政略結婚は義務だと言ったのに、一夜明けたら溺愛とか豹変しすぎでは?

しおしお

文字の大きさ
5 / 18

執務室での溺愛

しおりを挟む
 2-2 

 午前の朝議が終わるや否や、イシュタルは取り巻きの諸侯を置き去りにして王太子執務室へ向かった。
 その堂々たる背に引きずられるようにして、フェブラリーも歩を進める。廊下に並ぶ衛兵たちは最敬礼を捧げたが、殿下は一瞥もくれない。目的はただ一つ――“妃を自分の視界に入れる”ことだけらしい。

 広い執務室の扉が開くと、巨大な書類の山が壮観な峻峰のようにそびえていた。
 だがイシュタルは眉ひとつ動かさず、山脈の奥に鎮座する黒檀の執務机の脇へ椅子を運び、空いたスペースにふかふかの小型ソファを据えた。

「さあ、ここに座ってくれ」
「……殿下、その椅子はどこから?」
「我が従者が走って用意した。柔らかいだろう?」
「ええ、まるで雲の上のようですが……私は執務の邪魔になりません?」
「ならない。むしろ執務が捗る」

 イシュタルは満足げに頷き、机に向き直った。フェブは訝しげにソファへ腰を下ろす。深く沈み込む座面に身体を預けた瞬間、上質な羽毛が優しく弾み、甘い香木の匂いが立った。

「何をしていてもいい。本を読んでも、編み物をしても、昼寝でも構わない。君がそこにいる、それだけでいい」
「……殿下は不思議なお方です」
「そうか?」
「はい。昨日までは氷のように冷たいと噂されていたのに、今朝からは春の陽気のごとく……」
「氷が溶けるには、ただ一筋の陽光で十分だ」
「その陽光が私だと?」
「他に誰がいる?」

 イシュタルは書類にペンを滑らせながら、時折ちらりとフェブの方を盗み見た。
 やがて彼は机上の呼び鈴を鳴らす。侍従がすぐに現れる。

「妃殿下にお茶と菓子、それと――こちらに追加のランプを。光量が足りん」
「畏まりました」

 侍従が出ていくと、フェブは慌てて立ち上がった。
「どうかお気遣いなく。私は執務の邪魔にならないよう静かにしているだけで……」
「お気遣いか、否かではない。君が快適であることが、私の快適だ」
「――殿下は、公務より私が大事で?」
「公務は替えが利く。君には替えがない」

 さらりと告げられ、フェブは言葉を失う。
 王太子は新しく届いた公印を慣れた手付きで押し、別の文書を開いて視線を走らせる。書類の降雨が机に落ちるたび、金の袖口飾りが光を散らした。その横顔は集中の相貌だったが、瞳の隅には常にフェブの身じろぎが映っている。

 やがて侍従たちがティーセットと菓子皿を運び込んだ。
 白磁のカップから紅茶の香りが立ちのぼる。
 イシュタルは自らポットを手に取り、琥珀色を注ぐと小皿に一口大のクッキーを三枚乗せた。

「君が甘いものを好むと聞いた」
「えっ……そのようなこと、どこで?」
「ヴァルナ公爵家の侍女に訊いた」
「……殿下が、私の嗜好を調べて?」
「当然だ。人は愛する者の好物を覚えるものだろう?」

 愛すると言った、その言葉の重み。
 紅茶の湯気に混じる甘い匂いが、フェブの頬を染めてゆく。
 イシュタルはスプーンにクリームをのせ、差し出した。

「さあ。君の好きな甘さに整えてある」
「自分で食べられます。……その“アーン”を期待されても困ります」
「残念だ」
「仕事に戻ってください、殿下」
「では公務をこなしつつ、君を味わうとしよう」
「味わうのは紅茶とクッキーだけになさってください」

 イシュタルは目尻を楽しげに下げ、ペンを取り上げた。
 しばらく室内には羽根ペンの擦れる音だけが満ちる。フェブは紅茶を啜りながら、机上に積まれた文書の量に目を見張った。王太子業とはかくも多岐にわたるのか。
 それでもイシュタルの手は止まらない。宛先を確認し、判断を下し、署名し、封蝋を施す。しかも時折こちらを振り返り、柔らかな瞳を向ける余裕さえある。

 ――不思議な男。
 昨夜見た氷の王太子はどこへ消えたのか。
 フェブは胸の内で呟きながら、ページを捲った。借りてきた王太子専用の蔵書――古歴史の分厚い本。活字の森を抜けるたび、斜め向かいの視線が鷹のように見守っているのを感じる。

 昼前、書類の最後の山を片付けたイシュタルがペンを置いた。
「終わった」
「お疲れ様です」
 フェブが立ち上がると、王太子は机を回り込み、自然に手を差し出した。腰に添えた指がごく軽く、しかし逃がさぬように存在を主張する。
「次は君の番だ。図書室を案内しよう」
「案内というより、貸し切りと伺いましたが……」
「その通りだ。周囲を気にせず君が蔵書を選べるように」
「殿下、ご自身の休息は?」
「休息とは、君を眺めることだ」

 すぐさま返って来る殺し文句。侍従たちが書類を片づける振りをしながら、熱視線を送ってくるのがわかった。
 フェブは頬を抑えつつ、軽く咳払いした。

「それほど注視されると、読書に集中できません」
「では私の膝の上で読めばいい」
「――読めるわけがありません!」

 王太子は愉快そうに笑う。氷どころか、陽春の川面のようにきらめく笑顔。
 執務机の上、金色の王家の箔押し文書に彼の影が重なり、そこにぼんやりとフェブ自身の影も映っていた。二つの影は重なり、分かちがたく溶け合う。
 政略という鎖が結んだはずの二人。その鎖から、まさか温かい光が漏れ出すとは、誰が予想しただろう。

 執務室の窓から見える庭園に、早咲きの紅梅がほころび始めた。
 氷を蹴散らし、冬を破る花。その紅は王太子の頬にも、妃殿下の頬にも、ごく淡く――しかし確かに、同じ色で染み始めていた。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

婚約破棄された夜、最強魔導師に「番」だと告げられました

有賀冬馬
恋愛
学院の祝宴で告げられた、無慈悲な婚約破棄。 魔力が弱い私には、価値がないという現実。 泣きながら逃げた先で、私は古代の遺跡に迷い込む。 そこで目覚めた彼は、私を見て言った。 「やっと見つけた。私の番よ」 彼の前でだけ、私の魔力は輝く。 奪われた尊厳、歪められた運命。 すべてを取り戻した先にあるのは……

天然だと思ったギルド仲間が、実は策士で独占欲強めでした

星乃和花
恋愛
⭐︎完結済ー本編8話+後日談7話⭐︎ ギルドで働くおっとり回復役リィナは、 自分と似た雰囲気の“天然仲間”カイと出会い、ほっとする。 ……が、彼は実は 天然を演じる策士だった!? 「転ばないで」 「可愛いって言うのは僕の役目」 「固定回復役だから。僕の」 優しいのに過保護。 仲間のはずなのに距離が近い。 しかも噂はいつの間にか——「軍師(彼)が恋してる説」に。 鈍感で頑張り屋なリィナと、 策を捨てるほど恋に負けていくカイの、 コメディ強めの甘々ギルド恋愛、開幕! 「遅いままでいい――置いていかないから。」

婚約破棄された侯爵令嬢、帝国最強騎士に拾われて溺愛される

夜桜
恋愛
婚約者である元老院議員ディアベルに裏切られ、夜会で婚約破棄を宣言された侯爵令嬢ルイン。 さらにバルコニーから突き落とされ、命を落としかけた彼女を救ったのは、帝国自由騎士であるジョイアだった。 目を覚ましたルインは、落下のショックで記憶を失っていた。 優しく寄り添い守ってくれるジョイアのもとで、失われた過去と本当の自分を探し始める。 一方、ルインが生きていると知ったディアベルと愛人セリエは、再び彼女を排除しようと暗躍する。 しかし、ルインの中に眠っていた錬金術師としての才能が覚醒し、ジョイアや父の助けを得て、裏切った元婚約者に立ち向かう力を取り戻していく。

転移先で日本語を読めるというだけで最強の男に囚われました

桜あずみ
恋愛
異世界に転移して2年。 言葉も話せなかったこの国で、必死に努力して、やっとこの世界に馴染んできた。 しかし、ただ一つ、抜けなかった癖がある。 ──ふとした瞬間に、日本語でメモを取ってしまうこと。 その一行が、彼の目に留まった。 「この文字を書いたのは、あなたですか?」 美しく、完璧で、どこか現実離れした男。 日本語という未知の文字に強い関心を示した彼は、やがて、少しずつ距離を詰めてくる。 最初はただの好奇心だと思っていた。 けれど、気づけば私は彼の手の中にいた。 彼の正体も、本当の目的も知らないまま。すべてを知ったときには、もう逃げられなかった。

嫌われたと思って離れたのに

ラム猫
恋愛
 私は、婚約者のカイルに嫌われたと思った。冷たくそっけなく、近づくたびに避けられる日々。  距離を置くことを選び、留学の準備も進めて心を落ち着かせようとするけれど——。

私を簡単に捨てられるとでも?―君が望んでも、離さない―

喜雨と悲雨
恋愛
私の名前はミラン。街でしがない薬師をしている。 そして恋人は、王宮騎士団長のルイスだった。 二年前、彼は魔物討伐に向けて遠征に出発。 最初は手紙も返ってきていたのに、 いつからか音信不通に。 あんなにうっとうしいほど構ってきた男が―― なぜ突然、私を無視するの? 不安を抱えながらも待ち続けた私の前に、 突然ルイスが帰還した。 ボロボロの身体。 そして隣には――見知らぬ女。 勝ち誇ったように彼の隣に立つその女を見て、 私の中で何かが壊れた。 混乱、絶望、そして……再起。 すがりつく女は、みっともないだけ。 私は、潔く身を引くと決めた――つもりだったのに。 「私を簡単に捨てられるとでも? ――君が望んでも、離さない」 呪いを自ら解き放ち、 彼は再び、執着の目で私を見つめてきた。 すれ違い、誤解、呪い、執着、 そして狂おしいほどの愛―― 二人の恋のゆくえは、誰にもわからない。 過去に書いた作品を修正しました。再投稿です。

【完結】家族に愛されなかった辺境伯の娘は、敵国の堅物公爵閣下に攫われ真実の愛を知る

水月音子
恋愛
辺境を守るティフマ城の城主の娘であるマリアーナは、戦の代償として隣国の敵将アルベルトにその身を差し出した。 婚約者である第四王子と、父親である城主が犯した国境侵犯という罪を、自分の命でもって償うためだ。 だが―― 「マリアーナ嬢を我が国に迎え入れ、現国王の甥である私、アルベルト・ルーベンソンの妻とする」 そう宣言されてマリアーナは隣国へと攫われる。 しかし、ルーベンソン公爵邸にて差し出された婚約契約書にある一文に疑念を覚える。 『婚約期間中あるいは婚姻後、子をもうけた場合、性別を問わず健康な子であれば、婚約もしくは結婚の継続の自由を委ねる』 さらには家庭教師から“精霊姫”の話を聞き、アルベルトの側近であるフランからも詳細を聞き出すと、自分の置かれた状況を理解する。 かつて自国が攫った“精霊姫”の血を継ぐマリアーナ。 そのマリアーナが子供を産めば、自分はもうこの国にとって必要ない存在のだ、と。 そうであれば、早く子を産んで身を引こう――。 そんなマリアーナの思いに気づかないアルベルトは、「婚約中に子を産み、自国へ戻りたい。結婚して公爵様の経歴に傷をつける必要はない」との彼女の言葉に激昂する。 アルベルトはアルベルトで、マリアーナの知らないところで実はずっと昔から、彼女を妻にすると決めていた。 ふたりは互いの立場からすれ違いつつも、少しずつ心を通わせていく。

【完結】番としか子供が産まれない世界で

さくらもち
恋愛
番との間にしか子供が産まれない世界に産まれたニーナ。 何故か親から要らない子扱いされる不遇な子供時代に番と言う概念すら知らないまま育った。 そんなニーナが番に出会うまで 4話完結 出会えたところで話は終わってます。

処理中です...