『身代わり花嫁は鍋をかぶり、すりこぎ棒で吸血鬼と向き合う』

しおしお

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第20話 触れない手の、その先にあるもの

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第20話 触れない手の、その先にあるもの

 夜の廊下は、いつもより少し長く感じられた。

 図書室を出たあと、私は部屋に戻るまでの道を、ゆっくりと歩いた。足音が静かに反響し、壁に掛けられた灯りが一定の間隔で影を落とす。

(……静かな独占欲)

 言葉にしなかった気持ち。
 触れなかった手。

 それなのに、心の奥に残る温度だけは、確かにあった。

 部屋に入り、扉を閉める。いつもの動作。いつものはずの空間。

 ――なのに、落ち着かない。

(……考えすぎ)

 そう自分に言い聞かせ、外套を脱いで椅子に掛ける。ベッドに腰を下ろし、深呼吸をひとつ。

 すりこぎ棒は、部屋の隅。
 鍋は、棚の上。

 どちらも、手の届く場所にある。

(……触れない手、か)

 昼間の庭。
 図書室の沈黙。
 名前を呼ばれた声。

 私は、そっと自分の手を見つめた。

(……もし、触れられたら)

 想像しただけで、心臓が跳ねる。

 でも、その想像は――
 恐怖よりも、戸惑いに近かった。

 ――コン。

 ノック。

 身体が、反射的に強張る。

「……リネア」

 扉越しの声。

 私は、ゆっくりと立ち上がった。

「……はい」

「少し、話せるか」

 一瞬、境界線を思い出す。

 夜。
 部屋に入られるのは、まだ嫌。
 扉越しなら――大丈夫。

「……扉越しなら」

「わかっている」

 その即答に、肩の力が抜けた。

 私は扉の前に立ち、鍵に触れないまま答える。

「……どうしましたか」

「確認だ」

 また、その言葉。

「今日のことを、どう感じているか」

 私は、少しだけ考えた。

「……正直に言っていいですか」

「もちろん」

「……落ち着かないです」

 沈黙。

 けれど、否定は来なかった。

「でも……嫌じゃない」

 心臓が、早く打つ。

「触れられてないのに……近づいた気がして」

 扉の向こうで、カインが息を吐く気配がした。

「それは……私も同じだ」

 低く、静かな声。

「だから、距離を保っている」

「……どうしてですか」

「越えてしまえば、戻れなくなるからだ」

 その言葉に、胸が締めつけられる。

(……同じだ)

 怖いのは、同じ。
 慎重なのも、同じ。

「……私」

 思い切って、言葉を続けた。

「触れられるのは、まだ……怖いです」

「知っている」

「でも……」

 喉が渇く。

「いつか、触れてもいいって思えたら……その時は」

 言葉が、そこで止まる。

 扉の向こうで、わずかな動き。

「……その時は?」

「……ちゃんと、言います」

 はっきりと。

「逃げないで」

 しばらく、返事がなかった。

 そして、やっと。

「……それでいい」

 声は、いつもより少し低かった。

「私は、君が言葉にするまで、手を出さない」

 その約束が、胸に深く落ちる。

「……ありがとう」

「礼を言われることではない」

 彼は、少し間を置いて続けた。

「だが……知っておいてほしい」

「何を」

「触れない手でも、私は君を選んでいる」

 その一言で、目の奥が熱くなる。

「……私も」

 思わず、答えていた。

「今は……触れないままで、あなたを選んでます」

 扉越しの沈黙が、優しく流れる。

「……それで、十分だ」

 足音が、ゆっくりと遠ざかる。

 私は、しばらく扉の前に立ったまま、動けなかった。

(……触れない手)

 それは、拒絶じゃない。
 保留でも、逃げでもない。

 選び続けるための、約束。

 この夜、私ははっきりと感じていた。

 触れない手の、その先には――
 恐怖ではなく、信頼が待っているのだと。
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