政略結婚は義務だと言ったのに、一夜明けたら溺愛とか豹変しすぎでは?

しおしお

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ご褒美と一人時間の攻防

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 2-3 

 貸し切りとなった王宮図書室は、昼下がりの陽光を高窓から取り込み、薔薇色の絨毯に金糸の模様を浮かべていた。
 フェブラリーは書架の間をゆっくり歩き、革装丁の背を撫でる。紙とインクのほのかな匂いが胸いっぱいに広がり、子ども時代に通った父の私設図書館の記憶が重なった。

 遠巻きに控える侍従たちは、誰も声を掛けようとしない。王太子のきつい命で「妃殿下が静寂を望む間は羽音一つ立てるな」と言い渡されているのだ。
 その主──イシュタル本人だけが例外で、書棚の影から影へと忍び足で付きまとって来る。

「その本は叙事詩だな。英雄アルマディウスの遠征譚――」
「知っております。幼い頃に読みました」
「ではこちらは? 古代魔道の象形文字辞典」
「それは読み解きが難解すぎて途中で挫折しました」
「今なら私が解説しよう」
「……殿下。静かにと自ら命じられたのはどなたですか?」

 ふと睨むと、イシュタルは肩をすくめて苦笑した。
「すまない。つい君と話したくて」
「では、せめて囁き声でお願いします」
「わかった」

 それでも王太子は隠し切れない嬉々とした雰囲気を纏い、まるで子犬のようにフェブの背後を追う。フェブは頬を拭い、苦笑を忍ばせた。
(氷の王太子――あれは幻だったのかしら)

 やがて彼女は一番奥の書架で、薄緑の背表紙の小説集を抜き取った。初版本で挿絵入り。読める状態が良好なことに驚き、ページをそっとめくる。
 そこへ追いついたイシュタルが、横から覗き込んだ。

「それは恋愛小説だな。主人公の想い人が遠征から戻らぬまま――」
「結末は語らないでください。未読です」
「そうか。ならば感想を聞かせてくれるまで黙っていよう」

 王太子は約束を示すように胸に手を当てる。その仕草が妙に可笑しく、フェブはつい笑った。
 笑顔を向けられたイシュタルは、幻でも見たように目を瞬かせた。

「……今、私に笑いかけた?」
「はい、そんなに珍しい顔ですか?」
「貴重だ。王家の宝物庫に収めたいくらいだ」
「収蔵品にするのはご遠慮ください」

 しばし沈黙が落ち、図書室には紙をめくる音だけが漂った。フェブは読みかけたページに栞を挟み、息をつく。
 するとイシュタルが、懐から小さな包みを差し出した。

「これは君へのご褒美だ。図書室で静かに本を選ぶ君があまりに愛らしくて我慢できなかった」
「また、ですか? さきほども書斎でお菓子をいただいたばかり――」
「別腹という言葉がある。開けてくれ」

 包みを開くと、中には翡翠糖で作った小箱のような干菓子が並んでいた。透明な緑が陽光を透かし、宝石にも見える。

「こんな高価なものを……」
「君の瞳の色に似ていると思って」
「私の瞳はもっと暗い色ですよ」
「君を見ていると、何色だって美しく輝く」

 さらりと口にする甘言にフェブは吹き出す。
 王太子の溺愛は、もはや誰にも止められない川の流れだった。

* * *

 午後、執務室へ戻る途中の回廊で、イシュタルは突然足を止めた。
「フェブ」
「はい?」
「君に礼をしたい。欲しいものはないか? 宝石でもドレスでも、馬車でも――」

 予想通りの台詞にフェブは小さく息をつき、意を決して言った。
「では――一人の時間をください」

 王太子の表情が凍りつく。
「……ひ、と、り?」
「はい。読書でも、散歩でも、何でもいいので、一人で過ごす静かなひとときを」

 イシュタルはまるで捨てられた子犬のように目を伏せた。
「私も……だめ、なのか?」
「殿下が傍にいらっしゃると、どうしても侍従も護衛もついて回ります。私は気楽に本を読みたいだけです」

 王太子の肩が落ち、絶望の影が宿る。
「私は、君を一人にしたくない。……心配なのだ」
「王宮内で護衛を配してくださるなら襲われません」
「しかし――」
「“何でも”とおっしゃいました」

 フェブが小首を傾げると、イシュタルはぐ、と喉を詰まらせた。
 廊下のランプの光が、彼の滑らかな髪を淡く照らす。その影を見ていると、確かに幼子のような不安が漂っている。

「だから、そんな顔をなさらないでください」
 フェブはそっとイシュタルの手を取った。驚いたように見開かれた瞳に向け、柔らかな声で続ける。
「ほんの少しだけです。夕暮れまでには戻ります。その後で、またご一緒しましょう」

「……約束だ」
「ええ。逃げたりしません」

 イシュタルはようやく僅かな笑みを浮かべ、フェブの手の甲に軽く口づけを落とした。
「夕刻に迎えに行こう。場所は?」
「図書室の読書席です。お気に召さないでしょうが」
「図書室か……椅子をもう一脚、君の隣に置かせておく」
「殿下!」
「冗談だ。夕刻までは我慢しよう」

 冗談交じりの宣言に、フェブは笑わざるを得なかった。
 政略結婚という檻が、いつの間にか小さな庭になり、そこに咲く花と戯れる王太子――その景色を可愛いと思ってしまう自分がいる。

* * *

 夕焼けが回廊を朱に染める頃、フェブは図書室の席から外を見た。
 遠く正門の方角、小さな影が駆けてくる。約束より少し早い。
 影は王太子のものだと分かった瞬間、胸に温かい波が押し寄せた。

(少しだけ、私の時間。そしてまた、殿下の時間――)

 夕映えの光を浴びながらフェブは立ち上がった。
 氷が解け、春を迎える湖面のように、彼女の瞳には朱と金のきらめきが映っていた。

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