政略結婚は義務だと言ったのに、一夜明けたら溺愛とか豹変しすぎでは?

しおしお

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朝の豹変

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2-1 

 夜明け前、王宮の東翼を包む空は薄藍に染まり、渡り廊下の窓辺には白い靄が立ち込めていた。
 白磁の間の天蓋を透かして差す光が、淡く揺れる。フェブラリーは微かな物音で目を覚まし、まつげの間から視界を探った。

 天蓋の内側に薄い影。
 王太子イシュタルが寝台の縁に片膝をつき、こちらを覗き込んでいた。昨夜の氷の面差しとは似ても似つかない、柔らかな笑みを宿して。

「……おはよう。眠れたか?」
 低く穏やかな声が降りてくる。

(え……?)

 フェブはまだ夢の続きかと錯覚した。
 昨夜――感情の温度を感じさせぬ義務の儀式を終えたあとの、あの冷たい瞳。その同じ瞳が、今は温かな春霞を宿している。

「殿下……?」
「身体は痛まないか」
「い、いえ……大丈夫です」

 言いながら上体を起こそうとすると、イシュタルが慌ててシーツを整え、背に枕を当てた。

「無理はしなくていい。水を用意させた」
 寝台脇の小卓には、銀の水差しと二つの杯。水面には朝日が溶け込んで宝石のように輝いていた。

(昨夜の御方が、どうしてここまで……?)

 戸惑うフェブの手を取って、イシュタルは杯を握らせる。その親指が彼女の指を包み込む熱――冷たいどころか、じんわりとしたぬくもりがあった。

「……昨日の夜は、最高だった」
 唐突に囁かれ、フェブは杯を取り落としかける。

「き、昨日のことですか?」
「君はどう思う?」
「……初めてでしたが、案外……悪くはありませんでした」

 恥じらいを隠すように目を伏せる。イシュタルは唇を緩め、深く頷く。

「私は確信した。――私は君と一つになるために生まれてきたのだと」
「……っ」
「君に何の興味もないと言ったのは誤りだった。なぜ、あの時まで気付かなかったのだろう……君の魅力に」

 フェブの心臓が不規則に跳ねた。息苦しいほどの鼓動。目の前の王太子は、昨夜までの氷面を脱ぎ捨て、まるで春を告げる風のように柔らかく微笑んでいる。

「……殿下は、変わられましたね」
「君が変えた」
「私が?」
「そうとも。君の声も肌も呼吸も、すべてが私の中で新しい世界を照らした。私は、もう目を背けることができない」

 フェブは頬が熱を帯びていくのを感じた。だが、その熱は戸惑いと恐れの混合だった。
 目の前の男は王太子。義務で交わった相手。けれど今の彼は、王族の威圧を携えながらも、一人の男として熱を帯びた視線を注いでくる。

「……あの、殿下。私はまだ心の準備というか……」
「心配は無用だ。君が望まないことはしない。だが、ただそばにいてほしい。私の目の中に、今朝の光と一緒に君を映していたい」

 王太子は立ち上がり、寝台のすぐ横に小さな肘掛け椅子を引き寄せた。
 彼の執務服――まだ袖を通していないシルバーグレーの礼装が肘掛けに掛けられている。イシュタルはそこに腰を下ろすと、枕元に肘を置いて頬杖をついた。

「何を……?」
「君が目を覚ますまで、ずっと座っていた。今日は公務が山積みだが、君より大事なものはない」
「王太子殿下が、公務よりも……?」
「そう言っても誰も信じまいな。だが真実だ」

 イシュタルの声に嘘はなかった。フェブは胸の奥の冷たい湖面に小石が落ち、波紋が広がるような感覚を覚えた。

 扉が小さく叩かれ、侍従長が控えめに姿を現す。
「殿下、朝議の刻限が……」
「十分後に行く。朝食はここに運ばせろ」
「は、はっ。王太子妃殿下のお加減は……」
「私が看る」
 短い指示に侍従長はひれ伏すように下がった。残されたフェブは、純白のシーツの中でもて余す手を胸に置いて、戸惑いを隠し切れない。

 イシュタルは椅子の背に腕を掛け、からかうように微笑む。
「その表情、面白い」
「面白がらないでください」
「君の一挙一動が愛おしいのだ。許してくれ」
「……殿下は今朝、頭を打たれましたか?」
「うん、打たれたのかもしれない。君にね」

 言いながらイシュタルはフェブの指を取り、薬指に光る白金の指輪を撫でる。
 昨夜は冷たく重かった指輪が、今は体温を持って脈打つ気がした。

「今日からは王宮を案内しよう。君の好きな庭園を選び、温室の花をみな君に捧げる。君の命じるままに宮廷楽団を呼ぼう」
「……私は花より図書室の方が好きですが」
「図書室? では午前の公務後、図書室を貸し切ろう」
「貸し切り……?」
「もちろんだ。君の邪魔になる者は通さぬ」

 フェブは言葉を失った。溺愛という言葉を辞書で引くなら、今の王太子が挿絵になるだろう。

「……殿下の思いつきは、王宮中を混乱させるやもしれません」
「君のためなら王宮が少々混乱しても構わない」
 即答したあと、イシュタルはふと真面目な眼差しになった。

「私は昨日まで、無味乾燥な義務しか知らずに生きてきた。だが君と交わした一夜で悟った。――世界には、義務では測れぬ輝きがあると。私はそれを君に見いだした」

 フェブは息を呑む。昨夜、虚無の中で聞こえたガラスの軋みが、別の音に変わった気がした。
 胸の奥で、何かが小さく鳴る。氷の湖面に映る月が揺らぎ、薄氷がひとひら割れた。

 そこへ控えめなノックと共に、湯気の立つ銀盆が運び込まれた。温かなスープと焼きたてのブリオッシュ、季節の果実。香り豊かな料理が寝台脇のテーブルに並ぶ。
 イシュタルはスプーンを取り、柔らかなスープをひとすくい。

「君にこそ味わってほしい。私はもう味見した」
「では私も自分でいただきます。……“アーン”は不要です」
 昨夜の硬質な空気とは違う、かすかな笑みを混ぜてフェブが言うと、イシュタルは肩を揺らして笑った。

「了解した。しかしいつか、人目のないところでさせてほしい」
「……ご検討しておきます」

 湯気の向こうで目が合い、二人は同時に小さく息をついた。
 それは形式に縛られた絵画の中で、初めて零れ落ちた“本物”のさざめき。
 まだ色彩は淡く、触れれば壊れてしまいそうに儚い。それでも二人の間で確かに芽生えた温度は、朝日のように白磁の間を染め上げていく。

 そしてフェブは気付く。
 夜明けは、ただ暗闇の終わりではなく、名もなき可能性の始まりでもあるのだと──。

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