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第八話 止めないという選択
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第八話 止めないという選択
夜会から戻った翌朝、屋敷の空気は目に見えて重くなっていました。
昨日までは、まだ余裕があったのです。小さな綻びはあっても、侯爵家という名がそれを覆い隠してくれていた。
けれど、社交界という場は残酷です。
一度でも「揺らいでいる」と思われれば、視線は容赦なく向けられる。
私はいつも通りの時間に起き、いつも通りの身支度を整えました。
鏡の中の自分は、変わらない。
冷静で、穏やかで、感情を外に出さない妻。
「奥様……」
エミリアが、いつもより声を潜めて近づいてきました。
「何かしら」
「昨夜の夜会で、いくつか噂が立っているようで……」
「どのような?」
「侯爵家の資金繰りが怪しいのでは、と」
あら。
早いこと。
私は紅茶を口に含みました。
「噂は噂ですわ」
「ですが……」
「事実が追いつけば、噂は消えます」
エミリアは不安そうに眉を寄せます。
私は微笑みました。
「心配しなくてよろしいのよ」
心配するべきなのは、私ではありませんもの。
朝食の席では、義母の表情が露骨に硬かった。
「昨日は余計な注目を浴びたわね」
「そうでしょうか」
「あなたが楽しそうにしているからよ」
私はナイフを置きました。
「不幸そうに振る舞う方がよろしかったのですか?」
「そういう意味ではないわ!」
義母の声がわずかに強まる。
義弟が肩をすくめました。
「まあまあ、母上。義姉上は何もしていない」
ええ、何もしていない。
それが一番の問題。
「資金の件も、もう少し上手く処理してくれればよかったのに」
義弟が軽く言いました。
「私は干渉しないと申し上げましたわ」
穏やかに。
「最終決定権は当主です」
義母の視線が、私に突き刺さる。
「あなたはこの家の奥方でしょう」
「ええ」
「ならば守る責任がある」
守る。
その言葉に、私はほんのわずかに目を細めました。
「契約に、その条項はございません」
沈黙。
義母の指先が震えているのが見える。
彼女は、私を“扱いやすい嫁”だと思っていた。
けれど、扱いやすいことと、従順であることは違う。
朝食は、どこかぎこちなく終わりました。
午後、アレクシスが執務室で帳簿を広げていました。
珍しい光景です。
「確認なさっているのですか」
「……ああ」
彼は顔を上げません。
「状況は?」
「楽観できるものではない」
私は静かに近づきました。
「是正なさいますか」
彼の手が止まる。
「君はどう思う」
「私は干渉しない立場です」
それでも彼は、こちらを見る。
答えを求める視線。
けれど私は首を振りました。
「旦那様が決めることです」
「……君なら、どうする」
「早期に整理いたします」
「なぜ、今は言わない」
彼の声に、苛立ちと困惑が混じる。
私は彼を見つめました。
「契約があるからです」
その一言が、彼を黙らせる。
約束は、彼が選んだもの。
干渉しないと望んだのは、彼。
私はただ、それを守っている。
夕刻、屋敷に再び商会の使いが来ました。
今度は強い口調で。
使用人たちが動揺する。
義母が応対するが、声が震えている。
私は廊下の影から、それを見ていました。
止められます。
一言助言すれば。
実家に連絡を入れれば。
帳簿の抜け穴を整理すれば。
けれど私は動かない。
干渉しない契約。
止めないという選択。
夜、アレクシスが私の部屋を訪れました。
「君は、本当に動かないのだな」
「はい」
「この家が傾いても?」
「傾けるのは、私ではございません」
彼はしばらく沈黙しました。
「……私は、君に助けられることを期待していたのかもしれない」
その言葉に、胸の奥がわずかに揺れました。
「期待は、契約に含まれておりません」
私は静かに答えます。
彼は目を閉じ、深く息を吐きました。
「冷たいな」
「約束を守っているだけです」
彼はそれ以上何も言わず、部屋を出ていきました。
私は窓を開け、夜風を吸い込みます。
遠くで、雷の音がしました。
嵐の前触れ。
小さな綻びは、もう隠しきれない。
けれど私は、手を伸ばしません。
止めないという選択は、時に最も残酷。
それでも、これは約束。
干渉しない。
助けない。
見ているだけ。
その意味を、彼が本当に理解する日は、もうすぐかもしれません。
夜会から戻った翌朝、屋敷の空気は目に見えて重くなっていました。
昨日までは、まだ余裕があったのです。小さな綻びはあっても、侯爵家という名がそれを覆い隠してくれていた。
けれど、社交界という場は残酷です。
一度でも「揺らいでいる」と思われれば、視線は容赦なく向けられる。
私はいつも通りの時間に起き、いつも通りの身支度を整えました。
鏡の中の自分は、変わらない。
冷静で、穏やかで、感情を外に出さない妻。
「奥様……」
エミリアが、いつもより声を潜めて近づいてきました。
「何かしら」
「昨夜の夜会で、いくつか噂が立っているようで……」
「どのような?」
「侯爵家の資金繰りが怪しいのでは、と」
あら。
早いこと。
私は紅茶を口に含みました。
「噂は噂ですわ」
「ですが……」
「事実が追いつけば、噂は消えます」
エミリアは不安そうに眉を寄せます。
私は微笑みました。
「心配しなくてよろしいのよ」
心配するべきなのは、私ではありませんもの。
朝食の席では、義母の表情が露骨に硬かった。
「昨日は余計な注目を浴びたわね」
「そうでしょうか」
「あなたが楽しそうにしているからよ」
私はナイフを置きました。
「不幸そうに振る舞う方がよろしかったのですか?」
「そういう意味ではないわ!」
義母の声がわずかに強まる。
義弟が肩をすくめました。
「まあまあ、母上。義姉上は何もしていない」
ええ、何もしていない。
それが一番の問題。
「資金の件も、もう少し上手く処理してくれればよかったのに」
義弟が軽く言いました。
「私は干渉しないと申し上げましたわ」
穏やかに。
「最終決定権は当主です」
義母の視線が、私に突き刺さる。
「あなたはこの家の奥方でしょう」
「ええ」
「ならば守る責任がある」
守る。
その言葉に、私はほんのわずかに目を細めました。
「契約に、その条項はございません」
沈黙。
義母の指先が震えているのが見える。
彼女は、私を“扱いやすい嫁”だと思っていた。
けれど、扱いやすいことと、従順であることは違う。
朝食は、どこかぎこちなく終わりました。
午後、アレクシスが執務室で帳簿を広げていました。
珍しい光景です。
「確認なさっているのですか」
「……ああ」
彼は顔を上げません。
「状況は?」
「楽観できるものではない」
私は静かに近づきました。
「是正なさいますか」
彼の手が止まる。
「君はどう思う」
「私は干渉しない立場です」
それでも彼は、こちらを見る。
答えを求める視線。
けれど私は首を振りました。
「旦那様が決めることです」
「……君なら、どうする」
「早期に整理いたします」
「なぜ、今は言わない」
彼の声に、苛立ちと困惑が混じる。
私は彼を見つめました。
「契約があるからです」
その一言が、彼を黙らせる。
約束は、彼が選んだもの。
干渉しないと望んだのは、彼。
私はただ、それを守っている。
夕刻、屋敷に再び商会の使いが来ました。
今度は強い口調で。
使用人たちが動揺する。
義母が応対するが、声が震えている。
私は廊下の影から、それを見ていました。
止められます。
一言助言すれば。
実家に連絡を入れれば。
帳簿の抜け穴を整理すれば。
けれど私は動かない。
干渉しない契約。
止めないという選択。
夜、アレクシスが私の部屋を訪れました。
「君は、本当に動かないのだな」
「はい」
「この家が傾いても?」
「傾けるのは、私ではございません」
彼はしばらく沈黙しました。
「……私は、君に助けられることを期待していたのかもしれない」
その言葉に、胸の奥がわずかに揺れました。
「期待は、契約に含まれておりません」
私は静かに答えます。
彼は目を閉じ、深く息を吐きました。
「冷たいな」
「約束を守っているだけです」
彼はそれ以上何も言わず、部屋を出ていきました。
私は窓を開け、夜風を吸い込みます。
遠くで、雷の音がしました。
嵐の前触れ。
小さな綻びは、もう隠しきれない。
けれど私は、手を伸ばしません。
止めないという選択は、時に最も残酷。
それでも、これは約束。
干渉しない。
助けない。
見ているだけ。
その意味を、彼が本当に理解する日は、もうすぐかもしれません。
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