が終わると、エリシオンは図書棟へ向かう。
王宮で最も静かな回廊――磨かれた床に、葉擦れの影がゆれている。
彼は古い地誌を一冊抜き、余白にさらさらと書き込みを加えた。水利と交易路、山間の村に必要な橋の数。数字は冷静だが、筆致はどこか優しい。
“治める”のではなく“整える”。彼の政治は、いつだってそんな距離感だ。
「殿下、先ほどの評定で――」
「兄上が決めたのだろう? なら、私が口を挟む理由はない」
側仕えが肩を落とす。
第一王子こそ次代の王。エリシオンは、その事実を旗のように掲げ続けている。
自らが掲げれば、旗は風を呼ぶ。不要な風は争いを呼ぶ――彼はそれを、一番嫌った。
> 「王家は、兄上が継げば丸く収まる。内は静かに、外は強く。……それでいい」
そう言って窓を開ける。
秋の気配を含む風が流れ込み、紙の端がふっと踊った。
---
王宮の噂は、彼をさまざまに語る。
“高潔”、“淡白”、“無欲”。
賛辞と揶揄は裏表だ。
――本来ふさわしいのは、あの方だ。
そんな囁きが、回廊の陰で燻り続ける。
彼が一歩、表へ出るだけで、均衡は音を立てて変わる。
だから、出ない。
それは逃避ではなく、選択――彼自身の、固い誓い。
> 「私が前に出て国が軋むなら、出ない方がいい。権力は人を救うこともあるが、同じ速さで人を裂く」
剣を振るよりも速く、彼はそう結論していた。
---
夕刻、灰青の空を背に、兄アコードが廊に現れる。
すれ違いざま、兄は足を止めた。
「エリシオン。お前に担わせたい席がある」
「……兄上が座るべき席なら、兄上が座ってくれ」
「国境会議だ。誰かが“冷たい声”で均してくれないと、熱に傾く」
短い沈黙。
エリシオンは目を細め、わずかに笑った。
「なら、影として壁際に立とう。席はいらない」
「……相変わらずだな」
「お互い様だよ、兄上」
兄の去った回廊に、靴音だけが長く伸びる。
彼は天井を仰ぎ、ひとつ息を吐いた。
争いではなく、安定を。
名ではなく、実を。
その願いは、王族である前に、一人の人間としての祈りに近かった。
---
夜。王宮の中庭は、灯火が湖面のように揺れている。
エリシオンは石縁に腰をおろし、袖の内から一通の報せを取り出した。
――ディオール領、再婚約を正式発表。
アコード王子と、セリカ・ディオール。
紙を畳み、胸の内で短く言葉にする。
> 「よかったな、兄上。……よかったな、王国」
それだけ言って、彼は静かに目を閉じた。
歓喜も嫉妬もない。あるのは、均衡がひとつ整うことへの安堵。
“異端”と呼ばれる男は、国の幸せが音もなく積み上がることを、何より好む。
やがて足音。
近衛の若者が駆け寄り、膝をついた。
「殿下、辺境から急電です。北の関所で、商人同士の争いが――」
「火は小さいうちに払うのがいい。記録官を二人、衛兵を二十、仲裁に長けた書吏を一。……私名義の通行状を添えて」
「はっ!」
「それと、補償の基準案を三つ。利が均される形で。夜明けまでに」
指示は簡潔で、冷たいほどに公平。
だが、その結末はいつも人を泣かせることなく収める――そんな不思議な温度を持っていた。
若者が走り去ると、エリシオンは水面に映る灯を指先で弾いた。波紋が輪になり、重なり、やがて静まる。
> 「私はただ、穏やかな国を見守ることができれば、それでいいのだ」
それが、彼のすべてだった。
才も、立場も、血も、彼を王へ押し上げる材料にはなる。
けれど――押し上げられた先に、ひび割れた国が待つくらいなら。
彼は影に徹し、見えないところで均し、整え、つなぐ。
王宮は今日も、彼を“異端”と呼ぶだろう。
それでも、誰もが知っている。
異端という名の、静かな支柱がここにいることを。
灯がひとつ、またひとつ消え、夜が深まる。
エリシオンは立ち上がり、黒い外套を肩に掛けた。
彼の歩幅はいつだって一定だ。
この国が乱れず呼吸できるよう、影の律動で歩いていく。
――そして、彼の道は、ほどなくして“新たな王妃”と交わる。
国の均衡が、もう一段先へ進むために。
22-1 第二王子、エリシオン王子
リュミエール王宮の朝は、鐘の音より先に剣の風で目覚める。
東庭――白い石畳の内側、露をまとった芝の上で、一人の王子が無駄のない足さばきで木剣を振っていた。
第二王子、エリシオン。
飾り気のない黒の稽古着。金糸も宝石もなく、ただ呼吸と重心だけで形を創る剣。そこにあるのは、見せるためではなく“整えるため”の技だった。
「殿下、第一組の稽古人員、揃いました」
「……続けてくれ。私はここまでだ」
軽く顎を引いて木剣を納めると、彼は誰より早く周囲の汗止めの布を回収し、手早く桶に落とした。
王族の所作ではない――そう言って眉をひそめる者は少なくない。だが彼は、いつも通り気に留めない。
王族である前に、ここでは剣の学徒であるだけだ。そういう顔をしていた。
王宮の誰もが知っている。
第一王子アコードが陽なら、第二王子エリシオンは影。
影は目立たない。だが、陽が揺らいだとき、初めてその輪郭の鋭さが露わになる。
それでも彼は、陽の座を望まない。
> 「やりたいやつがやればいい。私はその気はない」
口数少なく、いつも同じように言う。
宮廷は彼を“異端”と呼ぶ。王の血を引き、智も武も備えながら、権勢に背を向けるからだ。
けれど本人は、呼び名の重さに肩をすくめるばかりだった。
---
午前の執務が終わると、エリシオンは図書棟へ向かう。
王宮で最も静かな回廊――磨かれた床に、葉擦れの影がゆれている。
彼は古い地誌を一冊抜き、余白にさらさらと書き込みを加えた。水利と交易路、山間の村に必要な橋の数。数字は冷静だが、筆致はどこか優しい。
“治める”のではなく“整える”。彼の政治は、いつだってそんな距離感だ。
「殿下、先ほどの評定で――」
「兄上が決めたのだろう? なら、私が口を挟む理由はない」
側仕えが肩を落とす。
第一王子こそ次代の王。エリシオンは、その事実を旗のように掲げ続けている。
自らが掲げれば、旗は風を呼ぶ。不要な風は争いを呼ぶ――彼はそれを、一番嫌った。
> 「王家は、兄上が継げば丸く収まる。内は静かに、外は強く。……それでいい」
そう言って窓を開ける。
秋の気配を含む風が流れ込み、紙の端がふっと踊った。
---
王宮の噂は、彼をさまざまに語る。
“高潔”、“淡白”、“無欲”。
賛辞と揶揄は裏表だ。
――本来ふさわしいのは、あの方だ。
そんな囁きが、回廊の陰で燻り続ける。
彼が一歩、表へ出るだけで、均衡は音を立てて変わる。
だから、出ない。
それは逃避ではなく、選択――彼自身の、固い誓い。
> 「私が前に出て国が軋むなら、出ない方がいい。権力は人を救うこともあるが、同じ速さで人を裂く」
剣を振るよりも速く、彼はそう結論していた。
---
夕刻、灰青の空を背に、兄アコードが廊に現れる。
すれ違いざま、兄は足を止めた。
「エリシオン。お前に担わせたい席がある」
「……兄上が座るべき席なら、兄上が座ってくれ」
「国境会議だ。誰かが“冷たい声”で均してくれないと、熱に傾く」
短い沈黙。
エリシオンは目を細め、わずかに笑った。
「なら、影として壁際に立とう。席はいらない」
「……相変わらずだな」
「お互い様だよ、兄上」
兄の去った回廊に、靴音だけが長く伸びる。
彼は天井を仰ぎ、ひとつ息を吐いた。
争いではなく、安定を。
名ではなく、実を。
その願いは、王族である前に、一人の人間としての祈りに近かった。
---
夜。王宮の中庭は、灯火が湖面のように揺れている。
エリシオンは石縁に腰をおろし、袖の内から一通の報せを取り出した。
――ディオール領、再婚約を正式発表。
アコード王子と、セリカ・ディオール。
紙を畳み、胸の内で短く言葉にする。
> 「よかったな、兄上。……よかったな、王国」
それだけ言って、彼は静かに目を閉じた。
歓喜も嫉妬もない。あるのは、均衡がひとつ整うことへの安堵。
“異端”と呼ばれる男は、国の幸せが音もなく積み上がることを、何より好む。
やがて足音。
近衛の若者が駆け寄り、膝をついた。
「殿下、辺境から急電です。北の関所で、商人同士の争いが――」
「火は小さいうちに払うのがいい。記録官を二人、衛兵を二十、仲裁に長けた書吏を一。……私名義の通行状を添えて」
「はっ!」
「それと、補償の基準案を三つ。利が均される形で。夜明けまでに」
指示は簡潔で、冷たいほどに公平。
だが、その結末はいつも人を泣かせることなく収める――そんな不思議な温度を持っていた。
若者が走り去ると、エリシオンは水面に映る灯を指先で弾いた。波紋が輪になり、重なり、やがて静まる。
> 「私はただ、穏やかな国を見守ることができれば、それでいいのだ」
それが、彼のすべてだった。
才も、立場も、血も、彼を王へ押し上げる材料にはなる。
けれど――押し上げられた先に、ひび割れた国が待つくらいなら。
彼は影に徹し、見えないところで均し、整え、つなぐ。
王宮は今日も、彼を“異端”と呼ぶだろう。
それでも、誰もが知っている。
異端という名の、静かな支柱がここにいることを。
灯がひとつ、またひとつ消え、夜が深まる。
エリシオンは立ち上がり、黒い外套を肩に掛けた。
彼の歩幅はいつだって一定だ。
この国が乱れず呼吸できるよう、影の律動で歩いていく。
――そして、彼の道は、ほどなくして“新たな王妃”と交わる。
国の均衡が、もう一段先へ進むために。
40
あなたにおすすめの小説
多分悪役令嬢ですが、うっかりヒーローを餌付けして執着されています
結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
【美味しそう……? こ、これは誰にもあげませんから!】
23歳、ブラック企業で働いている社畜OLの私。この日も帰宅は深夜過ぎ。泥のように眠りに着き、目覚めれば綺羅びやかな部屋にいた。しかも私は意地悪な貴族令嬢のようで使用人たちはビクビクしている。ひょっとして私って……悪役令嬢? テンプレ通りなら、将来破滅してしまうかも!
そこで、細くても長く生きるために、目立たず空気のように生きようと決めた。それなのに、ひょんな出来事からヒーロー? に執着される羽目に……。
お願いですから、私に構わないで下さい!
※ 他サイトでも投稿中
辺境は独自路線で進みます! ~見下され搾取され続けるのは御免なので~
紫月 由良
恋愛
辺境に領地を持つマリエ・オリオール伯爵令嬢は、貴族学院の食堂で婚約者であるジョルジュ・ミラボーから婚約破棄をつきつけられた。二人の仲は険悪で修復不可能だったこともあり、マリエは快諾すると学院を早退して婚約者の家に向かい、その日のうちに婚約が破棄された。辺境=田舎者という風潮によって居心地が悪くなっていたため、これを機に学院を退学して領地に引き籠ることにした。
魔法契約によりオリオール伯爵家やフォートレル辺境伯家は国から離反できないが、関わり合いを最低限にして独自路線を歩むことに――。
※小説家になろう、カクヨムにも投稿しています
無魔力の令嬢、婚約者に裏切られた瞬間、契約竜が激怒して王宮を吹き飛ばしたんですが……
タマ マコト
ファンタジー
王宮の祝賀会で、無魔力と蔑まれてきた伯爵令嬢エリーナは、王太子アレクシオンから突然「婚約破棄」を宣告される。侍女上がりの聖女セレスが“新たな妃”として選ばれ、貴族たちの嘲笑がエリーナを包む。絶望に胸が沈んだ瞬間、彼女の奥底で眠っていた“竜との契約”が目を覚まし、空から白銀竜アークヴァンが降臨。彼はエリーナの涙に激怒し、王宮を半壊させるほどの力で彼女を守る。王国は震え、エリーナは自分が竜の真の主であるという運命に巻き込まれていく。
婚約破棄されたので辺境伯令嬢は自由に生きます~冷酷公爵の過保護が過ぎて困ります!~
sika
恋愛
「君のような女と婚約していたなど、恥だ!」
公爵嫡男に突然婚約を破棄された辺境伯令嬢リーゼは、すべてを捨てて故郷の領地へ戻る決意をした。
誰にも期待せず、ひっそりと生きようとするリーゼの前に現れたのは、冷酷と噂される隣国の公爵・アルヴィン。
彼はなぜかリーゼにだけ穏やかで優しく、彼女を守ることに執着していて――。
「君はもう誰にも踏みにじられない。俺が保証しよう」
呪いのような過去を断ち切り、真実の愛を掴むざまぁ×溺愛ラブストーリー!
【連載版】婚約破棄されて辺境へ追放されました。でもステータスがほぼMAXだったので平気です!スローライフを楽しむぞっ♪
naturalsoft
恋愛
短編では、なろうの方で異世界転生・恋愛【1位】ありがとうございます!
読者様の方からの連載の要望があったので連載を開始しました。
シオン・スカーレット公爵令嬢は転生者であった。夢だった剣と魔法の世界に転生し、剣の鍛錬と魔法の鍛錬と勉強をずっとしており、攻略者の好感度を上げなかったため、婚約破棄されました。
「あれ?ここって乙女ゲーの世界だったの?」
まっ、いいかっ!
持ち前の能天気さとポジティブ思考で、辺境へ追放されても元気に頑張って生きてます!
※連載のためタイトル回収は結構後ろの後半からになります。
編み物好き地味令嬢はお荷物として幼女化されましたが、えっ?これ魔法陣なんですか?
灯息めてら
恋愛
編み物しか芸がないと言われた地味令嬢ニニィアネは、家族から冷遇された挙句、幼女化されて魔族の公爵に売り飛ばされてしまう。
しかし、彼女の編み物が複雑な魔法陣だと発見した公爵によって、ニニィアネの生活は一変する。しかもなんだか……溺愛されてる!?
[完]本好き元地味令嬢〜婚約破棄に浮かれていたら王太子妃になりました〜
桐生桜月姫
恋愛
シャーロット侯爵令嬢は地味で大人しいが、勉強・魔法がパーフェクトでいつも1番、それが婚約破棄されるまでの彼女の周りからの評価だった。
だが、婚約破棄されて現れた本来の彼女は輝かんばかりの銀髪にアメジストの瞳を持つ超絶美人な行動過激派だった⁉︎
本が大好きな彼女は婚約破棄後に国立図書館の司書になるがそこで待っていたのは幼馴染である王太子からの溺愛⁉︎
〜これはシャーロットの婚約破棄から始まる波瀾万丈の人生を綴った物語である〜
夕方6時に毎日予約更新です。
1話あたり超短いです。
毎日ちょこちょこ読みたい人向けです。
婚約破棄をされ、父に追放まで言われた私は、むしろ喜んで出て行きます! ~家を出る時に一緒に来てくれた執事の溺愛が始まりました~
ゆうき
恋愛
男爵家の次女として生まれたシエルは、姉と妹に比べて平凡だからという理由で、父親や姉妹からバカにされ、虐げられる生活を送っていた。
そんな生活に嫌気がさしたシエルは、とある計画を考えつく。それは、婚約者に社交界で婚約を破棄してもらい、その責任を取って家を出て、自由を手に入れるというものだった。
シエルの専属の執事であるラルフや、幼い頃から実の兄のように親しくしてくれていた婚約者の協力の元、シエルは無事に婚約を破棄され、父親に見捨てられて家を出ることになった。
ラルフも一緒に来てくれることとなり、これで念願の自由を手に入れたシエル。しかし、シエルにはどこにも行くあてはなかった。
それをラルフに伝えると、隣の国にあるラルフの故郷に行こうと提案される。
それを承諾したシエルは、これからの自由で幸せな日々を手に入れられると胸を躍らせていたが、その幸せは家族によって邪魔をされてしまう。
なんと、家族はシエルとラルフを広大な湖に捨て、自らの手を汚さずに二人を亡き者にしようとしていた――
☆誤字脱字が多いですが、見つけ次第直しますのでご了承ください☆
☆全文字はだいたい14万文字になっています☆
☆完結まで予約済みなので、エタることはありません!☆
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる