『身代わり花嫁は鍋をかぶり、すりこぎ棒で吸血鬼と向き合う』

しおしお

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第17話 境界線を引くのは、恐怖ではなく意思

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第17話 境界線を引くのは、恐怖ではなく意思

 翌朝、目を覚ました瞬間、私は少しだけ混乱した。

(……あれ?)

 恐怖で飛び起きたわけでもない。
 身構えた記憶もない。

 ただ、普通に眠って、普通に朝が来た。

 それが、どうしようもなく不思議だった。

 カーテンを開けると、朝の光が部屋に流れ込む。穏やかで、昨日までと変わらない景色。

(……変わったのは、私か)

 鍋は棚の上。
 すりこぎ棒は部屋の隅。

 どちらも“ある”。
 でも、それを確認して安心する必要がなくなっている。

 私は、ゆっくりと身支度を整え、食堂へ向かった。

 カインはすでに席に着いていた。いつものように、静かで落ち着いた佇まい。

「おはよう」

「……おはようございます」

 席に着き、紅茶を一口飲む。

 沈黙。

 でも、昨日までとは少し違う。

(……話さなきゃ、って思わない)

 沈黙が、重荷ではなく“間”として存在している。

「……よく眠れたか」

「はい」

 即答だった。

「怖くて目が覚めることも、ありませんでした」

 カインは、少しだけ目を細めた。

「それは、良い兆候だな」

「……でも」

 私は、カップを持つ手を見つめた。

「安心しきったわけじゃありません」

「それも、悪くない」

 彼は、静かに言った。

「無防備と、安心は違う」

 その言葉に、胸が鳴る。

 朝食を終えたあと、私は自分から声をかけた。

「……少し、話してもいいですか」

「もちろん」

 私たちは、窓際の席へ移動した。陽の光が、ふたりの間に落ちる。

「……境界線、ってあるじゃないですか」

「あるな」

「触れない距離とか、時間とか……心の線」

 カインは、黙って頷いた。

「私、ずっとそれを“恐怖”で引いてきました」

 嫌だから。
 怖いから。
 守るため。

「でも……それだと、線が動かないんです」

 言葉にしながら、自分でも納得していく。

「怖さが減れば、線が曖昧になる。増えれば、閉じる。自分で決めてない」

 カインは、ゆっくりと息を吐いた。

「それは……外側に主導権がある境界だ」

「……やっぱり」

 私は、膝の上で手を組んだ。

「だから、決めたいんです」

「何を」

「どこまでなら大丈夫か。どこからは、まだ嫌か」

 はっきりと、言葉にする。

「怖いからじゃなくて……私が、そうしたいから」

 一瞬、空気が張り詰めた。

 でも、それは緊張ではなく、真剣さだった。

 カインは、私をまっすぐに見た。

「……それを、私に伝えてくれるのか」

「はい」

 逃げずに、頷く。

「一緒にいるなら……伝えないと、意味がないと思って」

 彼は、少しだけ目を伏せた。

 そして、静かに笑った。

「君は……強いな」

「強くないです」

 即座に否定する。

「怖いままですし、迷ってますし……」

「それでも、決めようとしている」

 その声は、柔らかかった。

「境界線を引くのは、恐怖ではなく意思だ。君は、今それを持っている」

 胸の奥が、じんと熱くなる。

「……じゃあ」

 私は、深呼吸をして言った。

「今の境界線は……触れない距離。でも、並ぶのは平気」

「理解した」

「夜は……部屋に入られるのは、まだ嫌です」

「当然だ」

「でも……扉越しに話すのは、大丈夫です」

 言い切ると、心が少し軽くなった。

 カインは、一つひとつを、否定せずに受け止めた。

「それが、今の君の線だな」

「はい」

「尊重しよう」

 その一言で、胸の奥に、しっかりとした支えが生まれた。

 境界線は、壁じゃない。
 拒絶でも、逃げでもない。

 自分で引いた線だからこそ、意味がある。

 この日、私は初めて――
 守られる側でも、怯える側でもなく。

 自分の意思で、ここに立つ人間になれた気がした。

 そして、それを尊重される関係が、
 どれほど大切なのかを、はっきりと知ったのだった。
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