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1 遠雷
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遠くで雷鳴が轟いている。
その日は朝から嵐で、雨が降り続いていた。よくバケツをひっくり返したようなと天気予報などで報じられるが、まさにそのような降り方だった。
夜半を過ぎてもそれは変わらず、まるで大地の穢れを洗い流さんとするかのように、雨は地上に打ち付けていた。
その嵐の中を駆け抜ける一台の馬車があった。二頭立てで、大きなワゴンを引いている。馬は泥水を跳ね上げながら、目的地である、とある屋敷の前で停車した。
屋敷は大国の植民地であった頃の都にあり、大国から解放された今では旧市街となっている。百年程植民地であったために、大国の建築物が多く、異国の雰囲気を色濃く残している。外観からしても頑丈な造りで、それなりの歴史を有しているのだろうと推測出来た。庭木は手入れが行き届いており、鑑賞するのに十分なレベルに達している。だが、一日雨に打たれた今ではしおれたように枝葉を垂れさせていた。
乗り付けた馬車から、一人の青年がワゴンのドアを開いて、滝のように降る雨の中、傘もささずに降り立った。いや、この雨では傘も用を成さないであろうが。青年は黒いレインコートに身を包み、外に出るなり、フードを目深に被った。打ち付ける雨が、撥水加工のされたレインコートを跳ねて、筋になって流れた。
「ここか…」
雨で視界のコンディションが最悪の中、青年は屋敷を見つめて呟いた。その声は、男性的でもあり、女性的でもあり、どちらとも取れる不思議な響きをしていた。
今日が嵐であることは、前もって週間予報で調べがしてあり、知っていた。決行するならこの日しかないと、ナユタは思っていた。
母が死んだのは三年前のことだった。ナユタがまだ六歳の頃だった。呪い師であった母は余命を悟っており、今日この日に世を去るからと、ナユタに教えていた。母は写真と名前だけあれば念じるだけで人を呪い殺す事が出来るという異能力を備えていた。要は呪い殺す事が出来たのだ。それだけに母を訪ねる客は後を絶たず、裏の世界では有名な能力者だった。だが、同時に悪い噂も立った。近所からは魔女、悪魔などと揶揄され、恐れられていた。悪いことに、そこへ疫病が流行った事でバタバタと人が死んでいき、住人たちはその罪を母に押しつけた。
母は縄で縛られ、まるで犬畜生のように連行されて、火刑に処された。生きたまま火あぶりにされたのだ。炎に包まれる母を、ナユタは声もなく、震えて見ていた。
せめて遺品にと母が身に付けていた逆十字のペンダントをくれないか、と住民に請うたが、それは叶わず、人手に渡ってしまったのが悔やまれた。
ひとりぼっちになってしまったナユタの身を引き取ったのは、母と懇意にしていた金持ちの男だった。だが、口も心も開かないナユタを持て余し、広大な屋敷の中に、ただ、閉じ込めた。
屋敷の中でナユタは酷い仕打ちを受けた。夫の不貞の子だと信じた妻に、執拗ないびりを受け、食事も与えられず、掃除用具入れの中で寝起きした。厨房の片隅に膝を抱えて座り、その様子をかわいそうに思った侍女にお情けで食事を恵んで貰い、日々の暮らしを繋いでいた。
ひっそりと息をしているナユタを疎ましく思ったのは妻だけでなく、年の近い息子も同じだった。両親から期待を一身に受け、それを煩わしく思っていた息子は憂さ晴らしのはけ口をナユタに定めたのだ。抵抗も反抗もしないナユタを、息子はそれはそれは手酷くいじめ、日々ストレスを発散していた。お陰でナユタの全身には生傷が絶えることがなく、玉のような肌が台無しだった。
侍女や執事の誰もが妻と息子のナユタに対する陰湿ないじめを見知っておきながら、助ける者はいなかった。主人には逆らえない、それもまた仕方のない事だったのかも知れない。
だが、黙ってやられているだけのナユタではない。澱のように二人に対する恨みを募らせ、最後の手段に打って出る事にした。
その決行日が今夜の嵐だった。
積年の恨みは晴らすべきだ。
地獄のような日々を耐え忍んだ自分にはその資格があると。
玄関ホールに置かれた振り子時計が、ボーン、ボーンと十二回鳴り響き、午前零時を迎えた事を知らせていた。そこから伸びた大階段の踊り場で、ナユタと男の妻は対峙していた。
雨が窓を打ち付け、際限なく涙の後を残していく。風も酷い。木がしなるように揺れている。稲妻が走り、時折世界を白く染める。何度か稲光がしたが、そのうち、落雷があってどうやら停電を起こしたようだった。
僅かばかり光っていた照明が落ち、辺りは暗闇に包まれる。
「な、なにを…?」
深夜に呼び出しを食らって、訝る女に向かい、ナユタは背後に隠していたペティナイフを構えた。厨房から失敬したものだった。
稲光が、カッとホールを照らした。
世界は白黒だった。
「死んでくれる? おばさん」
凜とした澄んだ声がぽつんとホールに響いた。
「僕は自由になりたいんだよ」
ナユタは構えていたペティナイフの刃を、寝る準備をしていた無防備な女の腹に、思い切って突き刺した。肉を抉る感触が、刃から伝わってくる。
「ぎゃあ!」
女は恐怖と苦痛にまみれた声を上げた。自分の腹部をまじまじと見つめる。
まだ、致命傷には足らなかっただろうか。ナユタは機械的な動作でペティナイフを引き抜くと、二度、三度と更に女の腹や胸を突き刺した。
女は声も出せず、その場をふらついた。ナユタは彼女の腹を蹴って、大階段へと落とした。ゴロゴロと女は無様に階段を転げ落ち、階段下で仰向けになって動かなくなった。
今度こそ仕留めたかな、と階段を見下ろした時、奥の廊下から、
「うわああ!」
トイレにでも立ったのだろうか、女の息子が一部始終を目撃して、驚きの声を上げていた。ナユタはそちらを振り返った。
「ねぇ。今、君のお母さんを殺したよ。僕が憎い? 疎ましい? 殺してみる?」
ナユタは薄ら笑いを浮かべて、息子に向かってペティナイフの柄を差し出した。
息子は恐怖の余り、正常な思考を失い、その場に尻餅をついて、失禁していた。ぶるぶると顔を横に振っている様は、壊れた人形のようだった。
「せいぜい僕を憎むがいいよ。そして、いつか殺しにおいで」
ナユタはペティナイフをその場の床に突き立てると、階段をゆっくりと降りた。
これまでのいびられ続け、苦汁に満ちた日々が一段降りる毎に昇華されていくようだ。
軽やかな足取りで階段を降りたナユタは、今や血だまりの海の上に浮かぶ女を見て、悪魔のような笑顔を浮かべた。
「へぇ…まだ、息があるんだ。しぶといね」
女はぱくぱくと餌を求める金魚のように唇を動かして、必死で呼吸をしていた。この出血だ。放っておいても絶命するのは時間の問題だろう。
女が命の灯火を消そうとしているのを、間近で観察していたナユタの背後で、不意に扉が開いて、雨風が吹き込んできた。
戸口に誰かが立っている。ナユタは後ろを振り返った。強風があちこちほころびた服を煽り、雨粒が目に入る。ナユタは瞬きをした。暗いので、誰がこちらを見下ろしているのかは不明瞭だった。
「一緒に、来い」
レインコートのフードを目深に被ったその人物は、声からして年若い青年であることが分かった。だが、性別までは知れなかった。男女のどちらか判別がつかない声をしていたのだ。
どうせこのままここにいても、どうしようもない。行く当てもない。ので、ナユタは見知らぬ青年が差し出した手に、手を伸ばした。
青年はぐっとナユタの腕を引いて、座り込んでいたナユタを起き上がらせた。
「その女性は死んでいるのか」
「ううん。まだ、かろうじて息があるよ」
「そうか」
青年は女に頓着もせず、ナユタの罪を追及するでもなく、手を引いてナユタを嵐の中へと連れ出した。
外は思ったより酷い嵐だった。ナユタは青年に腕を引かれ、雨風にもみくちゃにされながら馬車までの道を歩かなければならなかった。
馬車のワゴンに乗り込む頃には、全身濡れ鼠になっており、前髪から雫がしたたり落ちていた。ワゴンの中は一転、ランプの明かりが揺れる、平穏な空間だった。青年はレインコートを脱ぎ去り、タオルをナユタに手渡した。
「これで、水気と血を拭うといい」
ランプの明かりは、ナユタの罪の証である返り血が、顔や衣服に飛び散っているのを明るみに出していた。顔を拭うと、水で滲んだ血液がタオルに移った。
ワゴンが一瞬大きく揺れて、馬車が発進したようだった。
ナユタは改めて、目の前に座る青年の容貌を観察した。年の頃は十七、八歳。やや紫がかった濃い青色の髪を肩口まで無造作に伸ばし、長いまつげに縁取られた双眸はくすんだ紫がかった蘇芳色をしており、その上には柳の眉が乗っている。なだらかな線を描く鼻梁に、紅を差したような赤く薄い唇と、細い顎。なかなかの美青年である。
「僕は殺人犯だよ。怖くないの?」
ナユタの赤裸々な告白にも、青年は動じない。
「私も過去に人を殺めた経験がある。責めるつもりはない」
ナユタは真鴨色のくせっ毛を、わしゃわしゃとタオルでかきむしるようにして拭った。
「ヘテロクロミアだと聞いてはいたが、実際に目にしてみると、珍しいものだな」
ナユタの目は左右で色が違う。左は氷河の深い割れ目に見えるような澄み切った青緑、薄浅葱色であり、右ははかなげな薄い空色、忘れな草色をしていた。年の割にはっきりとした自己主張のある整った顔立ちをしていて、蝶になる前のさなぎではあるが、将来は有望だろうと思われた。
それにしてもこの青年、まるでナユタを知っている風に言う。ナユタは警戒してまじまじと不躾な視線を投げつけた。
その視線に気付いたのか、青年は右の髪を耳にひっかけてから、名乗った。
「私は、ユリアン・ユリシーズ。ユーリと呼べ。おまえは?」
「僕は、ナユタ。ただのナユタ」
「ナユタか」
「僕のこと知ってるの?」
「ああ、よく知ってる。生い立ちを含めて、その出自にまつわる秘密まで」
「出自の秘密?」
「それについては、落ち着いてから話そう」
ユーリは腕を組んで顔を伏せ、それっきり口を開かなくなった。
こんな真夜中だし、眠いのかも知れない。大人なのにおかしいな、とナユタは思った。
窓の外は依然として雨脚が強い。まるで大地の上で見えない竜が暴れているようだった。竜の咆哮は雷鳴と化し、そのブレスは雨風と化す。
馬車は旧市街地を離れ、新市街地の高級住宅地のあるエリアへと入って行った。そして、一軒の屋敷の玄関前に乗り付けた。ユーリとナユタは馬車を降り、足早に玄関をくぐった。
「誰か!」
玄関ホールで立ち止まったユーリが、奥に向かって叫ぶと、すぐに初老の侍女が飛んできた。こんな夜更けでも応答する侍女がいるのかと、ナユタは驚いた。前もって出かけることを知らせておいたのかも知れない。
「お帰りなさいませ。ユリアンさま」
「ああ。この子を風呂に入れて、例の部屋で寝かせてやってくれ」
と、ユーリはナユタの背を押した。
ナユタは侍女に預けられ、ユーリは去った。
「さて、おぼっちゃん。バスルームへ行きましょうか」
侍女は笑うと、ナユタを促して歩き出した。ナユタはその後を追う。
これから風呂に入れるのだという。ちゃんとした風呂を浴びるのは、久方振りだ。体臭が匂うというレベルまでは達していないだろうが、近々で身体を洗ったのはいつだったろうか。
くんかくんかと、腕や身体の匂いを嗅いでみたが、雨に流されてしまってよく分からなかった。微かに鉄の匂いがしただけだった。
バスルームへ着くと、脱衣所で侍女が駕篭を持って、ナユタに話しかけた。
「脱いだ服はここに入れて下さいまし。随分、くたびれているようなので、処分させて頂きますが、よろしいかしら」
ナユタは黙って頷くと、濡れて重くなった衣服を脱ぎ始めた。脱いだものから駕篭に入れていく。
「新しいお召し物はこちらで準備いたしますのでね」
ナユタはまた、黙って頷いた。
「一人で湯浴みは出来るかしら…?」
「背中とか、上手く洗えないかも知れない」
手が届かないから、とナユタが子供らしい頼りなさを示すと、侍女は笑って、
「では、お背中を流すのをお手伝いいたしましょう」
と答えた。
風呂場に入って、公衆浴場のように広い規模に一驚し、侍女に背中を流してもらった後は、全身を自分で洗った。髪の毛はよほど汚れていたのか、シャンプーのポンプ、ワンプッシュでは足りずに、二度、三度と足して、ようやっと泡が立った。泡ごと汚れをシャワーで流して、ついでにトリートメントというものも試しに髪に塗ってみた。容器の表示にあるように三分数えてから流すと、何やらくせっ毛が大人しくなったような気がした。
身体の洗浄が終われば、広い湯船に張られた湯に浸かって、至福の時を過ごす。肩まで浸かっても、バタ足をしても自由だ。怒られない。ゆっくり長風呂を楽しんでから、ナユタは浴室を出た。脱衣所の駕篭には、子供用の寝間着が畳んで置いてあった。それを着終わった時、見計らったかのように、さっきの侍女が再び現れた。
「お部屋はこちらですよ」
侍女に案内されて広い屋敷の中を歩き、通されたのは、随分とファンシーな部屋だった。星空と帚星が走った壁紙や、山と積まれたぬいぐるみの数々。積み木や、敷かれたレールの上を走る列車の玩具まである。まるで託児所だ。対して、部屋の中央に鎮座する天蓋付きのベッドは大人向けのキングサイズで、ナユタが一人で寝るには広すぎた。
一人では心許ないので、ぬいぐるみの中から幾つかピックアップして、ベッドの両脇に置いて一緒に眠ることにした。
「では、お休みなさいませ。明日の朝、また起こしに参りますのでね」
侍女はナユタに掛け布団を被せながらそう言い、最後に明かりを落としてから部屋を出て行った。
ナユタは目を閉じると、すぐに深い眠りに落ちた。
これまでの悪夢が嵐と一緒にどこか遠くへ去って行くような気がした。
その日は朝から嵐で、雨が降り続いていた。よくバケツをひっくり返したようなと天気予報などで報じられるが、まさにそのような降り方だった。
夜半を過ぎてもそれは変わらず、まるで大地の穢れを洗い流さんとするかのように、雨は地上に打ち付けていた。
その嵐の中を駆け抜ける一台の馬車があった。二頭立てで、大きなワゴンを引いている。馬は泥水を跳ね上げながら、目的地である、とある屋敷の前で停車した。
屋敷は大国の植民地であった頃の都にあり、大国から解放された今では旧市街となっている。百年程植民地であったために、大国の建築物が多く、異国の雰囲気を色濃く残している。外観からしても頑丈な造りで、それなりの歴史を有しているのだろうと推測出来た。庭木は手入れが行き届いており、鑑賞するのに十分なレベルに達している。だが、一日雨に打たれた今ではしおれたように枝葉を垂れさせていた。
乗り付けた馬車から、一人の青年がワゴンのドアを開いて、滝のように降る雨の中、傘もささずに降り立った。いや、この雨では傘も用を成さないであろうが。青年は黒いレインコートに身を包み、外に出るなり、フードを目深に被った。打ち付ける雨が、撥水加工のされたレインコートを跳ねて、筋になって流れた。
「ここか…」
雨で視界のコンディションが最悪の中、青年は屋敷を見つめて呟いた。その声は、男性的でもあり、女性的でもあり、どちらとも取れる不思議な響きをしていた。
今日が嵐であることは、前もって週間予報で調べがしてあり、知っていた。決行するならこの日しかないと、ナユタは思っていた。
母が死んだのは三年前のことだった。ナユタがまだ六歳の頃だった。呪い師であった母は余命を悟っており、今日この日に世を去るからと、ナユタに教えていた。母は写真と名前だけあれば念じるだけで人を呪い殺す事が出来るという異能力を備えていた。要は呪い殺す事が出来たのだ。それだけに母を訪ねる客は後を絶たず、裏の世界では有名な能力者だった。だが、同時に悪い噂も立った。近所からは魔女、悪魔などと揶揄され、恐れられていた。悪いことに、そこへ疫病が流行った事でバタバタと人が死んでいき、住人たちはその罪を母に押しつけた。
母は縄で縛られ、まるで犬畜生のように連行されて、火刑に処された。生きたまま火あぶりにされたのだ。炎に包まれる母を、ナユタは声もなく、震えて見ていた。
せめて遺品にと母が身に付けていた逆十字のペンダントをくれないか、と住民に請うたが、それは叶わず、人手に渡ってしまったのが悔やまれた。
ひとりぼっちになってしまったナユタの身を引き取ったのは、母と懇意にしていた金持ちの男だった。だが、口も心も開かないナユタを持て余し、広大な屋敷の中に、ただ、閉じ込めた。
屋敷の中でナユタは酷い仕打ちを受けた。夫の不貞の子だと信じた妻に、執拗ないびりを受け、食事も与えられず、掃除用具入れの中で寝起きした。厨房の片隅に膝を抱えて座り、その様子をかわいそうに思った侍女にお情けで食事を恵んで貰い、日々の暮らしを繋いでいた。
ひっそりと息をしているナユタを疎ましく思ったのは妻だけでなく、年の近い息子も同じだった。両親から期待を一身に受け、それを煩わしく思っていた息子は憂さ晴らしのはけ口をナユタに定めたのだ。抵抗も反抗もしないナユタを、息子はそれはそれは手酷くいじめ、日々ストレスを発散していた。お陰でナユタの全身には生傷が絶えることがなく、玉のような肌が台無しだった。
侍女や執事の誰もが妻と息子のナユタに対する陰湿ないじめを見知っておきながら、助ける者はいなかった。主人には逆らえない、それもまた仕方のない事だったのかも知れない。
だが、黙ってやられているだけのナユタではない。澱のように二人に対する恨みを募らせ、最後の手段に打って出る事にした。
その決行日が今夜の嵐だった。
積年の恨みは晴らすべきだ。
地獄のような日々を耐え忍んだ自分にはその資格があると。
玄関ホールに置かれた振り子時計が、ボーン、ボーンと十二回鳴り響き、午前零時を迎えた事を知らせていた。そこから伸びた大階段の踊り場で、ナユタと男の妻は対峙していた。
雨が窓を打ち付け、際限なく涙の後を残していく。風も酷い。木がしなるように揺れている。稲妻が走り、時折世界を白く染める。何度か稲光がしたが、そのうち、落雷があってどうやら停電を起こしたようだった。
僅かばかり光っていた照明が落ち、辺りは暗闇に包まれる。
「な、なにを…?」
深夜に呼び出しを食らって、訝る女に向かい、ナユタは背後に隠していたペティナイフを構えた。厨房から失敬したものだった。
稲光が、カッとホールを照らした。
世界は白黒だった。
「死んでくれる? おばさん」
凜とした澄んだ声がぽつんとホールに響いた。
「僕は自由になりたいんだよ」
ナユタは構えていたペティナイフの刃を、寝る準備をしていた無防備な女の腹に、思い切って突き刺した。肉を抉る感触が、刃から伝わってくる。
「ぎゃあ!」
女は恐怖と苦痛にまみれた声を上げた。自分の腹部をまじまじと見つめる。
まだ、致命傷には足らなかっただろうか。ナユタは機械的な動作でペティナイフを引き抜くと、二度、三度と更に女の腹や胸を突き刺した。
女は声も出せず、その場をふらついた。ナユタは彼女の腹を蹴って、大階段へと落とした。ゴロゴロと女は無様に階段を転げ落ち、階段下で仰向けになって動かなくなった。
今度こそ仕留めたかな、と階段を見下ろした時、奥の廊下から、
「うわああ!」
トイレにでも立ったのだろうか、女の息子が一部始終を目撃して、驚きの声を上げていた。ナユタはそちらを振り返った。
「ねぇ。今、君のお母さんを殺したよ。僕が憎い? 疎ましい? 殺してみる?」
ナユタは薄ら笑いを浮かべて、息子に向かってペティナイフの柄を差し出した。
息子は恐怖の余り、正常な思考を失い、その場に尻餅をついて、失禁していた。ぶるぶると顔を横に振っている様は、壊れた人形のようだった。
「せいぜい僕を憎むがいいよ。そして、いつか殺しにおいで」
ナユタはペティナイフをその場の床に突き立てると、階段をゆっくりと降りた。
これまでのいびられ続け、苦汁に満ちた日々が一段降りる毎に昇華されていくようだ。
軽やかな足取りで階段を降りたナユタは、今や血だまりの海の上に浮かぶ女を見て、悪魔のような笑顔を浮かべた。
「へぇ…まだ、息があるんだ。しぶといね」
女はぱくぱくと餌を求める金魚のように唇を動かして、必死で呼吸をしていた。この出血だ。放っておいても絶命するのは時間の問題だろう。
女が命の灯火を消そうとしているのを、間近で観察していたナユタの背後で、不意に扉が開いて、雨風が吹き込んできた。
戸口に誰かが立っている。ナユタは後ろを振り返った。強風があちこちほころびた服を煽り、雨粒が目に入る。ナユタは瞬きをした。暗いので、誰がこちらを見下ろしているのかは不明瞭だった。
「一緒に、来い」
レインコートのフードを目深に被ったその人物は、声からして年若い青年であることが分かった。だが、性別までは知れなかった。男女のどちらか判別がつかない声をしていたのだ。
どうせこのままここにいても、どうしようもない。行く当てもない。ので、ナユタは見知らぬ青年が差し出した手に、手を伸ばした。
青年はぐっとナユタの腕を引いて、座り込んでいたナユタを起き上がらせた。
「その女性は死んでいるのか」
「ううん。まだ、かろうじて息があるよ」
「そうか」
青年は女に頓着もせず、ナユタの罪を追及するでもなく、手を引いてナユタを嵐の中へと連れ出した。
外は思ったより酷い嵐だった。ナユタは青年に腕を引かれ、雨風にもみくちゃにされながら馬車までの道を歩かなければならなかった。
馬車のワゴンに乗り込む頃には、全身濡れ鼠になっており、前髪から雫がしたたり落ちていた。ワゴンの中は一転、ランプの明かりが揺れる、平穏な空間だった。青年はレインコートを脱ぎ去り、タオルをナユタに手渡した。
「これで、水気と血を拭うといい」
ランプの明かりは、ナユタの罪の証である返り血が、顔や衣服に飛び散っているのを明るみに出していた。顔を拭うと、水で滲んだ血液がタオルに移った。
ワゴンが一瞬大きく揺れて、馬車が発進したようだった。
ナユタは改めて、目の前に座る青年の容貌を観察した。年の頃は十七、八歳。やや紫がかった濃い青色の髪を肩口まで無造作に伸ばし、長いまつげに縁取られた双眸はくすんだ紫がかった蘇芳色をしており、その上には柳の眉が乗っている。なだらかな線を描く鼻梁に、紅を差したような赤く薄い唇と、細い顎。なかなかの美青年である。
「僕は殺人犯だよ。怖くないの?」
ナユタの赤裸々な告白にも、青年は動じない。
「私も過去に人を殺めた経験がある。責めるつもりはない」
ナユタは真鴨色のくせっ毛を、わしゃわしゃとタオルでかきむしるようにして拭った。
「ヘテロクロミアだと聞いてはいたが、実際に目にしてみると、珍しいものだな」
ナユタの目は左右で色が違う。左は氷河の深い割れ目に見えるような澄み切った青緑、薄浅葱色であり、右ははかなげな薄い空色、忘れな草色をしていた。年の割にはっきりとした自己主張のある整った顔立ちをしていて、蝶になる前のさなぎではあるが、将来は有望だろうと思われた。
それにしてもこの青年、まるでナユタを知っている風に言う。ナユタは警戒してまじまじと不躾な視線を投げつけた。
その視線に気付いたのか、青年は右の髪を耳にひっかけてから、名乗った。
「私は、ユリアン・ユリシーズ。ユーリと呼べ。おまえは?」
「僕は、ナユタ。ただのナユタ」
「ナユタか」
「僕のこと知ってるの?」
「ああ、よく知ってる。生い立ちを含めて、その出自にまつわる秘密まで」
「出自の秘密?」
「それについては、落ち着いてから話そう」
ユーリは腕を組んで顔を伏せ、それっきり口を開かなくなった。
こんな真夜中だし、眠いのかも知れない。大人なのにおかしいな、とナユタは思った。
窓の外は依然として雨脚が強い。まるで大地の上で見えない竜が暴れているようだった。竜の咆哮は雷鳴と化し、そのブレスは雨風と化す。
馬車は旧市街地を離れ、新市街地の高級住宅地のあるエリアへと入って行った。そして、一軒の屋敷の玄関前に乗り付けた。ユーリとナユタは馬車を降り、足早に玄関をくぐった。
「誰か!」
玄関ホールで立ち止まったユーリが、奥に向かって叫ぶと、すぐに初老の侍女が飛んできた。こんな夜更けでも応答する侍女がいるのかと、ナユタは驚いた。前もって出かけることを知らせておいたのかも知れない。
「お帰りなさいませ。ユリアンさま」
「ああ。この子を風呂に入れて、例の部屋で寝かせてやってくれ」
と、ユーリはナユタの背を押した。
ナユタは侍女に預けられ、ユーリは去った。
「さて、おぼっちゃん。バスルームへ行きましょうか」
侍女は笑うと、ナユタを促して歩き出した。ナユタはその後を追う。
これから風呂に入れるのだという。ちゃんとした風呂を浴びるのは、久方振りだ。体臭が匂うというレベルまでは達していないだろうが、近々で身体を洗ったのはいつだったろうか。
くんかくんかと、腕や身体の匂いを嗅いでみたが、雨に流されてしまってよく分からなかった。微かに鉄の匂いがしただけだった。
バスルームへ着くと、脱衣所で侍女が駕篭を持って、ナユタに話しかけた。
「脱いだ服はここに入れて下さいまし。随分、くたびれているようなので、処分させて頂きますが、よろしいかしら」
ナユタは黙って頷くと、濡れて重くなった衣服を脱ぎ始めた。脱いだものから駕篭に入れていく。
「新しいお召し物はこちらで準備いたしますのでね」
ナユタはまた、黙って頷いた。
「一人で湯浴みは出来るかしら…?」
「背中とか、上手く洗えないかも知れない」
手が届かないから、とナユタが子供らしい頼りなさを示すと、侍女は笑って、
「では、お背中を流すのをお手伝いいたしましょう」
と答えた。
風呂場に入って、公衆浴場のように広い規模に一驚し、侍女に背中を流してもらった後は、全身を自分で洗った。髪の毛はよほど汚れていたのか、シャンプーのポンプ、ワンプッシュでは足りずに、二度、三度と足して、ようやっと泡が立った。泡ごと汚れをシャワーで流して、ついでにトリートメントというものも試しに髪に塗ってみた。容器の表示にあるように三分数えてから流すと、何やらくせっ毛が大人しくなったような気がした。
身体の洗浄が終われば、広い湯船に張られた湯に浸かって、至福の時を過ごす。肩まで浸かっても、バタ足をしても自由だ。怒られない。ゆっくり長風呂を楽しんでから、ナユタは浴室を出た。脱衣所の駕篭には、子供用の寝間着が畳んで置いてあった。それを着終わった時、見計らったかのように、さっきの侍女が再び現れた。
「お部屋はこちらですよ」
侍女に案内されて広い屋敷の中を歩き、通されたのは、随分とファンシーな部屋だった。星空と帚星が走った壁紙や、山と積まれたぬいぐるみの数々。積み木や、敷かれたレールの上を走る列車の玩具まである。まるで託児所だ。対して、部屋の中央に鎮座する天蓋付きのベッドは大人向けのキングサイズで、ナユタが一人で寝るには広すぎた。
一人では心許ないので、ぬいぐるみの中から幾つかピックアップして、ベッドの両脇に置いて一緒に眠ることにした。
「では、お休みなさいませ。明日の朝、また起こしに参りますのでね」
侍女はナユタに掛け布団を被せながらそう言い、最後に明かりを落としてから部屋を出て行った。
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これは王女の身分を失った最強天才魔女ローゼが、復讐の誓いを胸に仲間たちとの絆を育みながら、王国の闇や自らの運命に立ち向かう物語。友情、復讐、恋愛、魔法、剣戟、謀略が織りなす、ダークファンタジー英雄譚が、今、幕を開ける。
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