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第17話 黒き盾の防壁、白き旗の女神 1/5
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1.決戦
舞陽(ぶよう)邑の南方に広がる荒野。
乾いた風が砂塵を巻き上げるその場所に、今、歴史上類を見ない異様な「城壁」が出現していた。
堅牢な石垣もなければ、敵を阻む水堀もない。
大地を覆うように連なっているのは、数千台にも及ぶ荷車と、無残に解体された家屋の廃材である。
かつて人々の暮らしを支えた扉、柱、床板が、今は乱雑かつ強固に組み合わされ、拒絶の壁となって荒野を分断していた。
その異形の城壁の前に、黒衣の軍師・徐庶は立っていた。
向朗が涙を呑んで徴発し、計算し尽くして残していった膨大な資材。
徐庶はそれを、この決戦のためだけに再構築したのだ。
彼は、東西に長く伸びる長大な「横陣」を敷いていた。
夕日がその影を長く伸ばし、戦場全体を血のような朱色に染め上げている。
「……いいか、よく聞け」
陣の中央。徐庶の声が、凍りついた空気を震わせた。
低いが、戦場に響き渡るよく通る声だ。
彼がいる中央部隊には、黄琬から預かった精鋭五千人が、沈黙を守ったまま整列している。
彼らは鎧を身にまとい、何重もの槍衾を作っていた。
彼らの前には、荷車の壁はない。
遮蔽物は何一つないのだ。
それは、彼ら自身が鋼鉄の防波堤となり、敵の主力を正面から受け止めるという、死を覚悟した布陣であった。
対して、左右に翼を広げるように展開する両翼には、舞陽で合流した二万の民と、陽翟から選抜された男たち、合わせて三万の即席民兵が配置されている。
彼らの前には、荷車を太い鎖と縄で強引に連結し、その隙間に廃材の扉や床板を幾重にも打ち付けた即席の「防壁」が、延々と築かれていた。
中央が鋭く突出し、両翼がやや前へ張り出したその形は、獲物を飲み込もうとする巨大な顎(あぎと)、あるいは「鶴翼の陣」の変形であった。
「お前たちは弱い。それは恥ではない、事実だ」
徐庶は、震える民兵たちに向けて冷徹に告げた。
彼らの手にあるのは、正規の武器ではない。
先端を削って尖らせただけの竹槍、昨日まで畑を耕していた農具の鍬、あるいは川原で拾った手頃な大きさの石塊だ。
彼らの顔色は土気色で、瞳は恐怖に見開かれている。
カチカチと歯の根が合わない音が、寒さのせいではなく、魂の底からの恐怖によって、そこかしこから聞こえてくる。
「一対一で賊と戦えば、間違いなく負ける。剣の握り方も知らん素人が、殺し合いに勝てるわけがないのだ」
徐庶の言葉は、慈悲のかけらもない刃のように民兵たちの心を抉った。
絶望の空気が広がる。だが、徐庶はそれを断ち切るように続けた。
「だが、ここは戦場ではない。『作業場』だと思え」
「……さ、作業?」最前列にいた男が、縋るような視線で、震える声で聞き返した。
「そうだ。お前たちの目の前には、俺が作った『鉄壁の荷車』がある。見ろ、この厚みを。この壁は、馬が体当たりしても揺るぎもしない。お前たちは、この壁の陰から、ただひたすらに竹槍を突き出し、石を落とせばいい」
徐庶は、民兵たちの目を一人一人、射抜くように見渡した。
その眼光は、黒衣と同じく深く、揺るぎない確信に満ちている。
「敵を見るな。敵の叫び声を聞くな。人間だと思うな。ただ、目の前の穴から槍を出し入れする『作業』を繰り返せ。……それさえ守れば、この壁は絶対に抜けん。お前たちは死なない」
それは、恐怖に思考を奪われた人間に与える、最も単純で、かつ強力な暗示だった。
戦うな。武勇はいらない。
ただ、作業をしろ。
その冷徹な言葉が、パニック寸前だった民兵たちの心に、一本の冷たい杭を打ち込んだ。
震えがわずかに止まり、彼らは竹槍を握る手に力を込めた。
「中央の精鋭五千が、敵の主力を正面から受け止める。敵は必ず、壁がなく守りの薄そうな中央へ殺到するだろう。……お前たち両翼は、その横腹を壁越しに突くのだ。いいな!」
「お、おう……!」
頼りない返事だったが、それでも彼らは持ち場についた。
荷車の陰に身を潜め、呼吸を殺し、脂汗を流しながら竹槍を握りしめる。
徐庶は、馬首を北へと向けた。
地平線の彼方から、世界を塗りつぶすような、どす黒い雲のような砂煙が迫ってくる。
風に乗って、獣の咆哮のような、あるいは地鳴りのような唸り声が聞こえ始めた。
それは人間の声ではない。飢餓という名の怪物の足音だ。
「……来るぞ。腹を空かせた客人がな」
徐庶は、腰の長剣を抜き放った。チャキリ、という澄んだ金属音が、戦場に響く。
その刃が、沈みゆく夕日を受けて、血塗られたように赤く煌めいた。
黒き盾の防壁が、飢餓の奔流を迎え撃つ瞬間が、今まさに迫っていた。
舞陽(ぶよう)邑の南方に広がる荒野。
乾いた風が砂塵を巻き上げるその場所に、今、歴史上類を見ない異様な「城壁」が出現していた。
堅牢な石垣もなければ、敵を阻む水堀もない。
大地を覆うように連なっているのは、数千台にも及ぶ荷車と、無残に解体された家屋の廃材である。
かつて人々の暮らしを支えた扉、柱、床板が、今は乱雑かつ強固に組み合わされ、拒絶の壁となって荒野を分断していた。
その異形の城壁の前に、黒衣の軍師・徐庶は立っていた。
向朗が涙を呑んで徴発し、計算し尽くして残していった膨大な資材。
徐庶はそれを、この決戦のためだけに再構築したのだ。
彼は、東西に長く伸びる長大な「横陣」を敷いていた。
夕日がその影を長く伸ばし、戦場全体を血のような朱色に染め上げている。
「……いいか、よく聞け」
陣の中央。徐庶の声が、凍りついた空気を震わせた。
低いが、戦場に響き渡るよく通る声だ。
彼がいる中央部隊には、黄琬から預かった精鋭五千人が、沈黙を守ったまま整列している。
彼らは鎧を身にまとい、何重もの槍衾を作っていた。
彼らの前には、荷車の壁はない。
遮蔽物は何一つないのだ。
それは、彼ら自身が鋼鉄の防波堤となり、敵の主力を正面から受け止めるという、死を覚悟した布陣であった。
対して、左右に翼を広げるように展開する両翼には、舞陽で合流した二万の民と、陽翟から選抜された男たち、合わせて三万の即席民兵が配置されている。
彼らの前には、荷車を太い鎖と縄で強引に連結し、その隙間に廃材の扉や床板を幾重にも打ち付けた即席の「防壁」が、延々と築かれていた。
中央が鋭く突出し、両翼がやや前へ張り出したその形は、獲物を飲み込もうとする巨大な顎(あぎと)、あるいは「鶴翼の陣」の変形であった。
「お前たちは弱い。それは恥ではない、事実だ」
徐庶は、震える民兵たちに向けて冷徹に告げた。
彼らの手にあるのは、正規の武器ではない。
先端を削って尖らせただけの竹槍、昨日まで畑を耕していた農具の鍬、あるいは川原で拾った手頃な大きさの石塊だ。
彼らの顔色は土気色で、瞳は恐怖に見開かれている。
カチカチと歯の根が合わない音が、寒さのせいではなく、魂の底からの恐怖によって、そこかしこから聞こえてくる。
「一対一で賊と戦えば、間違いなく負ける。剣の握り方も知らん素人が、殺し合いに勝てるわけがないのだ」
徐庶の言葉は、慈悲のかけらもない刃のように民兵たちの心を抉った。
絶望の空気が広がる。だが、徐庶はそれを断ち切るように続けた。
「だが、ここは戦場ではない。『作業場』だと思え」
「……さ、作業?」最前列にいた男が、縋るような視線で、震える声で聞き返した。
「そうだ。お前たちの目の前には、俺が作った『鉄壁の荷車』がある。見ろ、この厚みを。この壁は、馬が体当たりしても揺るぎもしない。お前たちは、この壁の陰から、ただひたすらに竹槍を突き出し、石を落とせばいい」
徐庶は、民兵たちの目を一人一人、射抜くように見渡した。
その眼光は、黒衣と同じく深く、揺るぎない確信に満ちている。
「敵を見るな。敵の叫び声を聞くな。人間だと思うな。ただ、目の前の穴から槍を出し入れする『作業』を繰り返せ。……それさえ守れば、この壁は絶対に抜けん。お前たちは死なない」
それは、恐怖に思考を奪われた人間に与える、最も単純で、かつ強力な暗示だった。
戦うな。武勇はいらない。
ただ、作業をしろ。
その冷徹な言葉が、パニック寸前だった民兵たちの心に、一本の冷たい杭を打ち込んだ。
震えがわずかに止まり、彼らは竹槍を握る手に力を込めた。
「中央の精鋭五千が、敵の主力を正面から受け止める。敵は必ず、壁がなく守りの薄そうな中央へ殺到するだろう。……お前たち両翼は、その横腹を壁越しに突くのだ。いいな!」
「お、おう……!」
頼りない返事だったが、それでも彼らは持ち場についた。
荷車の陰に身を潜め、呼吸を殺し、脂汗を流しながら竹槍を握りしめる。
徐庶は、馬首を北へと向けた。
地平線の彼方から、世界を塗りつぶすような、どす黒い雲のような砂煙が迫ってくる。
風に乗って、獣の咆哮のような、あるいは地鳴りのような唸り声が聞こえ始めた。
それは人間の声ではない。飢餓という名の怪物の足音だ。
「……来るぞ。腹を空かせた客人がな」
徐庶は、腰の長剣を抜き放った。チャキリ、という澄んだ金属音が、戦場に響く。
その刃が、沈みゆく夕日を受けて、血塗られたように赤く煌めいた。
黒き盾の防壁が、飢餓の奔流を迎え撃つ瞬間が、今まさに迫っていた。
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