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第51羽

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 空が朝家を出ると、眠そうな顔をした勇が欠伸をして立っていた。 
 自分のクラスでは起きていても寝ている、そんな噂が立つ程の彼が、早起きをしてまで迎えに来た事に呆れた空は、

「別に、迎えに来なくても……」

 勇には見せる照れ臭そうな顔で呟き、

「もう高校生だぞ」

 子供じゃないんだ、そう同じ子供時代を共にした勇に口を尖らせるが、相手はその頃から変わらず聞いているのかいないのか、そういう奴だ。

「おはよ」

 その前に何か言う事はないのか、などと考えるのは遠い昔に諦めた空は、

「おはよう」

 朝の挨拶を交わし、身長差の開いた親友と、いつまでも開かない距離で登校して行く。



 ◆



 勇と別れ、其々の教室に向かう。

 いつも通り、隣の席には真尋が既に座っていて、空が席に荷物を置くと、

「おはよう空くん」
「おはよう、真尋ちゃん」

 お互いの日課とも言える挨拶が交わされる。
 暫くして常盤、愛里、海弥が教室に入って来て、いつものように挨拶を交わしていった。 

 と言っても、海弥はいつも前のドアから入る筈なのだが、何故か今日は後ろから入り、空に「おはよう」と言ってから自分の席に向かうという、普段の朝とは少し違う展開。

 普段と違うといえば、愛里もそうだ。 
 いつもなら空にもっと絡んでくる彼女が、今日は大人しく自分の席に座っている。 
 隣の席の真尋は勿論いつもと変わる事なく座っているが、普段より口数が少ない。

 特におかしいという事はないが、ではない。

 それは各々が、


 ――――『今日』を理解しているから。


 数日前から自然と入ってくる情報。 なにより、自分にも関係する事柄だからだ。

 当日である今日、街にはカーネーションや広告が溢れ、その日を当たり前に実感させる。



 今日は五月十二日―――『母の日』。



 特に、真尋と愛里はお互い言い合わなくても感じた筈だ。 

 空の部屋で勇から言われた―――『空がおかしくなる時期』。

 その言葉の意味が『今日』なのでは、と考えるのは自然な事なのかも知れない。






 そして時間は進み、


 ―――三時限目が終わった休み時間。


(今日もそれなりに会話はしたけど、やっぱりちょっと様子がおかしいような……いや、私が気にしてるからおかしく感じるだけなのかも………――よしっ!)

 自席で考えを巡らせる愛里が意を決して立ち上がろうとした時、空いていた隣の席に座って自分を見つめる視線に気がつく。


「……空くん……」


 今話しに行こうとしていた空と目が合い、呆然と名前を呟く愛里。 その後、見つめられたまま何も言わない空に不安を感じた愛里は、

「ど、どうしたの?」

 いつもは自分からモーションをかける愛里だったが、空から来られると怯んでしまう。 それも、今日は気になる事があるから尚更だ。

 見つめてくる空の瞳は、正直何を伝えようとしているのかわからなかった。 
 だから愛里は空の言葉を待ち、その瞳に見つめられるままになっている。

 そして―――


「また、ご飯作りに来てくれる?」


 空が単身自分の席まで来るなんて、今まであっただろうか。 それも、言われた台詞は想像もしていなかった言葉だった。


「………うん」


 普段なら大喜びするところだが、この時愛里が感じたのは、一つ間違えれば火にも氷にもなりそうな、そんな危うげな感覚。

 それは、真逆にも感じるが、どちらも扱いを間違えれば “火傷” をする、危険な感情だ。


「よかった」


 そう言い残して空は席を立ち、一人残った愛里は、大好きな彼がいなくなったのに胸を撫で下ろすという、矛盾した自分に戸惑う。


 それを遠くから見つめる真尋は、胸を襲う二つの痛みに耐えながら、隣に戻った空の横顔を見つめた。





 ―――午後になり、最後の休み時間。


 最後の授業に向け、皆短い休息に伸びをしている時、海弥は目つきが悪いと自覚するその目を弱々しくして、緊張の面持ちで座っている。

 目の前には、向かい合うように座り自分を見つめる、普段なら強気で話せる筈の相手、



 ――――空が居る。



「……なんだよ……」


 らしくない、弱い語気で話す海弥。

 なんとなく空を心配し朝顔を見に行った海弥だったが、まさかこんな事になるとは思わなかった。
 目の前の空は、自分が知っている空とは違う、それはすぐにわかった。 だからといって嫌な訳ではない。 海弥にとって空は妹の大事な友達であり、今や自分にとっても特別な存在になっている。 

 忌み嫌う父と同じ男性だ。 
 そう過去が想いを消し去ろうとしても、空の事を考えている時間は日々積み重なっていった。
 その上、真尋や愛里達より一緒にいる時間が短い海弥には、傍に居られる時がより濃密に感じるのだろう。

 それは、何より大事な家族でさえも邪魔されたくない程に。 海来留に引き合わせられた関係で、勿論海来留の為にやっている事なのは理解しているのに。

 その事に罪悪感すら感じている自分が、空の方から今こうして会いに来てくれたというのに、喜ぶどころか畏怖にも似た感情を持ってしまっている。


「海弥」


 そう名前を呼ばれても、返事すら出来なかった。
 空は長めの間を取って、次の言葉を紡いでいく。


「笑って」

「え……」


 ―――わかっている。

 自分は彼の母親に似ているのだという事は。 海弥自身は見た事がないが、勇にも、真尋達にもそう言われていた。 そして、空の母親がよく笑う人だったのも。

 現に一度、自宅マンションの下で空に笑った時、突然抱きしめられた事がある。

 きっと、母を思い出したのだろう。 

 その空が、今自分に―――「笑って」。 そう言ってきている。 

 元々笑うのは得意ではない。 仮に笑って、もしこの教室で、クラスメイト達の見ている前で抱きしめられたら、自分はどうすればいいのだろうか。

 だが、海弥はそんな事よりも単純に、


 ――――笑えない。


  “知っている” いつもの空なら或いは。
 でも、違う。 今目の前に居るのは、自分の知らない空だ。 勿論人は色んな顔を持っている、海弥だってわかっている筈だ。 

 海弥が感じたのは、笑って欲しい、そう言われたのは自分。 でもそれは、


 ――――


 だから海弥は、


「………無理」


 空から視線を逸らし、下を向いて小さく零した。


「どうして? 笑って?」


 空の言葉が追いかけて来る。
 別に、ただ笑うだけ。 年に一度のこの日ぐらい、聞いてあげてもいい “お願い” 。

 しかし海弥は、


「空……―――ごめんね……」


 に、少しでも自分の知っている空が居れば、甘えてくれてもいい。


 海弥は―――― “感じなかった” 。


 目の前の空は、間違いなく自分が想いを寄せる彼だ。 なのに、それを感じない空に甘えさせてあげられない。 

 もっと彼を知っていれば感じられたのかも知れない。 
 でも、今の自分ではそれは出来なかった。 


 だから、海弥は謝る事を選んだ。


 俯く海弥を見つめ続ける空。
 海弥にとって辛い沈黙の時間が過ぎる中、空のブレザーの裾を引く人影が後ろに現れる。


「休み時間、終わるよ」


 声を掛けて来たのは真尋。
 空は海弥から目を逸らさず、恐らくは相応の決心でここに来た真尋を見てはくれなかった。


「席に戻ろう」


 返事をもらえない真尋は、それでも空に声を掛ける。

 そして、


「お願い」


 ――― “帰ってきて” 。


 そう懇願するような声にやっと振り返った空は、優しく悲しむ真尋の瞳を見て、


「うん」


 立ち上がり、隣同士の席に戻っていく。


 真尋は愛里にも、海弥にも嫉妬のような感情は湧かなかった。


 ただ――――寂しい。


 なにも “無い” 自分が。 



 それでも、真尋は堪える。 真尋は、真尋は知ってしまったから。



 今日が空にとって『母の日』ではなく、



 ――――『母を失った日』、だということを――――


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