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即位の決定と妃の座
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4-1
晩夏の薄曇り――王都上空を渡る風が、遠雷の気配を含んでいた。
その朝、王城の尖塔に紫紺の王家旗が掲げられ、全区画へ号鐘が鳴り響く。〈譲位宣言〉。先王オルフェウス三世が長年の疲弊を理由に座を退き、第一王子イシュタルが正式に王位を継ぐと布告したのだ。
正午、玉座の間。
色褪せた壁画の英雄たちが見下ろす中、老臣団が半円を描き、中央には金色の階段が延びている。
階段の頂、臨時の高座に着座した先王は、白銀の髭を撫でながら朗々と告げた。
「我が子イシュタル・ルーセントは来月初頭、戴冠の式を受け、以ってアルヴィレオ王国第五十七代の王となる」
大臣の合唱する「万歳」が高天井に反響し、扉口で控えていたフェブラリーは無意識に背筋を伸ばした。
譲位式典の後、直ちに「王妃選定評議会」が開かれる――建前はそうだが、誰もが結果を分かっている。
それでも王国には“形式”を重んじる古参貴族がいた。
評議会の円卓、杖を突いた白髪の公爵ベルトランが声を張る。
「諸侯よ、忘れるな。王妃は“血筋・功徳・国益”の三柱で選ぶべし。我らが列席するのは名伶を賛美するためではない」
名伶。暗にフェブを指す蔑称が、石壁を湿った羽音のように掠めた。
別の侯爵が「ヴァルナは辺境寄りの家柄」「古来、王妃は五大公爵家から出すべし」と唱和する。
彼らは自分たちの娘を王妃へ押し込み、巨利と権威を守ろうとしているのだ。
フェブは席の後方で静かにそれを聞いていた。
侮蔑は痛い。しかし痛みは、冷たい雨のように心を磨く。
彼女は欠片ほどの不安も覗かせず、薄い微笑を浮かべた。――矜持こそヴァルナの鎧なのだから。
そのとき、重い扉が開かれた。
深紅の外套を翻し、イシュタルが入室する。
蒼鋼の軍衣に戴冠用の肩章を付け、青い瞳は雷雲の下で光を孕んでいた。
全員が起立したが、王太子は礼の手振りさえ省き、卓の中央へ直進する。
「評議に先んじて、私の意向を示す」
低く澄んだ声が、燭台の火を揺らす。
「王妃はフェブラリー・ヴァルナである。異論は認めない」
石畳に電撃が走った。
老公爵ベルトランが杖を鳴らし、唇を震わせる。
「そ、それでは“評議会”の存在意義が――!」
「評議は形骸ではない。が、王権は最終裁可を持つ。私が宣言した時点で、新王妃は決定だ」
別の侯爵が声を張り上げる。
「伝統を蔑ろにすれば貴族連合が黙ってはおらぬ!」
イシュタルは一歩踏み込み、卓を挟んで老人を見下ろした。
「伝統とは、民と国の未来を守るためにある。己の椅子を守るために捻じ曲げるなら、それは“旧弊”と呼ぶ」
音を立てて沈黙が降りた。──その静けさの中、フェブが進み出る。
真珠のドレスから裾を払うと、柔らかな声が円卓を満たした。
「諸侯の懸念は理解します。私は辺境寄りの血筋、王都の華(か)とは呼ばれません。ですが王妃は“王と民の橋”であると学びました。私は橋脚となる覚悟を、ヴァルナの名に賭けて誓います」
老公爵が睨む。
「覚悟で血筋は覆らぬ!」
「いいや、覚悟こそ血を超える」
イシュタルは断言し、フェブの手を取った。
「彼女は私の王妃であり、アルヴィレオの灯火だ。大陸国境で育ったヴァルナが海路を切り拓き、異民族の講和を成功させた事実を忘れたか? 功徳において彼女は十分だ」
誰も返す言葉がなかった。
雷鳴が遠くで転がり、ステンドグラスに稲光が走る。
それでも王太子と王妃予定者の影は、一切揺れなかった。
* * *
会議後。
フェブは王太子の執務室に招かれ、窓際のテーブルについた。外では雨が降り始め、瓦屋根を細かく打っている。
イシュタルがカップに紅茶を注ぎ、静かに口を開いた。
「……不快な想いをさせた」
「いいえ。殿下が隣にいてくださる限り、何も怖くはありません」
「それでも、もうしばらく逆風は続く。私一人の威光で払えぬ旧弊もある」
「その時は二人で剣を振るいましょう。盾と剣……いえ、共に剣でともに盾で」
イシュタルの瞳が柔らかく笑む。
「君の言葉は炎だ。私の中に灯を増やしてくれる」
「ならばその灯で、王国の未来を照らしてください」
「共にだ。戴冠の玉座は、君を迎えるために作られる」
窓の外で雷が轟く。だが室内のランプは揺らがない。
フェブは蒼い稲光を見つめ、胸の奥で改めて決意した。
――私は王妃になる。義務としてではなく、愛と覚悟を持って。
雨脚がやや弱まり、雲間にうっすらと黄金色が差した。
夜明けの前触れのようだった。
その光の下で、二人は静かに杯を合わせた。
「戴冠の日まで、あと二十八日」
「長いようで短いわね」
「いや、永遠ほど長く感じる。君を王妃と呼ぶまで、私は息すら惜しい」
「……生きていてくださらないと困ります」
「ならば深呼吸しよう。君の香りで肺を満たして」
「殿下、その冗談は後で叱ります」
微笑み合う二人の頭上、雨雲は静かに裂け、夕陽が覗いた。
それは王国に差し込んだ新しい王朝の黎明。
遠雷は去り、やがて鐘楼が夕刻の時を告げる。
フェブラリー・ヴァルナは心の中で静かに呟いた。
(これは政略結婚の終章ではない。――真実の愛と王国の夜明け、その序章なのだ)
晩夏の薄曇り――王都上空を渡る風が、遠雷の気配を含んでいた。
その朝、王城の尖塔に紫紺の王家旗が掲げられ、全区画へ号鐘が鳴り響く。〈譲位宣言〉。先王オルフェウス三世が長年の疲弊を理由に座を退き、第一王子イシュタルが正式に王位を継ぐと布告したのだ。
正午、玉座の間。
色褪せた壁画の英雄たちが見下ろす中、老臣団が半円を描き、中央には金色の階段が延びている。
階段の頂、臨時の高座に着座した先王は、白銀の髭を撫でながら朗々と告げた。
「我が子イシュタル・ルーセントは来月初頭、戴冠の式を受け、以ってアルヴィレオ王国第五十七代の王となる」
大臣の合唱する「万歳」が高天井に反響し、扉口で控えていたフェブラリーは無意識に背筋を伸ばした。
譲位式典の後、直ちに「王妃選定評議会」が開かれる――建前はそうだが、誰もが結果を分かっている。
それでも王国には“形式”を重んじる古参貴族がいた。
評議会の円卓、杖を突いた白髪の公爵ベルトランが声を張る。
「諸侯よ、忘れるな。王妃は“血筋・功徳・国益”の三柱で選ぶべし。我らが列席するのは名伶を賛美するためではない」
名伶。暗にフェブを指す蔑称が、石壁を湿った羽音のように掠めた。
別の侯爵が「ヴァルナは辺境寄りの家柄」「古来、王妃は五大公爵家から出すべし」と唱和する。
彼らは自分たちの娘を王妃へ押し込み、巨利と権威を守ろうとしているのだ。
フェブは席の後方で静かにそれを聞いていた。
侮蔑は痛い。しかし痛みは、冷たい雨のように心を磨く。
彼女は欠片ほどの不安も覗かせず、薄い微笑を浮かべた。――矜持こそヴァルナの鎧なのだから。
そのとき、重い扉が開かれた。
深紅の外套を翻し、イシュタルが入室する。
蒼鋼の軍衣に戴冠用の肩章を付け、青い瞳は雷雲の下で光を孕んでいた。
全員が起立したが、王太子は礼の手振りさえ省き、卓の中央へ直進する。
「評議に先んじて、私の意向を示す」
低く澄んだ声が、燭台の火を揺らす。
「王妃はフェブラリー・ヴァルナである。異論は認めない」
石畳に電撃が走った。
老公爵ベルトランが杖を鳴らし、唇を震わせる。
「そ、それでは“評議会”の存在意義が――!」
「評議は形骸ではない。が、王権は最終裁可を持つ。私が宣言した時点で、新王妃は決定だ」
別の侯爵が声を張り上げる。
「伝統を蔑ろにすれば貴族連合が黙ってはおらぬ!」
イシュタルは一歩踏み込み、卓を挟んで老人を見下ろした。
「伝統とは、民と国の未来を守るためにある。己の椅子を守るために捻じ曲げるなら、それは“旧弊”と呼ぶ」
音を立てて沈黙が降りた。──その静けさの中、フェブが進み出る。
真珠のドレスから裾を払うと、柔らかな声が円卓を満たした。
「諸侯の懸念は理解します。私は辺境寄りの血筋、王都の華(か)とは呼ばれません。ですが王妃は“王と民の橋”であると学びました。私は橋脚となる覚悟を、ヴァルナの名に賭けて誓います」
老公爵が睨む。
「覚悟で血筋は覆らぬ!」
「いいや、覚悟こそ血を超える」
イシュタルは断言し、フェブの手を取った。
「彼女は私の王妃であり、アルヴィレオの灯火だ。大陸国境で育ったヴァルナが海路を切り拓き、異民族の講和を成功させた事実を忘れたか? 功徳において彼女は十分だ」
誰も返す言葉がなかった。
雷鳴が遠くで転がり、ステンドグラスに稲光が走る。
それでも王太子と王妃予定者の影は、一切揺れなかった。
* * *
会議後。
フェブは王太子の執務室に招かれ、窓際のテーブルについた。外では雨が降り始め、瓦屋根を細かく打っている。
イシュタルがカップに紅茶を注ぎ、静かに口を開いた。
「……不快な想いをさせた」
「いいえ。殿下が隣にいてくださる限り、何も怖くはありません」
「それでも、もうしばらく逆風は続く。私一人の威光で払えぬ旧弊もある」
「その時は二人で剣を振るいましょう。盾と剣……いえ、共に剣でともに盾で」
イシュタルの瞳が柔らかく笑む。
「君の言葉は炎だ。私の中に灯を増やしてくれる」
「ならばその灯で、王国の未来を照らしてください」
「共にだ。戴冠の玉座は、君を迎えるために作られる」
窓の外で雷が轟く。だが室内のランプは揺らがない。
フェブは蒼い稲光を見つめ、胸の奥で改めて決意した。
――私は王妃になる。義務としてではなく、愛と覚悟を持って。
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夜明けの前触れのようだった。
その光の下で、二人は静かに杯を合わせた。
「戴冠の日まで、あと二十八日」
「長いようで短いわね」
「いや、永遠ほど長く感じる。君を王妃と呼ぶまで、私は息すら惜しい」
「……生きていてくださらないと困ります」
「ならば深呼吸しよう。君の香りで肺を満たして」
「殿下、その冗談は後で叱ります」
微笑み合う二人の頭上、雨雲は静かに裂け、夕陽が覗いた。
それは王国に差し込んだ新しい王朝の黎明。
遠雷は去り、やがて鐘楼が夕刻の時を告げる。
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