『身代わり花嫁は鍋をかぶり、すりこぎ棒で吸血鬼と向き合う』

しおしお

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第16話 怖さを手放す、という選択

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第16話 怖さを手放す、という選択

 その夜、私はひとつの異変に気づいていた。

 ――すりこぎ棒を、握りしめていない。

 ベッドに腰掛け、枕元を見下ろして、ようやくそれに気づいた。そこにあるはずの感触が、手の中にない。

「……あ」

 思わず、小さな声が漏れる。

 慌てて周囲を見回すと、すりこぎ棒はちゃんと部屋の隅に立てかけてあった。なくなったわけじゃない。捨てたわけでもない。

 ただ――手に取らなかっただけ。

(……いつから)

 記憶を辿る。

 庭を歩いた帰り。
 部屋に戻って。
 着替えて、髪をほどいて。

 その一連の動作の中で、私は自然に、すりこぎ棒を置いたままにしていた。

 胸の奥が、きゅっと縮む。

(……油断?)

 その言葉が浮かび、すぐに否定した。

(違う)

 油断なら、もっと軽い。
 これは、もっと重い。

 私は、深く息を吸って、すりこぎ棒に近づいた。そして、それを手に取る。

 ――重い。

 慣れ親しんだ重さ。初日に感じた、命を守るための重さ。

(……これがないと、ダメだったはずなのに)

 握っていると、逆に落ち着かなくなった。

 私は、そっとそれを元の場所に戻した。

(……持たないって、決めたわけじゃない)

 ただ、今は。

 ――今夜は、いい。

 そう思ってしまった自分に、少しだけ戸惑いながら、私はベッドに横になった。

 鍋ヘルメットも、棚の上。
 部屋は静かで、灯りは落とされている。

 心臓の音が、やけに大きく聞こえた。

(……怖い)

 でも。

(……怖いのは、危険じゃない)

 怖いのは――
 自分が、ここに“留まる選択”をし始めていること。

 ――コン。

 ノック。

 私は、体を起こした。

「……起きています」

 声が震えなかったことに、少し驚く。

「私だ」

 カインの声。

「入らない」

 先にそう言われて、胸の奥が少しだけ緩んだ。

「……どうしましたか」

「確認だ」

 静かな声。

「君が、無理をしていないか」

 私は、少しだけ考えてから答えた。

「……してない、と思います」

「……“と思う”か」

「はい」

 正直だった。

「……すりこぎ棒、今日は持っていません」

 自分から言ってしまったことに、内心で驚く。

 扉の向こうで、沈黙が落ちた。

 長くはなかったけれど、重みのある沈黙。

「……怖くないのか」

「……怖いです」

 即答だった。

「でも……それを持ってない自分が、怖いわけじゃない」

 言葉を選びながら、続ける。

「……“持たなくてもいいかもしれない”って思った自分が、少し不安で」

 カインは、すぐには答えなかった。

 やがて、ゆっくりとした声が返ってくる。

「それは……勇気だ」

「え?」

「怖さを消すことが、勇気ではない。怖さを抱えたまま、選ぶことが勇気だ」

 胸の奥が、じんわりと温かくなる。

「君は、武器を捨てたのではない。ただ……必要ない夜を、自分で選んだ」

 その言葉に、肩の力が抜けた。

「……もし、また必要になったら」

「その時は、迷わず持てばいい」

 当たり前のように、そう言う。

「私は、君の“備え”を否定しない」

 私は、ベッドの上で膝を抱えた。

「……優しすぎませんか」

「そうかもしれない」

 でも、と彼は続ける。

「それでも私は、君が自分で選ぶことを奪いたくない」

 しばらく、言葉が出なかった。

 扉越しなのに、その距離が、昨日より近く感じられる。

「……今夜は、これで戻る」

「……はい」

「眠れるか」

「……多分」

 小さな笑みを含んだ気配。

「それで充分だ」

 足音が遠ざかり、廊下の気配が消える。

 私は、ゆっくりと横になった。

 すりこぎ棒は、そこにある。
 鍋も、ちゃんとある。

 でも、今夜は――
 どちらにも、手を伸ばさなかった。

(……怖さを、手放したわけじゃない)

 ただ、怖さに支配されるのを、やめただけ。

 その違いが、どれほど大きいのか。

 私は、目を閉じながら、ようやく理解し始めていた。

 ――こうして、人は。

 少しずつ、自分の居場所を“選ぶ”ようになるのだと。
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