落ちこぼれ剣客と神算の事務屋。三国志の英雄たちが「ドン引き」した、たった一夜の復讐譚 徐庶と向朗の完全犯罪

こくせんや

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第3話 水鏡塾の異端児たち5/6

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6.夜の自習室

月が中天にかかる頃。水鏡塾の寄宿舎の一室、向朗たちの部屋には、まだ灯りがともっていた。狭い部屋には、竹簡の山と、男四人のむさ苦しい熱気が充満している。

「……あー、くそっ!なんで『人』って字は二画なのに、『道』って字はこんなに複雑なんだ!歩くなら真っ直ぐ歩きゃいいじゃねえか!」

徐福が筆を投げ出し、頭を抱えて叫んだ。机の上には、ミミズがのたうち回ったような文字が書かれた木札が散乱している。向朗による「補習」の時間である。

「文句を言わない。文字は世界の理(ことわり)を写し取る絵だ。『道』が複雑なのは、人が歩むべき道が平坦ではないからだよ」
向朗は淡々と諭しながら、新しい木札を差し出した。
「ほら、次は『義』だ。あと百回書いて」「鬼か、お前は……」

「義を見て為さざるは……向朗、えと、なんだった。?」

「だーかーら!『論語』の暗記なんて後回しでいいって言ってるだろ!」
向朗が竹簡を放り投げた。

「君の目的は『勝つための知恵』だろう?なら、まずはこっちだ」
向朗が広げたのは、兵法書『孫子』だった。

「いいかい、徐福。文字を覚えるんじゃない。意味を覚えろ」
向朗は筆を取り、木簡にさらさらと文字を書いた。
『兵とは詭道なり』
「……なんて読むんだ?」
「へいとは、きどうなり。……意味はわかるか?」
「……戦いは、綺麗事じゃねえってことか?」
「半分正解。戦いとは『騙し合い』だということだ。敵を欺き、予期せぬところを突き、最小の犠牲で最大の戦果を上げる。それが兵法だ」

向朗は徐福の目を見て言った。
「君が喧嘩で勝った時のことを思い出せ。自分よりデカい相手を倒す時、どうした?」
「……砂をかけて目を潰した。あと、路地裏に誘い込んで、動きを封じた」
「それが『詭道』であり、『地利』だ。君はすでに、実戦で兵法を使っているんだよ」

目から鱗が落ちるようだった。
向朗の解説は、実用的で分かりやすかった。徐福の脳内で、過去の路地裏での喧嘩の記憶と、兵法書の難解な文字が結びついていく。

兵法書を読んでいた石韜が、くつくつと笑った。
「まあ、そう虐めてやるな、向朗。徐福くんの頭は、まだ墨よりも血の巡りの方がいいらしい」

石韜は手元の竹簡――『孫子』の兵法書を指先で叩いた。

「徐福くん。文字を覚えるのが辛いなら、少し趣向を変えようか。……君は喧嘩が得意なんだろう?」

「ああ?まあな。この辺のゴロツキで俺に勝てる奴はいねえよ」
「では、喧嘩の極意とは何だと思う?」
徐福は少し考え、拳を握った。

「そんなもん、相手がビビってる間に殴る。相手が息を吸った瞬間に蹴る。……あとは気合だ」

単純すぎる答えに、石韜はニヤリとした。
「なるほど。……孫子曰く、『兵は詭道(きどう)なり』。『その無備を攻め、その不意に出ず』」
「あ?」
「つまり、戦争とは騙し合いだということさ。敵が『来ないだろう』と油断している場所を攻め、敵が思いもよらない時に動く。……君の言う『ビビってる間に殴る』というのは、兵法の理にかなっている」

石韜はさらに続けた。
「例えば、わざと弱ったふりをして敵を誘い出し、伏兵で囲む。あるいは、東に逃げると見せかけて西を攻める。これを『声東撃西(せいとうげきせい)』と言うんだが……」

徐福の目が、パチリと瞬いた。文字の話の時は死んだ魚のような目をしていたが、今の瞳には生気が宿っている。
「なんだ、そりゃあ俺がよくやる手じゃねえか」
「ほう?」
「相手の股間をジロジロ見てな、『おっ、隙あり』って顔をするんだ。そうすりゃ相手は慌てて股を閉じる。意識が下にいくから、その瞬間にガラ空きになった顔面に頭突きをぶち込む。……それと同じことだろ?」

石韜は目を丸くし、それから吹き出した。
「ぶっ……ハハハ!股間と頭突きか!随分と下品な『声東撃西』だが……本質は完全に捉えている。驚いたな」

石韜は感心したように唸った。
高尚な兵法用語を、一瞬で路地裏の喧嘩術に翻訳して理解したのだ。

すると今度は、横で歴史書を整理していた孟建が、面白そうに顔を出した。
「なら、これはどうだい?『左伝』にある曹劌(そうけい)という人物の言葉だ」

孟建は、芝居がかった口調で朗誦した。「『一鼓(いっこ)して気を作(ふる)い、再すれば衰え、三すれば渇(つ)く』……。これは、敵軍が攻めてきた時、太鼓を鳴らして攻めかかってきても、一度目は迎え撃たずにじっと耐えろ、という教えだ。二度、三度と太鼓が鳴る頃には、敵の士気は下がっている。そこを叩けとな」

孟建は徐福を見て、試すように微笑んだ。
「意味が分かるかい?臆病風に吹かれて逃げろという意味じゃないよ」

徐福は鼻を鳴らし、筆をクルクルと回した。

「当たり前だろ。……あれだ。イキがってる奴ほど、最初に大声で吠える」
「ほう」
「『殺すぞオラァ!』って喚いてるうちは、手を出さねえでニヤニヤ見てりゃいいんだ。そのうち喚くのに疲れて、肩で息をし始める。……そこを土手っ腹に一発入れれば、一撃で沈む。最初に喚く奴ほど、スタミナ配分を考えてねえからな」

孟建は、ポカンと口を開けた。自分の説明した古典の教えが、あまりにも的確な「喧嘩の極意」に変換されて返ってきたからだ。

その様子を見て、石韜がますます面白そうに身を乗り出した。
「面白い。……じゃあ徐福くん、次は『呉子(ごし)』だ。分かるかい?」

石韜は手元の竹簡を持ち替え、厳かに読み上げた。
「『兵戦の場は立屍(りっし)の地なり』。……戦場というのは、一歩間違えば死体が棒立ちになっているような死地だという意味だ」
石韜は徐福の目を見て続けた。
「『死を必すれば則(すなわ)ち生き、生を幸(ねが)わば則ち死す』。……死ぬ気で戦えば逆に生き残れるが、まぐれで助かろうとすれば死ぬ。なぜだと思う?」

徐福は眉をひそめ、天井を仰いで少し考えた。そして、自分の古傷が残る拳をじっと見つめ、ぽつり、ぽつりと、言葉を探すように言った。

「……『迷い』……だな」

石韜の目が大きく開かれた。徐福は続ける。

「『助かりてえ』と思った瞬間、人間は無意識に『逃げ道』を探しちまう。……足が止まる。目が泳ぐ。……喧嘩で一番ヤベェのは、その一瞬だ」徐福の瞳に、ギラリと冷たい殺気が宿った。「逆に、『相打ち上等』で突っ込んでくる奴は、迷いがねえから動きが速ぇ。……刃物みてえに真っ直ぐだ。だから相手がビビって、結果的にそいつが勝つ」

徐福はニヤリと笑った。「『幸(ねが)わば』ってのは、運任せに逃げ道を探すってことだろ?……そんな半端な奴から、真っ先に死ぬんだよ」

部屋に一瞬、静寂が流れた。それは、書物の中の知識が、血肉を通った「真理」として具現化した瞬間だった。石韜は、ゆっくりと隣の孟建と顔を見合わせた。

横で見ていた孟建が感心して言った。
「驚いたな。こいつ、吸収が早いぞ。経典の解釈じゃ凡庸だが、実学となると天才的だ」
石韜も頷く。
「文字という『鍵』さえ手に入れれば、化けるかもしれんぞ」

二人の秀才からの予想外の評価に、徐福は「けっ、おだてても何も出ねえぞ」と照れ隠しにそっぽを向いた。

その様子を、向朗は黙って見ていた。彼の手は、墨をするのを止めている。

(……驚いた。石韜と孟建の言う通りだ)

向朗は、徐福の横顔を見つめた。
この男は、単なる「腕っぷしの強い相棒」ではないかもしれない。 既存の形式や常識に囚われない発想。複雑な事象を、極めてシンプルで残酷な「暴力の理屈」に変換して本質を掴む直感力。それは、机の上で兵法を学ぶ自分たちには決して持ち得ない、天性の才能だ。
(……もし彼が、文字を覚え、古今の知識をその身に取り込んだとしたら。……彼は、僕たちよりも恐ろしい『策士』の素質があるかも知れない)
向朗の背筋に、ゾクリとしたものが走った。それは恐怖ではなく、原石を見つけた宝石商の興奮に近かった。
「……徐福」
「あんだよ、向朗」
「『義』の文字だ。あと百回……いや、二百回追加だ」
「はあ!?なんで増えるんだよ!」
「君にはその価値があるからだよ。……さあ、夜はまだ長い。徹底的に叩き込んでやる」

向朗はニヤリと笑い、新しい木札の山をドンと積んだ。

悲鳴を上げる徐福と、それを肴に酒を飲み始める石韜と孟建。
夜の自習室は、未来の英雄たちの喧騒と、微かな希望の光に満ちていた。

徐福は、油が切れかけた灯火の下で、筆を握りしめた。もっとだ。もっと知恵をくれ。力だけでは守れないものがある。柳安のような正しい人間が、馬鹿を見ない世の中にするために。俺は、強くならなきゃいけねえ。

その夜、徐福の筆は止まることがなかった。不格好な文字が、木簡を埋め尽くしていく。それは、彼が初めて手にした「世界と戦うための武器」だった。
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