『身代わり花嫁は鍋をかぶり、すりこぎ棒で吸血鬼と向き合う』

しおしお

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第8話 この屋敷は、私を裏切らなかった

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第8話 この屋敷は、私を裏切らなかった

 その夜、私はなかなか眠れずにいた。

 ベッドに横になり、天井を見つめる。豪奢な装飾が施されたその天井は、何日もここで過ごしているはずなのに、まだどこか現実感がなかった。

(……ここ、本当に吸血鬼の館よね)

 静かだ。
 不気味なほどに、静か。

 あれほど警戒していたはずなのに、耳を澄ましても聞こえるのは、遠くで鳴く夜鳥の声と、風が窓を撫でる音だけだった。

 私はそっと体を起こし、枕元に置いたすりこぎ棒を手に取る。

(……来ない)

 血を吸いに来る気配もない。
 脅かす気配もない。
 監視されているような気配すらない。

 逆に、それが不安だった。

(本当に……何もしないつもり?)

 鍋ヘルメットを手に取って、しばらく眺める。初日は命綱のように感じていたこの鍋も、今ではどこか滑稽に見えた。

(……私、少し慣れちゃってる)

 その事実に、ぞっとする。

 慣れることは、油断すること。
 油断は、命取り。

 私はベッドを降り、部屋の中を静かに歩いた。窓を確認し、扉を確認し、逃げ道になりそうな場所を頭の中でなぞる。

 ――やっぱり、逃げにくい。

(……でも)

 心の奥で、小さな声が囁く。

(逃げたいって、思ってない)

 その事実を認めた瞬間、胸がきゅっと締め付けられた。

 私は深く息を吐き、椅子に腰を下ろす。

(……だめ。考えすぎ)

 そう自分に言い聞かせた、その時だった。

 廊下の向こうで、小さな物音がした。

 ――カツン。

 靴音。

 私は反射的にすりこぎ棒を構え、鍋を頭にかぶる。

(来た……!)

 心臓がうるさく鳴る。手のひらが汗で湿る。

 足音は、ゆっくりと近づいてきた。

 コン。

 控えめなノック。

「……リネア」

 カインの声だった。

 拍子抜けと安堵が、同時に押し寄せる。

「……はい」

「眠れないようだったのでな。気配でわかった」

(気配で……!?)

 やっぱり吸血鬼じゃない、それ。

「扉の外で話す。入らない」

 そう言われ、私は一瞬迷ってから、扉越しに答えた。

「……どうしましたか」

「特別な理由はない。ただ、静かすぎる夜は、人間には落ち着かないだろうと思ってな」

 ……なんでそこまでわかるの。

 私は扉に背中を預け、ゆっくりと床に座り込んだ。

「……正直に言いますね」

「うん」

「……何もされなさすぎて、不安なんです」

 一拍の沈黙。

 それから、扉の向こうで小さく笑う気配がした。

「なるほど。それは想定外だったな」

「普通、吸血鬼って、もっとこう……怖いじゃないですか」

「怖くあろうと思えば、いくらでもなれる」

 静かな声。

「だが、恐怖で縛って得るものに、意味はない」

 胸の奥が、じんわりと温かくなる。

「私は君を“所有”したいのではない。ここに“居たい”と思ってもらいたいだけだ」

 私は、鍋の縁をぎゅっと握った。

「……それって、ズルくないですか」

「そうか?」

「そんなこと言われたら……疑いきれなくなるじゃないですか」

 正直な気持ちだった。

 カインは、少しだけ間を置いてから言った。

「疑っていい。完全に信じる必要はない」

「……」

「だが、君がここで傷つくことはない。それだけは誓う」

 誓い。

 軽くない言葉。

 私はしばらく黙ってから、ぽつりと呟いた。

「……この屋敷、今のところ、私を裏切ってません」

「それは、よかった」

「……まだ、油断はしませんけど」

「それでいい」

 足音が、静かに遠ざかっていく。

「おやすみ、リネア」

「……おやすみなさい」

 扉の向こうが完全に静かになったあと、私はゆっくりと立ち上がった。

 鍋を外し、すりこぎ棒をベッドの横に置く。

(……今日は)

 ほんの少しだけ、肩の力が抜けていた。

 この屋敷は、まだ信用できない。
 吸血鬼の旦那様も、完全には信じていない。

 それでも。

 ――少なくとも、ここは。

 今夜も、私を裏切らなかった。

 その事実を胸に、私はようやく、静かな眠りに落ちた。
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