落ちこぼれ剣客と神算の事務屋。三国志の英雄たちが「ドン引き」した、たった一夜の復讐譚 徐庶と向朗の完全犯罪

こくせんや

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第16話 移動都市 3/3

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6.嘘から出た怪物

数日後。再編成を終えた一行は、十二万人を超える超巨大集団となって舞陽を出発した。

その隊列は延々と続き、先頭が地平線の彼方に消えても、まだ最後尾が出発していないほどである。

大地を埋め尽くす人の波。
膨れ上がった荷車の山。

それはもはや、難民の列というより、国そのものが移動しているような威容を誇っていた。

だが、その巨体ゆえの鈍重さは、致命的な隙を生んでいた。

出発から半日後。後方を偵察していた騎兵が、馬を潰す勢いで駆け戻ってきた。
馬上の兵士は顔面蒼白で、徐庶の前に転がり落ちた。

「ほ、報告!後方より接近する集団あり!」
「数は!?」
「砂煙の規模からして……およそ二万!旗印はありません!あれは……『葛陂(かつは)の賊』です!」

その名を聞いた瞬間、周囲の兵士たちに動揺が走った。

葛陂の賊。

かつて陽翟で、賈仁を英雄に仕立て上げるために向朗たちが利用した、「嘘の敵」である。

その嘘が、本物の怪物となって現れたのだ。

だが、向朗の手は震えなかった。竹簡も落とさなかった。
彼は眉一つ動かさず、ただ冷静に、以前から想定していた「最悪の変数」の一つを確認するように頷いただけだった。

(……やはり、来たか)

向朗は、南へ向かうこのルートを選んだ時点で、彼らと遭遇するリスクを織り込み済みだった。
飢えた流民集団である彼らにとって、この十二万の民と、山のような物資は、数年は食っていける極上の獲物だ。追いつかれるのは時間の問題だった。

「……なんという皮肉だ」徐庶が、苦々しげに吐き捨てた。
「嘘から出た真(まこと)か。奴らは武器も統率もないが、それゆえに凶暴だ。話し合いも、降伏も通じん。ただ食うために襲ってくる獣の群れだ」

向朗は、冷徹に計算を弾き出した。
まともな戦闘経験があるのは、黄琬から預かった五千の兵のみ。
残りの男たちは、即席の自警団にすぎない。

対する賊は二万。

数は劣るが、彼らには「飢え」という最強の武器がある。

死に物狂いで襲ってくる獣に対し、守る側の士気がどこまで持つか。

向朗の計算盤上では、勝率は五分五分。

いや、長期戦になれば、恐怖に負けて崩壊するリスクの方が高い。

「……向朗」徐庶が、静かに剣を抜いた。
その切っ先は、南ではなく、来た道を向いていた。
その横顔には、焦りも恐怖もない。

あるのは、友が積み上げてきた偉業を守り抜くという、静かで熱い決意だけだ。

「竹簡をしまうな。……そのまま、明日の行軍の計算を続けろ」

その言葉に、向朗は筆を止めて徐庶を見た。
「……明日?敵は目前だぞ。勝率は五分……」

「五分だと?謙遜するな」
徐庶は、首を横に振った。その瞳には、向朗に対する嘘偽りのない尊敬の色が宿っていた。

「お前は、この十二万の民と、山のような物資を、一人の落伍者も出さずにここまで運んできた。兵站を整え、規律を作り、あの強欲な県令どもを黙らせてきた。……古今の名将でも、これほどの用兵を成し遂げた者はいない。これはお前の力だ」

徐庶の声は、荒野に力強く響いた。

「お前が整えた盤面だ。兵の腹は満ちているし、武器もある。お前の計算が、俺たちに戦う力をくれたんだ。……負ける要素がどこにある?」

向朗は、息を呑んだ。
自分が「事務処理」と卑下していた仕事を、この武人は「最高の軍略」だと認めてくれている。

「……元直(げんちょく・徐庶の字)」

「だから、お前は『勝った後』の計算をしておいてくれ。明日の朝、この十二万人をどう動かすか。勝利の美酒をどう分配するか。……それを考えるのが、お前の役目だ」

徐庶はニヤリと笑い、向朗の肩に置いた拳に、ぐっと力を込めた。

「泥仕事(いくさ)は、俺の領分だ。お前は、女子供と老人、そして輜重(しちょう)隊を率いて先行しろ。……俺がここで、奴らの足を止める」

徐庶の作戦は、十二万の軍勢を二つに割ることだった。
戦えない九万人の本隊を向朗に託し、自身は正規兵と動ける男たちだけで迎撃する。

「……わかった。君が敵を蹴散らして戻ってくるまでに、舞陽からさらに南へ五十里の行程表を完成させておく。……遅れるなよ、徐庶」

「ああ。すぐ済ませる」

二人の間に、もはや言葉はいらなかった。

兵站と運営の神算が作り上げた土台の上で、落ちこぼれの剣客が、初めてその軍才が目覚める。

水鏡塾が生んだ二つの才能が、互いを補完し合い、一つの巨大な「軍略」として完成した瞬間だった。

向朗が馬首を南へと巡らせ、本隊への出発合図を出すのと同時に、徐庶は黒衣の袖を翻し、残った男たちに向かって雷のような大音声を張り上げた。

「全軍、聞けぇ!これより本隊を分離する!」

徐庶の声が、荒野に轟く。

「第五、第七、第九部隊の男ども!及び、黄琬様より預かりし精鋭五千!計三万五千の『戦える者』は、回れ右!その場に踏み止まれ!」

どよめきが走るが、徐庶は一喝してそれを制した。

「残りの者は、向朗と共に先へ行け!……振り返るな!我らの背には、守るべき故郷(くに)がある!」
徐庶は剣を天に突き上げ、迫りくる砂煙を睨み据えた。

「一歩も引くな!俺に続け!ここが、俺たちの戦場だ!」

十二万の民を守る黒き盾。その軍師としての初陣が、向朗への絶対の信頼を背に、今、始まろうとしていた。
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