婚約破棄されたけど、むしろ好都合ですわ!

しおしお

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第2章:揺れ動く王都と、隣国の誘い

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 王太子アルベルトとの婚約を破棄されてから数日後。
 以前なら朝食を食べながら侍女たちと今日のスケジュールを確認し、午後には王宮に行くか、あるいは社交界の集まりに顔を出すかしていたはずなのに――今は公爵家の屋敷で、静かな時間を過ごすことが多くなった。

 「セイラお嬢様、よろしければ朝の紅茶をお持ちいたしますね」

 使用人の優しい声に、小さく微笑んで返事をする。私の部屋には、寝台や化粧台のほかに、少しばかり書物を置くためのスペースがあり、そこを簡易的な書斎のようにして古い文献を読んでいることが多い。――そう、最近は時間だけは有り余るほどあるのだ。

 元々、王太子妃候補として動いていた頃は、あれほど嫌になるほど詰め込まれていた日々の予定が、今は嘘のように空白だらけである。貴族の集まりに招かれることもあるが、今の私を呼んでくれるのは「セイラは本当に悪女なの?」と興味本位で探りを入れたい者か、あるいは逆に「王太子に破棄された娘を慰めたい」と同情で声をかけてくれる者くらい。どちらにせよ、あまり愉快な空間ではないし、ここしばらくは招待をすべて断っていた。

 そのため、私は家にこもり、久しく触れられなかった本の世界にどっぷり浸かっている。幼い頃から学問を学ぶことは好きだったし、特に歴史や魔法学の古文書を読むのは性に合っている。王太子妃にならないのなら、むしろこうした暮らしも悪くない――と、内心思ってしまうほどだ。

 しかし、私以外の家族はそうもいかない。特に父・アークライト公爵は、王太子による一方的な婚約破棄を許せないらしく、ここ数日は毎日のように王宮への抗議や、他の貴族への根回しに大忙しだった。

1.波紋を広げる破棄騒動

 その日の朝、私は執事から「当主がお呼びです」という伝言を受け取った。父はたいてい執務室で来客や書類の処理をしているが、私のことをわざわざ呼び出すのは久しぶりだ。何やら不安が胸をよぎるが、私は上等な生地のドレスに袖を通し、書物を一旦閉じてから執務室へ向かった。

 扉をノックすると、怒号にも似た声が中から聞こえる。――大方、父が執事か顧問官に当たり散らしているのだろう。最近はずっと機嫌が悪い。私が部屋に入ると、父は机から身を乗り出すようにして、私を睨みつけてきた。

「……セイラ。おまえ、どうして自分から何も動かんのだ」

 まるでため息を吐き捨てるかのような、その重苦しい声に、一瞬息が詰まる。けれど、気圧されてばかりもいられない。私はなるべく落ち着いた声で答えた。

「何か動く必要がありますか? 婚約はすでに破棄されましたし、私としては、このままでも構わないのですが」

「馬鹿なことを言うな! 王太子にあそこまで侮辱されて、黙って引き下がるなど、公爵家の名誉に関わる問題だ。私だって必死に動き回っているというのに、おまえはもう少し危機感を持てないのか?」

 父の言うことも分からなくはない。私が何も言わなければ、まるで公爵家が王家の好き勝手を受け容れたように見えてしまうだろう。下手をすれば「公爵家は王家に恭順の姿勢を示した」と取られかねない。父は公爵としてのプライドを守りたいのだ。

 だが、私は今さらアルベルトのもとに戻りたくはない。それだけははっきりしている。

「お父様、私はもう殿下のもとへ戻る気はありません。あの方がリリアを選んだのなら、それで結構です。……ですから、どうか私をこのままにしておいてはもらえませんか?」

 そう言うと、父は怒りを堪え切れない様子で机を叩いた。

「……おまえには分からんのだ! おまえ一人の問題ではない。公爵家が王太子に梯子を外されたとあっては、我が家の立場にも影響が出る。いずれは爵位や領地の扱いにも響くかもしれんのだぞ?」

 確かに、それは私も心配していた。王家と密接な関係を築いてきた公爵家が、王太子から一方的に婚約を破棄されれば、政治的にも少なからずダメージを受ける可能性はある。だが、それでも私は自分を偽ってまで王太子とやり直す気にはなれない。そこまで強く結婚を望んでいたわけではないからだ。

「お父様……お気持ちはわかりますが、私は今さら王太子殿下とどうこうしたいとは思いません。今は少しでも心身を休めたいと考えていますので、どうかご理解ください」

 言葉を尽くして説明しても、父の表情からは怒りの色が消えない。やがて、彼は苛立たしげに机の上に散らばっている書類を掴み、バサリと乱暴に放り投げた。

「……ならば、おまえ自身が何をするか、しっかり考えておけ。私は私で公爵家の体面を守るために最善を尽くす。それだけだ」

 そう言い放たれると、私ももう言葉を重ねる余地はなかった。父が抱える怒りや焦燥感を、軽々しく否定できるわけでもない。私は静かに頭を下げ、部屋を後にする。――こうして私の中でも、新たな迷いが生じた。果たして私は本当に、ただ「何もしない」ままでいいのだろうか?

2.広がる噂と、求婚者たち

 父の懸念を裏付けるように、王太子との婚約破棄をめぐる噂は王都にますます広がっていた。
 その内容は多岐にわたる。例えば、

「セイラ・フォン・アークライトは、実はとんでもない悪事を働いていたらしい」

「いや、実は悪事など存在せず、聖女リリアが王太子を誘惑しているのだ」

「アークライト公爵家は裏で王家を操ろうとして失敗したのでは?」

 ……などなど、どれも根拠に乏しいものばかり。にもかかわらず、人々は面白がって噂を囁き合う。そんな中で、私の評判については「本当に悪女なのだろうか?」「彼女が何をしたというのだ?」と、むしろ疑問を呈する声のほうが大きかったようだ。かえって、具体的な証拠を提示しないアルベルトやリリアへの不審が高まっているらしく、**「王太子がおかしくなったのでは?」**と囁く者までいるという。

 そうして王太子の株が下がる一方、私のもとには妙な手紙が増え始めた。差出人はほとんどが上級貴族の家柄で、内容は**「セイラ様がもし王太子殿下と破談となったのなら、我が家に嫁がれませんか?」**――要するに求婚状だ。

 中には、**「王太子殿下の見る目がないのなら、私がその賢さを生かせるようお支えします」といった好意的な文面もあれば、「公爵家との繋がりを深めたい」**という露骨な政治的思惑が透けて見えるものもある。いずれにせよ、私が婚約破棄された今こそがチャンスだと考えているわけだ。自分で言うのもなんだが、王太子候補だったという経歴は、ある種の「箔付け」になってしまうらしい。

「……ただの下心ばかりね」

 書斎の机でその手紙の束を眺めながら、私はひとりごちる。たしかに貴族の婚姻は政略が絡むものだし、私もそれを完全に否定する気はない。けれど、今の私にとっては「ただちに次の結婚相手を探すこと」は求めていない。そもそも私は、この機会を利用して自由に生き方を選びたいと考えているのだから。

 そっと手紙の束を脇に寄せ、私は深呼吸する。ふと、隣国の第一王子・レオニスの姿が脳裏をよぎる。――数日前、突然訪れてきたあの男性は、「私に興味がある」「隣国へ来ないか」と言った。あれは衝撃的な提案だった。まさか私が「隣国の王妃候補」になる可能性を示唆されるとは……。

 だが、いきなり決められることではない。そもそも、お互いほとんど知らない間柄だ。それに、私がレオニスに惹かれないとは言えないまでも、まだ自分の気持ちがはっきり定まっているわけでもなかった。

 しかし、一方で**「レオニスなら私の自由を尊重してくれそう」**という期待もある。あの落ち着いた物腰や鋭い洞察は、アルベルトにはなかった魅力だ。もし彼のもとでなら、王妃としての役割をこなしながらも、自由に研究や旅を楽しめるのだろうか……? 少なくとも「悪女だ」と決めつけられることはなさそうだが。

 頭の中でぐるぐる思考が渦巻いていると、ノックの音がした。使用人が顔を出し、私に知らせる。

「セイラお嬢様。隣国の王子――レオニス殿下から、茶会への招待状が届いております。どうなさいますか?」

 ドキリと胸が高鳴った。ちょうど考えていた矢先のことだ。先日、彼と交わした言葉を思い出す。「近々、茶会を開く予定だ。都合がつけば来てほしい」――あれは本気だったらしい。

 私は使用人から招待状を受け取り、さらりと目を通す。そこには確かに、日取りと場所が書かれており、丁寧な言葉で「ぜひいらしてほしい」と誘われている。どうやらこの国で滞在している客殿を借り、レオニス自身が主催する形の茶会になるようだ。出席者は私以外にも数名ほど、王都の上級貴族が招かれるらしいが、その顔ぶれは不明だ。

 ……ここで私が行くべきか、行かざるべきか。迷う気持ちはあるが、行かずにいても一向に話は進まない。むしろ「知りたい」と思うなら、自分の足で確かめるべきだろう。

「……出席いたします、とお返事してちょうだい」

 そう使用人に告げて、私は招待状を大事に机の引き出しにしまった。

3.貴族たちの憶測と、初めての隣国茶会

 迎えた茶会当日。私は黒系統の装飾が控えめなドレスを選んだ。いつもならもう少し華やかな色を身につけるところだが、婚約破棄騒動の渦中にある私にとって、あまり派手な装いは好ましくないと感じたのだ。もともとドレス選びにはあまり執着がない私だが、やはり公爵令嬢として、最低限の礼儀と品位は大切だろう。

 場所は王都の中心部にほど近い、大きな石造りの館だった。私が到着すると、玄関先にはすでに何台もの馬車が止まっており、私と同じように招かれた貴族たちがぞろぞろと入っていくのが見える。**「隣国の王子が開く茶会だ」**と噂になっているらしく、どの客も服装には相当気を遣っているようだ。

 館の扉をくぐると、使用人に名前を告げられ、奥の広間へ案内された。そこは大きなガラス窓から日差しが降り注ぎ、明るく開放的な空間だった。壁には花をかたどった装飾が施され、数々の豪華な調度品が並んでいる。隣国の文化を取り入れたのだろうか、どこかこの国の王宮とは異なる雰囲気があり、興味をそそられる。

「おや、セイラ・フォン・アークライト公爵令嬢。ようこそ、よく来てくれたね」

 声のほうを振り向けば、そこにはレオニス王子がいた。黒髪を短く整えた彼は、今回も隣国の正礼装らしき上着をまとい、肩には金の飾りがちらりと見えている。片手を胸に当てて軽く会釈するその姿は、やはりどこか余裕が感じられた。

「ご招待、ありがとうございます。……豪華な館ですわね」

「一時的に借りているだけさ。滞在中、こうした機会を設けたいと思っていたのでね。せっかくだから、王都の貴族たちと交流を深められればと考えたんだ」

 彼はそう言いながら、私の表情を観察するように目を細める。私はその視線に少しばかり胸がざわつくのを感じた。――まるで内面を見透かすように、彼はいつも相手をじっと見る癖があるようだ。

「……お気に障るようなことを言うかもしれませんが、なぜ私を招こうと思われたのです? ほかの貴族たちから反感を買う恐れはないのでしょうか」

 私は素直な疑問を口にする。というのも、今の私は**“婚約破棄されたスキャンダラスな女性”**と思われている可能性が高い。アルベルトやリリアを信じている人々からすれば、私など招きたくないはずだろう。

 しかし、レオニスはまったく意に介さないといった様子で、くすりと笑う。

「私が招きたい相手を招く。それだけの話だよ。隣国の王子が、誰を招こうと自由だろう? ましてや、君の噂は私の耳にも届いているが、むしろそれが面白い。……“悪女”とされているが、本当にそうなのかどうかを、この目で確かめたいからね」

 その言葉には、あからさまな挑発の響きはない。むしろ好奇心に満ちている。――本当に「面白いから招いた」と言わんばかりだが、私は一瞬、複雑な感情に襲われた。自分が見世物になっているような気もするし、とはいえ彼の真っ直ぐな瞳に宿る興味は嘘ではなさそうだ。

「……まあ、確かめていただく分には構いません。ただ、私を晒し者にするような真似はやめていただけるとありがたいのですけれど」

「それは心配無用。ここには私の信用できる人間しか呼んでいないし、もし不届き者がいれば排除するだけさ。それに、君を苛立たせるような行為は私の望むところではない」

 レオニスはそう言うと、私を奥の席へエスコートしてくれた。そこには豪華なソファやテーブルが並び、既に数名の貴族たちが会話を楽しんでいる。中には私に気づき、ヒソヒソと囁き合う者たちもいるが、大半はすぐに朗らかな表情で挨拶をしてくれる。さすがは王子が招いた客だけあって、あからさまな嫌悪を示す人間はいないらしい。

 私はぎこちなく会釈を返しながら、勧められた椅子に腰かけた。やがて使用人が運んでくる芳醇な香りの紅茶と、軽やかな菓子の数々。どれも普段の王宮や貴族の集まりでは見かけないようなものが多い。おそらく隣国特有のレシピなのだろうか、独特のスパイスや甘みが感じられ、舌がくすぐられるような味わいだ。

(こんなにも違うものなのね、隣国の文化というのは……)

 私は内心、好奇心を刺激されながらお茶をすすった。そして自然と、レオニスの言葉に思いを巡らせる。もし、私がこの国を出て、彼のもとへ行くとしたら――きっと今まで知らなかった文化や人々と触れ合うことになるのだろう。そう想像するだけで、胸が踊る気持ちを覚える。

4.王太子の影と、迫り来る噂

 茶会が始まってしばらくの間、特に波乱はなかった。レオニスが中央で挨拶をし、招いた貴族たちに「これを機に友好を深めたい」と語る。私を含め、ほかの客たちも和やかに会話を交わし、隣国の珍しいお茶や菓子に舌鼓を打つ。

 そんな中、ちらほらと私に言葉をかけてくる人もいた。特に、侯爵家の令息とその婚約者の令嬢は、「セイラ様が本当に悪女だなんて、信じていません」とはっきり言ってくれた。彼らは「王太子殿下がああも強引な態度をとるのはおかしい」とも感じているらしく、むしろ私に同情的だ。

「リリア様が聖女だというのは結構ですが、肝心の“奇跡”に関する詳細が全然伝わってきませんもの。おかげで、王太子殿下に対する不信感が高まるばかりです」
「セイラ様がもし本当に国を乱す悪女だとしたら、もっと明確な証拠があるはず。アルベルト殿下がなぜそこまで彼女を糾弾するのか理解できませんわ」

 彼らの言葉を聞きながら、私は心底ほっとしていた。王都中すべての貴族が私を疑っているわけではないし、むしろ王太子の行動を不審に思う人も少なくないのだ。それは私にとって大きな救いだった。

 とはいえ、こうした考えを公然と言うのはリスクがある。王太子を批判することは王権を揺るがす行為にもなりかねないからだ。だから、彼らは声を潜めながら私に同調してくれる。レオニスはそんな様子を遠巻きに見守りつつ、時折微笑を浮かべる。

 やがて、茶会が後半に差しかかる頃、空気を揺るがすような報せがもたらされた。レオニスの部下らしき青年が広間に駆け込んで、主君である王子に何事かを耳打ちする。すると、レオニスの表情が一瞬で険しくなった。

「……何? まさか、ここに……?」

 低く抑えた声でそう呟き、レオニスは私のほうへ視線を投げかける。そして、少しばかり困ったように肩をすくめると、宣言した。

「諸君、どうやらとんでもない客が来たらしい。……王太子アルベルト殿下が、この館の前に現れたそうだ」

 その言葉に、広間は一気にざわめいた。まさか、あの王太子が隣国の王子が開く茶会に、無断で訪れるとは誰も想像していなかったのだろう。私も驚きで息を飲む。――一体、彼は何をしに来たのか?

 戸惑いの沈黙が漂う中、ドアが勢いよく開かれ、見慣れた金髪碧眼の男が姿を現した。
 王太子アルベルト――私の元・婚約者だ。彼は高圧的な雰囲気を纏い、まるで自分こそが主人だと言わんばかりの足取りで広間へと乗り込んでくる。その後ろには、例の聖女リリアが控えるように寄り添っていた。

「……これは、奇遇だな。レオニス王子殿下。まさか王太子たる私を差し置いて、このような催しを開いているとは知らなかったぞ」

 アルベルトは口の端を吊り上げ、険のある声で言う。レオニスはやや呆れた様子を隠さず、冷静に返した。

「差し置いて、とは初耳だな。私はこの国に滞在している客人として、王都の貴族たちと交流を図っているに過ぎない。わざわざご報告する義務があるとも思えないが」

 その場の空気が一気に張り詰めた。王太子という絶対的な地位を誇るアルベルトに対して、隣国の王子であるレオニスはまるで対等以上の態度で応じているのだ。下手をすれば外交問題に発展しかねないが、アルベルトも“お客様”にあからさまな非礼を働くのは難しいだろう。ただ、彼はそれでも何とか言いがかりをつけようとしているように見える。

「……そうか。まあよい。ところで、セイラ・フォン・アークライト、貴様もここにいるのだな?」

 急に名前を呼ばれ、周囲の視線が私に集中する。私はアルベルトを見返しながら、できるだけ平静を装って一礼した。

「ごきげんよう、殿下。お久しぶりですわね」

 言葉自体は丁寧にしたが、彼への敬意はまるで込めていない。アルベルトは一瞬眉をひそめたが、すぐに軽蔑するような笑みを浮かべる。

「久しぶり、か……貴様は私に対して何か言うことはないのか? 先日の舞踏会で、私がお前の悪事を暴いたことを覚えていないわけではあるまい。いや、まさかここで他国の王子に媚を売っているとは……呆れた女だ」

 悪事とは具体的に何か――その問いを口にしそうになって、私は思いとどまる。今ここで感情を荒らげても仕方がない。それよりも、アルベルトがなぜわざわざこの茶会に来たのかが気になる。まさか、私を連れ戻しに来たわけでもあるまい。すでに彼はリリアと共にいるのだから。

「殿下に悪事などした覚えはございませんが、ここで口論しても場が荒れるだけでしょう。何か御用があるのなら、私ではなくレオニス殿下に伝えていただけます?」

「……言われなくとも分かっている。レオニス王子殿下、貴殿は今回の滞在中に我が国と新たな貿易協定を結ぶとか。ならば私としても、国を代表する立場として一度顔を出す必要があったのだ」

 そう言い繕うものの、その視線は明らかに私とリリアを交互に睨んでいる。リリアのほうも、私に向かって悲しげな顔を作りながら、一歩下がったところに立っている。

(何を企んでいるのかしら……)

 リリアもアルベルトも、いきなり現れた理由を明確にしない。ただ、周囲の客たちは気まずそうに目を伏せている。この場で王太子と隣国の王子が揉めたりすれば、自分たちがとばっちりを受けかねないからだ。

 そんな沈黙の中、レオニスが小さく息をつき、あくまで礼儀正しい口調で言った。

「アルベルト殿下がこうして足を運んでくださったのは光栄だ。ぜひ、ご一緒にお茶でもいかがだろう? なにしろ私は、貴殿とも親睦を深めたいと考えているのだから」

「……ふん。ならば、リリアの席も用意してもらおうか」

 アルベルトはそう言って、そばにいたリリアを促す。リリアははにかむように微笑みながら、一応レオニスに向かって会釈をした。

「はじめまして……。私はリリア・エルステッドと申します。聖女として、微力ながら王太子殿下をお支えしていますわ。今日は、お会いできてとても嬉しく思います」

 その可憐な姿と美しい声に、近くの貴族女性たちは「噂以上の美女……」と感嘆の息を漏らした。確かに、その容姿だけを見ればまるで神々しい少女のようだ。……しかし、私にはその笑顔の奥に見え隠れする、底知れない冷たさを感じ取ってしまう。

(あの子が……私を“悪女”だと王太子に吹き込んだ張本人、というわけね)

 リリアの視線が、ほんの一瞬だけ私と交差する。すると彼女は悲しげな表情を浮かべ、そっとかぶりを振るのだった。――まるで「あなたが罪を認めないから、私もつらいんです」と言いたげな態度だ。

 胸にかすかな苛立ちが募るが、今ここで大声を上げてもどうにもならない。少なくとも、レオニスが王子としての立場を弁え、この場を穏便に取り仕切ろうとしている以上、私が勝手に騒ぎを起こして台無しにするわけにはいかない。

5.それぞれの思惑、そして再会の火花

 こうして、王太子とリリアを加えた「異様な茶会」は続いた。とはいえ、アルベルトも場の手前、むやみに乱そうとはしない。リリアとともに席につき、レオニスや近くの貴族たちと形式的な会話を交わしている。

 私もなるべく目立たないよう、端のほうで紅茶を飲んでいたが、どうしてもアルベルトの存在が気になってしまう。先ほどから、彼は私を盗み見るような仕草を繰り返しているのだ。リリアもまた、私の様子をうかがっているのがわかる。――まるで、私が「何らかの行動」を取ることを期待しているかのようにも見えた。

(何が目的……? 私に謝罪を求めるでも、妃に戻れと言うでもない。なのに、わざわざここへ来て……)

 考えを巡らせていると、ふいに大きな物音が聞こえた。どうやら、客の一人が誤ってテーブルを倒しかけたらしい。慌てた使用人が片付けに走る。私も少し手伝おうかと腰を浮かせたその瞬間、アルベルトの声が響いた。

「……貴様は、いつまでそこに座っているつもりだ? セイラ・フォン・アークライト」

 見れば、彼は私に向かって鋭い視線を注いでいる。その金色の瞳に宿るのは、苛立ちとも怒りともつかぬ感情。私はそっと息をのみ、反射的に答えた。

「特に何か問題でも? 殿下が私に用がないのであれば、このままおとなしくしていますわ」

「…………」

 一瞬、アルベルトは言葉を失ったように口をつぐむ。すると、リリアが悲しそうな声で割って入った。

「アルベルト様、あまりセイラ様を責めないでくださいまし。きっと、セイラ様にもお考えがあるのですわ……。私たちがそれを理解しようとしなければ、いつまで経っても誤解は解けません……」

 まるで聖母のようなその口ぶりに、周囲の貴族たちは感心したように頷く。だが私は、その裏に潜む意図を感じずにはいられない。――「リリアは何も悪くない、むしろ私を理解しようとしてくれている」という姿を作り上げることで、あくまで私が孤立するように仕向けているのではないだろうか。

 案の定、アルベルトはリリアの手を取って大げさに溜め息をついた。

「そうだな……。だが、私には理解しがたい。貴様は悪女だと判明したはずなのに、こうして隣国の王子の茶会にのこのこ現れて……恥という概念はないのか?」

 それを言われて黙っているほど、私もお人形ではない。いくら周囲の空気があるとはいえ、これ以上言われっぱなしでは場の居たたまれなさが増すだけだ。

「殿下、いまだに具体的な証拠をお示しいただいておりませんが? 私は悪事を働いた覚えなどございません。それでも殿下が私を断罪なさるなら、その根拠を今ここで説明していただきたいわ」

 ピンと張り詰めた空気が広間を包む。茶会に来ていた客たちは息を飲んで様子を見守っている。レオニスは一見クールな顔を保っているが、その瞳には静かな警戒心が宿っているようだった。

 一方、アルベルトは余裕げだった表情を一変させ、悔しげに唇を噛む。すぐに反論する言葉を見つけられないらしい。リリアもまた、あの悲しげな顔を崩さぬまま、そっとアルベルトの腕に触れて促すように微笑んでいた。

「アルベルト様、今はそのような……ここはレオニス王子殿下の場ですし、あまり追及なさると……」

 その姿はあたかも「貴方が怒りを抑えられないなら、私が止めて差し上げる」という慈悲深い恋人といったところか。しかし、私から見れば、彼女は巧みにアルベルトの怒りを煽っているようにも見える。

(このまま黙っていたら、私だけが損をするような気がするわね……)

 そう感じた矢先、レオニスがゆっくりと席を立った。

「お二人とも、少し落ち着いてはどうかな。あまり声を荒らげると、他の客にも迷惑というものだろう。……アルベルト殿下、私がここを借りて茶会を開いているのは外交の一環でもある。そちらの内輪もめを公衆の面前で披露されるのは困るのだが」

 その言い方には淡々とした調子があるが、明らかに「これ以上茶会を混乱させるな」との警告が含まれていた。アルベルトはそれに苛立つように眉をひそめたが、さすがに隣国の王子に直接喧嘩を売るわけにもいかないのだろう。

「……ふん、そうだな。ここで喧嘩をしては礼を欠く。私もリリアも、もともと挨拶だけのつもりで来たのだ。……少し長居をしすぎたな」

 そう言うと、アルベルトはリリアの手を取り、唐突に踵を返した。リリアもそれに合わせて軽く頭を下げる。

「……失礼いたします。皆さま、楽しいひとときを妨げてしまい、申し訳ありませんでした。セイラ様も、どうかご無理はなさらないでくださいましね……」

 私に向けられる、その上品な笑顔を、どう受け取ればいいのか。私には底知れぬ寒気を覚えさせるものだった。結局、アルベルトもリリアも私への断罪を改めて主張することはなく、そのまま茶会を後にする。――だが、それは今後の嵐を予感させる静寂でしかなかった。

6.離れゆく王太子と、近づく隣国の存在

 アルベルトとリリアが出て行ったあと、茶会の空気はどうにも重苦しかったが、レオニスが巧みに会話をリードすることで、ほどなくして明るさを取り戻した。さすがは隣国の王子で、こういう場の雰囲気作りにも長けているらしい。

 私も少し気を取り直して、周囲の客たちと談笑を続けた。先ほどまでの一触即発が嘘のように、辺りに優美な音楽が流れ、甘い菓子の香りが漂う。けれど、私の頭の中には先ほどのアルベルトとリリアの姿が焼きついていた。

「……いったい、あの人たちは何を考えているのかしら」

 思わず呟いたその声は、小さくかき消える。後悔や、あるいは動揺――そんなものが胸の中を渦巻いていた。私は彼らの策略の正体を掴めていないし、具体的にどう動けばいいのかも判断がつかない。それでも一つだけ確かなことは、アルベルトとリリアの関係はもはや揺るぎないということだ。彼女は王太子の心をしっかり掴んでいるし、アルベルトも私を悪女と呼ぶことをやめてはいない。

(……いいわ。私に“悪女”のレッテルを貼りたいなら、勝手にそうすればいい。けれど、私は絶対に屈しない)

 自分の中にわずかだが、強い決意の火が灯るのを感じる。そもそも、私は彼らから自由になるために、婚約破棄を受け入れたのだ。それを今さら覆すつもりもないし、ましてや逃げるつもりもない。

 すると、そんな私の心を見透かしたのか、レオニスがふと近づいてきて、静かな声で話しかけた。

「大丈夫か? 先ほどは少し強引に制止したが、不本意ならすまなかった。あの場で争いが起きると、いろいろ面倒だと思ったものでね」

「いえ、殿下のお気遣いはありがたかったです。もしあそこで喧嘩をしていたら、王太子と隣国の王子という立場から、外交問題にまで発展しかねませんし……。私も望むところではありません」

 レオニスは微かに微笑み、私の言葉を聞いて小さく頷く。

「そうか。……ところで、先ほどの様子を見ていて改めて思ったが、君はやはり“悪女”とは程遠い女性だな。王太子も必死に君を断罪しようとしていたが、どうも無理があるようにしか見えん。むしろ、あの聖女とやらのほうが、妙に思えるほどの落ち着きぶりだった」

 リリアへの違和感。それは私も同じだ。彼女はどこか、すべてを見越したような言動をとっている。王太子の怒りを宥める振りをしているが、実際には煽っているようにも見える――そんな確信めいた思いが私の胸を掠める。

「私も、あの方の意図はよく分かりません。……ただ、殿下が仰るとおり、私は“悪女”ではありません。ですから、今後もそう見なされるのは心外ですが、まあ……こればかりはどうしようもないですね」

「いや、どうしようもなくはない。もし君が望むなら、私はいつでも君を迎え入れる。……以前にも言った通り、君の才能や生き方は、我が国でも大いに役立つと確信しているからな」

 そう言って、レオニスはまっすぐに私を見つめる。まるで「いつでも手を差し伸べる用意がある」と言わんばかりに。その瞳の奥には、確かな意思が感じられた。私は心臓が高鳴るのを抑えられない。

「隣国で、私を……王子妃として迎えたいのですか?」

「それは今すぐの話ではない。けれど、私はこの国での様子を見れば見るほど、君があまりに報われていないように思えるのだ。君自身がどうしたいか――それを最優先にしてもらいたいが、もし君が居場所を求めるなら、私の国へ来るのも選択肢のひとつとして考えてほしい。私は君の“自由”を奪うつもりはない。むしろ、君の力を伸ばし、新たな人生を切り開く手伝いをしたい」

 静かながら揺るぎない決意がこもった口調に、胸が熱くなる。私がずっと求めていたもの――それは、誰かに決められた結婚ではなく、自分で選び取る“未来”だ。レオニスの言葉は、それを実現できるかもしれないという希望を感じさせる。

「……ありがとうございます。殿下のお気持ちは、しっかり胸に留めておきます。今すぐお返事はできませんが、私も自分がどう生きたいのか、もう少し考えてみますわ」

「ふふ、待っているよ。君が答えを出すその時まで、私はしばらくこの国に滞在するつもりだから」

 そう言ってレオニスは笑う。その笑顔はどこか涼やかで、私の心に少しだけ光を差し込んでくれたような気がした。

7.新たな決意、そして未来の選択

 結局、その後の茶会は大きな波乱もなく幕を閉じた。アルベルトとリリアの登場は衝撃だったが、すぐに退場してしまったため、最後はレオニスが丁寧に客たちを見送っている。私も帰り際に彼と言葉を交わし、再会を約束して館を後にした。

 帰りの馬車の中、私は窓の外の景色をぼんやり眺める。王都の人々はいつもどおりに行き交い、陽の光が石畳を照らしている。――だが、私の心は少しずつ変化している。

「もし、この国を離れてしまったら、どうなるんだろう……」

 呟いてみるが、すぐには答えは出ない。父や母、アークライト公爵家の使用人たち――私を支えてくれた人々を置いて旅立つのは、やはり簡単ではない。家名や立場を捨てるつもりはないけれど、もし隣国に嫁ぐなら、相応の覚悟が必要だろう。

 しかし、同時に考える。「アルベルトとリリアによって生み出された“悪女”のレッテルを、このまま放置していいのか?」――私としては、無実を貫くつもりだが、証拠もなく罵られ続けるのはいい気分ではない。それに今のままでは、公爵家にも影響が及ぶかもしれない。

 レオニスが言ったように、私自身がどう生きたいか。そこをまずは見極めることが大切だ。もちろん、この国に留まって自力で名誉を回復する道もあるだろうが、それにはアルベルトやリリアと正面からぶつかる覚悟がいる。彼らが持つ“聖女”の権威や、王太子という立場の力を考えれば、容易な戦いではないだろう。

「……それでも」

 私は思わず胸の前で拳を握りしめる。自分は弱い存在かもしれないが、ただ流されるだけで終わるつもりはない。王太子との婚約破棄を受け入れたのは「自分が望まない結婚をしたくない」という理由が大きい。――そうであるなら、これからの道も「望まないから逃げる」ではなく、「望むもののために戦う」という姿勢でいたいのだ。

 もし、私を本当に理解し、支えてくれる人物がいるのなら――それがたとえ隣国の王子でも、構わないのかもしれない。私自身が決断しさえすれば、きっと新たな人生が開ける。

 馬車が公爵家の門をくぐる頃には、私はひとつの決意を抱きつつあった。**「もう一度、自分の気持ちを整理しよう」と。ほんの少し前までは「ぼんやりと自由になりたい」と思っていただけだが、今は「自分が行動を起こす」**必要性を痛感している。

 そして、家に着いたらまずは両親と話し合おう。公爵家の今後や、隣国の話。あるいは、再びアルベルトが絡んでくる可能性――すべてを考慮して、自分なりの答えを見つけ出したい。そうでなければ、私はいつまでも「婚約破棄された可哀想な令嬢」のまま、あるいは「悪女」のレッテルを貼られたまま取り残されてしまうから。

 こうして私は、自分の意思で未来を選ぶための第一歩を踏み出す決意を固めた。
 王太子と聖女リリアの動向が、これからどんな嵐を呼ぶのかは分からない。けれど、少なくとも私は**「何もしないままでは終わらない」**――そう心に刻んで、再び動き出す。

 どこか深い闇を孕む王宮の内情、そして私に手を差し伸べる隣国の王子レオニス。
 婚約破棄がもたらした波紋は、まだまだ収まりそうにない。

 だが、だからこそ私は、より強く輝く未来を掴みとるために――ほんの少し、胸を弾ませながら前を向くのだ。


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