白い結婚は終わりました。――崩れない家を築くまで

しおしお

文字の大きさ
8 / 38

第八話 止めないという選択

しおりを挟む
第八話 止めないという選択

 夜会から戻った翌朝、屋敷の空気は目に見えて重くなっていました。

 昨日までは、まだ余裕があったのです。小さな綻びはあっても、侯爵家という名がそれを覆い隠してくれていた。

 けれど、社交界という場は残酷です。

 一度でも「揺らいでいる」と思われれば、視線は容赦なく向けられる。

 私はいつも通りの時間に起き、いつも通りの身支度を整えました。

 鏡の中の自分は、変わらない。

 冷静で、穏やかで、感情を外に出さない妻。

「奥様……」

 エミリアが、いつもより声を潜めて近づいてきました。

「何かしら」

「昨夜の夜会で、いくつか噂が立っているようで……」

「どのような?」

「侯爵家の資金繰りが怪しいのでは、と」

 あら。

 早いこと。

 私は紅茶を口に含みました。

「噂は噂ですわ」

「ですが……」

「事実が追いつけば、噂は消えます」

 エミリアは不安そうに眉を寄せます。

 私は微笑みました。

「心配しなくてよろしいのよ」

 心配するべきなのは、私ではありませんもの。

 朝食の席では、義母の表情が露骨に硬かった。

「昨日は余計な注目を浴びたわね」

「そうでしょうか」

「あなたが楽しそうにしているからよ」

 私はナイフを置きました。

「不幸そうに振る舞う方がよろしかったのですか?」

「そういう意味ではないわ!」

 義母の声がわずかに強まる。

 義弟が肩をすくめました。

「まあまあ、母上。義姉上は何もしていない」

 ええ、何もしていない。

 それが一番の問題。

「資金の件も、もう少し上手く処理してくれればよかったのに」

 義弟が軽く言いました。

「私は干渉しないと申し上げましたわ」

 穏やかに。

「最終決定権は当主です」

 義母の視線が、私に突き刺さる。

「あなたはこの家の奥方でしょう」

「ええ」

「ならば守る責任がある」

 守る。

 その言葉に、私はほんのわずかに目を細めました。

「契約に、その条項はございません」

 沈黙。

 義母の指先が震えているのが見える。

 彼女は、私を“扱いやすい嫁”だと思っていた。

 けれど、扱いやすいことと、従順であることは違う。

 朝食は、どこかぎこちなく終わりました。

 午後、アレクシスが執務室で帳簿を広げていました。

 珍しい光景です。

「確認なさっているのですか」

「……ああ」

 彼は顔を上げません。

「状況は?」

「楽観できるものではない」

 私は静かに近づきました。

「是正なさいますか」

 彼の手が止まる。

「君はどう思う」

「私は干渉しない立場です」

 それでも彼は、こちらを見る。

 答えを求める視線。

 けれど私は首を振りました。

「旦那様が決めることです」

「……君なら、どうする」

「早期に整理いたします」

「なぜ、今は言わない」

 彼の声に、苛立ちと困惑が混じる。

 私は彼を見つめました。

「契約があるからです」

 その一言が、彼を黙らせる。

 約束は、彼が選んだもの。

 干渉しないと望んだのは、彼。

 私はただ、それを守っている。

 夕刻、屋敷に再び商会の使いが来ました。

 今度は強い口調で。

 使用人たちが動揺する。

 義母が応対するが、声が震えている。

 私は廊下の影から、それを見ていました。

 止められます。

 一言助言すれば。

 実家に連絡を入れれば。

 帳簿の抜け穴を整理すれば。

 けれど私は動かない。

 干渉しない契約。

 止めないという選択。

 夜、アレクシスが私の部屋を訪れました。

「君は、本当に動かないのだな」

「はい」

「この家が傾いても?」

「傾けるのは、私ではございません」

 彼はしばらく沈黙しました。

「……私は、君に助けられることを期待していたのかもしれない」

 その言葉に、胸の奥がわずかに揺れました。

「期待は、契約に含まれておりません」

 私は静かに答えます。

 彼は目を閉じ、深く息を吐きました。

「冷たいな」

「約束を守っているだけです」

 彼はそれ以上何も言わず、部屋を出ていきました。

 私は窓を開け、夜風を吸い込みます。

 遠くで、雷の音がしました。

 嵐の前触れ。

 小さな綻びは、もう隠しきれない。

 けれど私は、手を伸ばしません。

 止めないという選択は、時に最も残酷。

 それでも、これは約束。

 干渉しない。

 助けない。

 見ているだけ。

 その意味を、彼が本当に理解する日は、もうすぐかもしれません。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

白い結婚なので無効にします。持参金は全額回収いたします

鷹 綾
恋愛
「白い結婚」であることを理由に、夫から離縁を突きつけられた公爵夫人エリシア。 だが彼女は泣かなかった。 なぜなら――その結婚は、最初から“成立していなかった”から。 教会法に基づき婚姻無効を申請。持参金を全額回収し、彼女が選んだ新たな居場所は修道院だった。 それは逃避ではない。 男の支配から離れ、国家の外側に立つという戦略的選択。 やがて彼女は修道院長として、教育制度の整備、女性領主の育成、商業と医療の再編に関わり、王と王妃を外から支える存在となる。 王冠を欲さず、しかし王冠に影響を与える――白の領域。 一方、かつての夫は地位を失い、制度の中で静かに贖罪の道を歩む。 これは、愛を巡る物語ではない。 「選ばなかった未来」を守り続けた一人の女性の物語。 白は弱さではない。 白は、均衡を保つ力。 白い結婚から始まる、静かなリーガル・リベンジと国家再編の物語。

出て行けと言ったものの、本当に出て行かれるとは思っていなかった旦那様

睡蓮
恋愛
ジーク伯爵は、溺愛する自身の妹レイアと共謀する形で、婚約者であるユフィーナの事を追放することを決めた。ただその理由は、ユフィーナが婚約破棄を素直に受け入れることはないであろうと油断していたためだった。しかしユフィーナは二人の予想を裏切り、婚約破棄を受け入れるそぶりを見せる。予想外の行動をとられたことで焦りの色を隠せない二人は、ユフィーナを呼び戻すべく様々な手段を講じるのであったが…。

王太子妃は離婚したい

凛江
恋愛
アルゴン国の第二王女フレイアは、婚約者であり、幼い頃より想いを寄せていた隣国テルルの王太子セレンに嫁ぐ。 だが、期待を胸に臨んだ婚姻の日、待っていたのは夫セレンの冷たい瞳だった。 ※この作品は、読んでいただいた皆さまのおかげで書籍化することができました。 綺麗なイラストまでつけていただき感無量です。 これまで応援いただき、本当にありがとうございました。 レジーナのサイトで番外編が読めますので、そちらものぞいていただけると嬉しいです。 https://www.regina-books.com/extra/login

婚約破棄を申し入れたのは、父です ― 王子様、あなたの企みはお見通しです!

みかぼう。
恋愛
公爵令嬢クラリッサ・エインズワースは、王太子ルーファスの婚約者。 幼い日に「共に国を守ろう」と誓い合ったはずの彼は、 いま、別の令嬢マリアンヌに微笑んでいた。 そして――年末の舞踏会の夜。 「――この婚約、我らエインズワース家の名において、破棄させていただきます!」 エインズワース公爵が力強く宣言した瞬間、 王国の均衡は揺らぎ始める。 誇りを捨てず、誠実を貫く娘。 政の闇に挑む父。 陰謀を暴かんと手を伸ばす宰相の子。 そして――再び立ち上がる若き王女。 ――沈黙は逃げではなく、力の証。 公爵令嬢の誇りが、王国の未来を変える。 ――荘厳で静謐な政略ロマンス。 (本作品は小説家になろう、カクヨムにも掲載中です)

『外見しか見なかったあなたへ。私はもう、選ぶ側です』

鷹 綾
恋愛
「お前のようなガキは嫌いだ」 幼く見える容姿を理由に、婚約者ライオネルから一方的に婚約を破棄された 公爵令嬢シルフィーネ・エルフィンベルク。 その夜、嫉妬に狂った伯爵令嬢に突き落とされ、 彼女は一年もの間、意識不明の重体に陥る――。 目を覚ました彼女は、大人びた美貌を手に入れていた。 だが、中身は何ひとつ変わっていない。 にもかかわらず、 かつて彼女を「幼すぎる」と切り捨てた元婚約者は態度を一変させ、 「やり直したい」とすり寄ってくる。 「見かけが変わっても、中身は同じです。 それでもあなたは、私の外見しか見ていなかったのですね?」 静かにそう告げ、シルフィーネは過去を見限る。 やがて彼女に興味を示したのは、 隣国ノルディアの王太子エドワルド。 彼が見ていたのは、美貌ではなく―― 対話し、考え、異論を述べる彼女の“在り方”だった。 これは、 外見で価値を決められた令嬢が、 「選ばれる人生」をやめ、 自分の意思で未来を選び直す物語。 静かなざまぁと、 対等な関係から始まる大人の恋。 そして―― 自分の人生を、自分の言葉で生きるための物語。 ---

《完結》氷の侯爵令息 あなたが子供はいらないと言ったから

ヴァンドール
恋愛
氷の侯爵令息と言われたアラン。彼は結婚相手の伯爵令嬢にとにかく冷たい態度で接する。 彼女は義姉イライザから夫が子供はいらないと言ったと聞き、衝撃を受けるが気持ちを切り替え生きていく。

【完結】旦那は堂々と不倫行為をするようになったのですが離婚もさせてくれないので、王子とお父様を味方につけました

よどら文鳥
恋愛
 ルーンブレイス国の国家予算に匹敵するほどの資産を持つハイマーネ家のソフィア令嬢は、サーヴィン=アウトロ男爵と恋愛結婚をした。  ソフィアは幸せな人生を送っていけると思っていたのだが、とある日サーヴィンの不倫行為が発覚した。それも一度や二度ではなかった。  ソフィアの気持ちは既に冷めていたため離婚を切り出すも、サーヴィンは立場を理由に認めようとしない。  更にサーヴィンは第二夫妻候補としてラランカという愛人を連れてくる。  再度離婚を申し立てようとするが、ソフィアの財閥と金だけを理由にして一向に離婚を認めようとしなかった。  ソフィアは家から飛び出しピンチになるが、救世主が現れる。  後に全ての成り行きを話し、ロミオ=ルーンブレイス第一王子を味方につけ、更にソフィアの父をも味方につけた。  ソフィアが想定していなかったほどの制裁が始まる。

「では、ごきげんよう」と去った悪役令嬢は破滅すら置き去りにして

東雲れいな
恋愛
「悪役令嬢」と噂される伯爵令嬢・ローズ。王太子殿下の婚約者候補だというのに、ヒロインから王子を奪おうなんて野心はまるでありません。むしろ彼女は、“わたくしはわたくしらしく”と胸を張り、周囲の冷たい視線にも毅然と立ち向かいます。 破滅を甘受する覚悟すらあった彼女が、誇り高く戦い抜くとき、運命は大きく動きだす。

処理中です...