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第九話 見ないふりの代償
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第九話 見ないふりの代償
嵐は、夜のうちに通り過ぎました。
けれど、侯爵家の屋敷に残ったのは、湿った空気と、乾ききらない緊張でした。
私はいつもの時間に目を覚まし、いつものように支度を整えました。鏡の中の自分は、昨日と何も変わらない。落ち着いた表情、乱れのない髪、曇りのない瞳。
外の天気が荒れても、内側が揺れなければよいのです。
朝食の席には、義母と義弟が先に着いていました。
「……昨夜は眠れなかったわ」
義母がぽつりと言います。
「それはお気の毒に」
私は席に着きながら答えました。
「商会から、正式な催告書が届いたの」
義弟が苛立ったようにナイフを置きました。
「大げさなんだ。少し遅れただけだろう」
「少し、では済まない額ですわね」
私は淡々と告げます。
義弟がこちらを睨みました。
「義姉上はずいぶん詳しい」
「帳簿は拝見しておりますもの」
沈黙が落ちます。
義母がゆっくりと私を見る。
「あなた、何か知っているのなら言いなさい」
「契約にないことは申し上げません」
カップを持つ手は、少しも震えない。
干渉しない契約。
その言葉が、今やこの家を縛る鎖のようになっている。
午前中、執務室から怒鳴り声が響きました。
アレクシスの声です。
「なぜ今まで報告しなかった!」
「当主にお任せしていたと……!」
義弟の声が上擦る。
私は廊下で立ち止まりました。
止めることはできる。
助言することもできる。
けれど私は、静かに歩き去ります。
見ないふり。
それは冷酷でしょうか。
いいえ。
選ばれた約束です。
昼過ぎ、リリアが訪ねてきました。
彼女は昨日よりもさらに不安そうです。
「奥様……噂が広がっています」
「そうでしょうね」
「私のせいではないかと……」
私は首を振りました。
「あなたのせいではございません」
「ですが……」
「原因は別にあります」
彼女は唇を噛みます。
「奥様は、本当に動かれないのですか」
その問いに、私は少しだけ目を伏せました。
「干渉しないと約束しました」
「それでも……守りたいものは」
守りたいもの。
その言葉は、わずかに胸に触れる。
けれど私は微笑みます。
「守るべき方が守るべきですわ」
リリアはそれ以上何も言えず、静かに帰っていきました。
夕刻、アレクシスが私の部屋に現れました。
疲労が滲んでいる。
「状況は、悪い」
「存じております」
「君は……何も言わないのだな」
「言えば干渉になります」
彼は机に手をつき、低く呟きました。
「私は、君が支えてくれると思っていた」
「支えないと、申し上げました」
彼は顔を上げます。
「それでも、夫婦だ」
「白い結婚です」
その言葉が、刃のように静かに落ちた。
彼の表情が揺れる。
「私は……甘かったのかもしれない」
初めて、弱さが見えました。
けれど私は近づきません。
慰めない。
干渉しない。
「選んだのは、あなたです」
私は静かに告げます。
「約束は、守るべきですわ」
彼はしばらく私を見つめ、やがて背を向けました。
扉が閉まる。
その音が、以前よりも重い。
夜、義母が私の部屋を訪れました。
「あなた、何とかできないの?」
その声は、初めて“お願い”の響きを帯びていた。
「契約に反します」
「家が崩れるのよ?」
「崩れる原因を作ったのは、私ではございません」
義母は何も言えず、唇を震わせました。
見ないふりの代償。
それは、気づいた時にはすでに遅いこと。
私は窓を開け、冷たい夜気を吸い込みます。
屋敷の灯りが、どこか心許ない。
歯車は、確実にずれている。
止めないという選択が、静かに重みを増していく。
それでも私は動かない。
干渉しない。
助けない。
約束は守る。
その結果が、誰に一番重くのしかかるのか。
もうすぐ、はっきりと分かるでしょう。
嵐は、夜のうちに通り過ぎました。
けれど、侯爵家の屋敷に残ったのは、湿った空気と、乾ききらない緊張でした。
私はいつもの時間に目を覚まし、いつものように支度を整えました。鏡の中の自分は、昨日と何も変わらない。落ち着いた表情、乱れのない髪、曇りのない瞳。
外の天気が荒れても、内側が揺れなければよいのです。
朝食の席には、義母と義弟が先に着いていました。
「……昨夜は眠れなかったわ」
義母がぽつりと言います。
「それはお気の毒に」
私は席に着きながら答えました。
「商会から、正式な催告書が届いたの」
義弟が苛立ったようにナイフを置きました。
「大げさなんだ。少し遅れただけだろう」
「少し、では済まない額ですわね」
私は淡々と告げます。
義弟がこちらを睨みました。
「義姉上はずいぶん詳しい」
「帳簿は拝見しておりますもの」
沈黙が落ちます。
義母がゆっくりと私を見る。
「あなた、何か知っているのなら言いなさい」
「契約にないことは申し上げません」
カップを持つ手は、少しも震えない。
干渉しない契約。
その言葉が、今やこの家を縛る鎖のようになっている。
午前中、執務室から怒鳴り声が響きました。
アレクシスの声です。
「なぜ今まで報告しなかった!」
「当主にお任せしていたと……!」
義弟の声が上擦る。
私は廊下で立ち止まりました。
止めることはできる。
助言することもできる。
けれど私は、静かに歩き去ります。
見ないふり。
それは冷酷でしょうか。
いいえ。
選ばれた約束です。
昼過ぎ、リリアが訪ねてきました。
彼女は昨日よりもさらに不安そうです。
「奥様……噂が広がっています」
「そうでしょうね」
「私のせいではないかと……」
私は首を振りました。
「あなたのせいではございません」
「ですが……」
「原因は別にあります」
彼女は唇を噛みます。
「奥様は、本当に動かれないのですか」
その問いに、私は少しだけ目を伏せました。
「干渉しないと約束しました」
「それでも……守りたいものは」
守りたいもの。
その言葉は、わずかに胸に触れる。
けれど私は微笑みます。
「守るべき方が守るべきですわ」
リリアはそれ以上何も言えず、静かに帰っていきました。
夕刻、アレクシスが私の部屋に現れました。
疲労が滲んでいる。
「状況は、悪い」
「存じております」
「君は……何も言わないのだな」
「言えば干渉になります」
彼は机に手をつき、低く呟きました。
「私は、君が支えてくれると思っていた」
「支えないと、申し上げました」
彼は顔を上げます。
「それでも、夫婦だ」
「白い結婚です」
その言葉が、刃のように静かに落ちた。
彼の表情が揺れる。
「私は……甘かったのかもしれない」
初めて、弱さが見えました。
けれど私は近づきません。
慰めない。
干渉しない。
「選んだのは、あなたです」
私は静かに告げます。
「約束は、守るべきですわ」
彼はしばらく私を見つめ、やがて背を向けました。
扉が閉まる。
その音が、以前よりも重い。
夜、義母が私の部屋を訪れました。
「あなた、何とかできないの?」
その声は、初めて“お願い”の響きを帯びていた。
「契約に反します」
「家が崩れるのよ?」
「崩れる原因を作ったのは、私ではございません」
義母は何も言えず、唇を震わせました。
見ないふりの代償。
それは、気づいた時にはすでに遅いこと。
私は窓を開け、冷たい夜気を吸い込みます。
屋敷の灯りが、どこか心許ない。
歯車は、確実にずれている。
止めないという選択が、静かに重みを増していく。
それでも私は動かない。
干渉しない。
助けない。
約束は守る。
その結果が、誰に一番重くのしかかるのか。
もうすぐ、はっきりと分かるでしょう。
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