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冷たい初夜
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1-3
夜半、王宮の東翼に設けられた新婚の間──“白磁の間”と呼ばれるその寝室は、名の通り白と銀で統一されていた。
天井から垂れる純白の天蓋。シーツは雪を織り込んだように滑らかで、壁炉には魔力灯の炎が静かに揺れている。
豪奢であるはずの設えが、フェブには酷く無機質に映った。まるで真冬の湖面を閉ざす氷のように、光を反射するだけで温度を持たない。
侍従が最後の挨拶を残し、扉を閉める。重い錠の音が響き、部屋に二人きりの静寂が落ちた。
フェブは深呼吸し、胸の前で手を重ねる。純白のナイトガウンは肌を透かし、肩を撫でる冷気が重みを増した心を静かに締めつけた。
「今夜からここが君の部屋だ」
低い声が背後から降りかかる。
イシュタルは軍衣を脱ぎ、ミッドナイトブルーのシルクローブを纏っていた。
銀髪が暖炉の炎を映し、薄く微笑しているようにも、冷笑しているようにも見える。
「新しい環境に慣れるまで時間が必要かもしれない。だが我々には――義務がある」
フェブは微かに瞼を伏せた。
「世継ぎのこと、ですね」
「そうだ」
王太子はためらいなく頷き、歩み寄る。
距離が縮むたび、氷気をまとった花が咲く心地がした。
フェブは自覚している。この男は、完璧に整った王家の至宝として磨かれすぎて、情動の隙間を削ぎ落としてきた人だ。
「君には……何の興味もない」
面と向かって宣言されても、想定内だった。
ただ、胸の奥の膜がわずかに振動し、靴底を伝って床に冷水がこぼれる感覚が広がる。
「ですが私は公爵家の娘。王家の存続こそが使命です。拒む理由はありません」
イシュタルの青い瞳が、夜気より冷たく光る。
「君は強いな。いや、強くなければ王妃にはなれんか」
「強さではなく、諦観です」
「諦観……か」
口の端に微笑らしきものが浮かんだが、それは熱を帯びる前に氷結した。
イシュタルはフェブの顎に手を添えた。指先は驚くほど冷たい。
肌が雪原に押しつけられたように震え、しかし彼女は眉一つ動かさない。
「痛みは与えない。だが義務は果たす。……いいな」
「はい」
答える声は無機質。感情を挟めば砕け散ると、本能が告げていた。
イシュタルは天蓋の縁を持ち上げ、フェブをゆっくりと寝台へ導く。降り積もった白雪の中へ沈むように、シーツが軋みを立てた。
外套が床に落ち、暖炉の炎が淡い揺らぎを投げ掛ける。
イシュタルが顔を寄せる。睫毛が触れ合うほど近くで、再び冷たい囁きが降る。
「……恐れているか」
「恐れより、寒気を覚えます」
「寒気?」
「ですが、殿下は氷の王太子と呼ばれておられる。氷は国を護る盾にもなります。――私は盾の重みを受け止めるだけです」
イシュタルは一瞬、何かを読み解くようにフェブを見つめた。
その視線の奥に意味を探しかけたところで、彼は振り払うように唇を重ねた。形だけの接吻。味も熱もなく、誓印を押すだけの儀式。
やがて衣擦れの音が重なり、白布の中に二つの影が溶け合う。
フェブは瞼を閉じた。義務――それは幼い頃より耳に馴染んだ鎖の響き。
父は言った。公爵家とは王家の盾であり剣であり礎であると。感情の価値など、栄光の勲章には刻まれない、と。
寝台に身を横たえたまま天蓋の帳を見上げると、白絹がゆらめき、まるで雪雲が夜空に張り付いているようだった。
その向こうにきらめく星は見えない。けれど瞳を閉じれば網膜の内側に幻の星々が瞬き、ひとつずつ闇に落ちて消えた。
(偽物で構わない。偽物の微笑、偽物の安堵。……でも、いつか本物の何かに触れられるだろうか)
思考が雪解けの水に沈むように薄れ、無感情の波が意識を呑み込んでいく。
遠く、暖炉の薪が弾ける音がした。
* * *
どれほどの時が過ぎただろう。
夜はまだ終わらない。けれど、窓辺の長いカーテンがわずかに揺れていた。城の深部を巡る温風が吹き抜けたのだろう。
フェブは静かに起き上がり、ベッドの縁で膝を抱えた。
淡い月光が床に届き、足の指先を冷やす。揺らめく炎に背を向けながら、深く息を吐いた。
(終わった――)
胸の裏側に隠していたガラスの器が、少し音を立てた気がした。割れない。だが、亀裂は走ったかもしれない。
その傷が痛みになるのか、別の感情に形を変えるのか。まだわからない。
「義務は……果たしたわ」
囁きはシーツに吸われ、やがて霧散した。
そのとき、背後でシーツが揺れる微かな音がする。振り返ると、イシュタルはまだ眠らず、蒼氷の瞳でフェブを見ていた。
視線が交差する。何も言わない。言う必要もない。ただ互いを映す鏡の表面だけが触れ合った。
月明かりが二人の間を滑り落ちる。
王族の義務と公爵家の義務が交錯し、白磁の間を冷たい結晶で満たしていく。
涙は出なかった。涙を流すには、この部屋の空気はあまりにも透き通りすぎている。
ただ一つ、フェブは確かに理解した。この夜を境に、自分は「婚姻によって王家と結びついた駒」から、「王家の内部に存在する鎖」へ役割を変えたのだと――。
そして、その鎖はいつか氷を溶かす火種になることを、まだ誰も知らない。
夜半、王宮の東翼に設けられた新婚の間──“白磁の間”と呼ばれるその寝室は、名の通り白と銀で統一されていた。
天井から垂れる純白の天蓋。シーツは雪を織り込んだように滑らかで、壁炉には魔力灯の炎が静かに揺れている。
豪奢であるはずの設えが、フェブには酷く無機質に映った。まるで真冬の湖面を閉ざす氷のように、光を反射するだけで温度を持たない。
侍従が最後の挨拶を残し、扉を閉める。重い錠の音が響き、部屋に二人きりの静寂が落ちた。
フェブは深呼吸し、胸の前で手を重ねる。純白のナイトガウンは肌を透かし、肩を撫でる冷気が重みを増した心を静かに締めつけた。
「今夜からここが君の部屋だ」
低い声が背後から降りかかる。
イシュタルは軍衣を脱ぎ、ミッドナイトブルーのシルクローブを纏っていた。
銀髪が暖炉の炎を映し、薄く微笑しているようにも、冷笑しているようにも見える。
「新しい環境に慣れるまで時間が必要かもしれない。だが我々には――義務がある」
フェブは微かに瞼を伏せた。
「世継ぎのこと、ですね」
「そうだ」
王太子はためらいなく頷き、歩み寄る。
距離が縮むたび、氷気をまとった花が咲く心地がした。
フェブは自覚している。この男は、完璧に整った王家の至宝として磨かれすぎて、情動の隙間を削ぎ落としてきた人だ。
「君には……何の興味もない」
面と向かって宣言されても、想定内だった。
ただ、胸の奥の膜がわずかに振動し、靴底を伝って床に冷水がこぼれる感覚が広がる。
「ですが私は公爵家の娘。王家の存続こそが使命です。拒む理由はありません」
イシュタルの青い瞳が、夜気より冷たく光る。
「君は強いな。いや、強くなければ王妃にはなれんか」
「強さではなく、諦観です」
「諦観……か」
口の端に微笑らしきものが浮かんだが、それは熱を帯びる前に氷結した。
イシュタルはフェブの顎に手を添えた。指先は驚くほど冷たい。
肌が雪原に押しつけられたように震え、しかし彼女は眉一つ動かさない。
「痛みは与えない。だが義務は果たす。……いいな」
「はい」
答える声は無機質。感情を挟めば砕け散ると、本能が告げていた。
イシュタルは天蓋の縁を持ち上げ、フェブをゆっくりと寝台へ導く。降り積もった白雪の中へ沈むように、シーツが軋みを立てた。
外套が床に落ち、暖炉の炎が淡い揺らぎを投げ掛ける。
イシュタルが顔を寄せる。睫毛が触れ合うほど近くで、再び冷たい囁きが降る。
「……恐れているか」
「恐れより、寒気を覚えます」
「寒気?」
「ですが、殿下は氷の王太子と呼ばれておられる。氷は国を護る盾にもなります。――私は盾の重みを受け止めるだけです」
イシュタルは一瞬、何かを読み解くようにフェブを見つめた。
その視線の奥に意味を探しかけたところで、彼は振り払うように唇を重ねた。形だけの接吻。味も熱もなく、誓印を押すだけの儀式。
やがて衣擦れの音が重なり、白布の中に二つの影が溶け合う。
フェブは瞼を閉じた。義務――それは幼い頃より耳に馴染んだ鎖の響き。
父は言った。公爵家とは王家の盾であり剣であり礎であると。感情の価値など、栄光の勲章には刻まれない、と。
寝台に身を横たえたまま天蓋の帳を見上げると、白絹がゆらめき、まるで雪雲が夜空に張り付いているようだった。
その向こうにきらめく星は見えない。けれど瞳を閉じれば網膜の内側に幻の星々が瞬き、ひとつずつ闇に落ちて消えた。
(偽物で構わない。偽物の微笑、偽物の安堵。……でも、いつか本物の何かに触れられるだろうか)
思考が雪解けの水に沈むように薄れ、無感情の波が意識を呑み込んでいく。
遠く、暖炉の薪が弾ける音がした。
* * *
どれほどの時が過ぎただろう。
夜はまだ終わらない。けれど、窓辺の長いカーテンがわずかに揺れていた。城の深部を巡る温風が吹き抜けたのだろう。
フェブは静かに起き上がり、ベッドの縁で膝を抱えた。
淡い月光が床に届き、足の指先を冷やす。揺らめく炎に背を向けながら、深く息を吐いた。
(終わった――)
胸の裏側に隠していたガラスの器が、少し音を立てた気がした。割れない。だが、亀裂は走ったかもしれない。
その傷が痛みになるのか、別の感情に形を変えるのか。まだわからない。
「義務は……果たしたわ」
囁きはシーツに吸われ、やがて霧散した。
そのとき、背後でシーツが揺れる微かな音がする。振り返ると、イシュタルはまだ眠らず、蒼氷の瞳でフェブを見ていた。
視線が交差する。何も言わない。言う必要もない。ただ互いを映す鏡の表面だけが触れ合った。
月明かりが二人の間を滑り落ちる。
王族の義務と公爵家の義務が交錯し、白磁の間を冷たい結晶で満たしていく。
涙は出なかった。涙を流すには、この部屋の空気はあまりにも透き通りすぎている。
ただ一つ、フェブは確かに理解した。この夜を境に、自分は「婚姻によって王家と結びついた駒」から、「王家の内部に存在する鎖」へ役割を変えたのだと――。
そして、その鎖はいつか氷を溶かす火種になることを、まだ誰も知らない。
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