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第18話 名前を呼ぶ、その重さ
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第18話 名前を呼ぶ、その重さ
その日は、特別な出来事があったわけではなかった。
天気は穏やかで、風も静か。館の中も、いつも通りの静けさに包まれている。けれど、私の胸の内には、昨日までとは違う緊張があった。
(……境界線、言えた)
それだけのことなのに、心のどこかが落ち着かない。
自分の線を言葉にして、相手に渡した。
拒絶されるかもしれないと思っていたのに、そうはならなかった。
(……受け取って、くれた)
その事実が、じわじわと効いてくる。
午前中、私は一人で庭の手入れを手伝っていた。土の匂い、葉を払う音。黙々と作業をしていると、余計なことを考えずに済む。
そこへ、足音が近づいてきた。
「……手伝おうか」
カインの声。
「……大丈夫です」
即答してから、少し迷う。
「……でも、少しなら」
言い直すと、彼は小さく頷いた。
並んで作業をする。触れない距離。けれど、同じ方向を向いている。
しばらくして、私はふと気づいた。
(……あれ)
カインは、私を呼ぶ時、名前を使わないことが多い。
「君」か、「リネア」。
それが、今日は――
「……リネア」
低く、はっきりとした声。
思わず、手が止まった。
「……はい」
返事をしながら、胸が少しだけ速く打つ。
ただ、名前を呼ばれただけ。
それなのに、言葉以上の重さがあった。
「……無理をしていないか」
「してません」
昨日より、少しだけ胸を張って言えた。
「境界線のこと……考え続けているように見えた」
図星だった。
「……考えてました」
「後悔は?」
私は、首を振った。
「……ありません」
そう言い切れる自分に、少し驚く。
「むしろ……はっきりして、楽です」
カインは、作業の手を止め、私を見た。
「それなら、よかった」
その一言に、肩の力が抜ける。
作業を終え、私たちは手を洗いに行った。水音が響く中、ふとした沈黙が落ちる。
「……リネア」
また、名前を呼ばれた。
今度は、先ほどよりも近い距離。
「……はい」
「名前を呼ぶのは……線を越えていないか」
真剣な問いだった。
私は、少し考えてから答えた。
「……越えてません」
「そうか」
「でも……」
言葉を続ける。
「呼ばれると、意識します」
「それは……悪い意味か」
「……いい意味、です」
頬が熱くなる。
カインは、わずかに目を見開き、それから静かに笑った。
「なら、必要な時だけにしよう」
「……はい」
その配慮が、胸に沁みる。
午後、私は一人で部屋に戻り、窓辺に座った。
(……名前)
呼ばれるだけで、関係が変わった気がする。
距離は同じ。
触れていない。
それでも――
確かに、心の中で一歩近づいた。
名前は、魔法じゃない。
契約でもない。
けれど。
誰かが、あなたを“名前で呼ぶ”という行為は、
その人を、一人の存在として認めることなのだと。
この日、私は知った。
名前を呼ばれる重さは、
血よりも、誓いよりも――
ずっと、静かで、確かなものなのだと。
その日は、特別な出来事があったわけではなかった。
天気は穏やかで、風も静か。館の中も、いつも通りの静けさに包まれている。けれど、私の胸の内には、昨日までとは違う緊張があった。
(……境界線、言えた)
それだけのことなのに、心のどこかが落ち着かない。
自分の線を言葉にして、相手に渡した。
拒絶されるかもしれないと思っていたのに、そうはならなかった。
(……受け取って、くれた)
その事実が、じわじわと効いてくる。
午前中、私は一人で庭の手入れを手伝っていた。土の匂い、葉を払う音。黙々と作業をしていると、余計なことを考えずに済む。
そこへ、足音が近づいてきた。
「……手伝おうか」
カインの声。
「……大丈夫です」
即答してから、少し迷う。
「……でも、少しなら」
言い直すと、彼は小さく頷いた。
並んで作業をする。触れない距離。けれど、同じ方向を向いている。
しばらくして、私はふと気づいた。
(……あれ)
カインは、私を呼ぶ時、名前を使わないことが多い。
「君」か、「リネア」。
それが、今日は――
「……リネア」
低く、はっきりとした声。
思わず、手が止まった。
「……はい」
返事をしながら、胸が少しだけ速く打つ。
ただ、名前を呼ばれただけ。
それなのに、言葉以上の重さがあった。
「……無理をしていないか」
「してません」
昨日より、少しだけ胸を張って言えた。
「境界線のこと……考え続けているように見えた」
図星だった。
「……考えてました」
「後悔は?」
私は、首を振った。
「……ありません」
そう言い切れる自分に、少し驚く。
「むしろ……はっきりして、楽です」
カインは、作業の手を止め、私を見た。
「それなら、よかった」
その一言に、肩の力が抜ける。
作業を終え、私たちは手を洗いに行った。水音が響く中、ふとした沈黙が落ちる。
「……リネア」
また、名前を呼ばれた。
今度は、先ほどよりも近い距離。
「……はい」
「名前を呼ぶのは……線を越えていないか」
真剣な問いだった。
私は、少し考えてから答えた。
「……越えてません」
「そうか」
「でも……」
言葉を続ける。
「呼ばれると、意識します」
「それは……悪い意味か」
「……いい意味、です」
頬が熱くなる。
カインは、わずかに目を見開き、それから静かに笑った。
「なら、必要な時だけにしよう」
「……はい」
その配慮が、胸に沁みる。
午後、私は一人で部屋に戻り、窓辺に座った。
(……名前)
呼ばれるだけで、関係が変わった気がする。
距離は同じ。
触れていない。
それでも――
確かに、心の中で一歩近づいた。
名前は、魔法じゃない。
契約でもない。
けれど。
誰かが、あなたを“名前で呼ぶ”という行為は、
その人を、一人の存在として認めることなのだと。
この日、私は知った。
名前を呼ばれる重さは、
血よりも、誓いよりも――
ずっと、静かで、確かなものなのだと。
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