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ふたりの愛憎編
11.連弾もどき ──陽介
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恵まれた双子の弟のことをドン底まで突き落としてやれば満たされるはずだった。
俺を求めて伸ばされた手を振り払って、最終的にはピアノにまで影響が出始めた彼を見て「ざまあみろ」とでも言ってやるつもりだった。それで俺の復讐は完了するはずだったのに。
「月島のことは嫌いだけど、月島のピアノは嫌いじゃないよ」
口に出してから、自分がいちばん動揺した。
なに言ってるんだ? 嫌いじゃないってどういうことだ?
たまたまピアニストの母親に引き取られて環境が恵まれていたからこその才能を「嫌いじゃない」だなんて、俺はどうしてしまったんだろう。
混乱してしまったけど、その原因はわかっている。
月島との距離が近くなりすぎたからだ。
環境が恵まれていたのもそうだろう、才能があるのも間違いないだろう。しかし彼はただの天才なんかではなく、しっかりと努力をしてその二つ名を背負っていたのである。
放課後はしょっちゅうレッスン室にこもっているし、寝る直前まで譜読みを欠かさない。聞いている音楽はクラシックのピアノ曲ばかり。
努力できる天才がいちばん厄介だと言うが、月島はまさにそのタイプだった。
「Vater unser im Himmel...(天にまします我らの父よ…)」
あの日、トイレの個室で絞り出すように呟かれた言葉の意味は俺にはわからなかった。
しかしその断片的なニュアンスと、もしかしてという可能性で調べてみたらキリスト教の祈りの言葉であることがわかった。そう言えば月島がたまに十字を切っているのを見かけるかもしれない。
彼がどれほど熱心なキリスト教徒なのかなんてことは知ったことではないが、あのタイミングで祈られたということの意味は考えるべきだろう。
ピアノを弾くことをやめるなよ、と言ったあとだったか? それでどうして月島が祈る流れになるのだろう。
「……月島秋人」
放課後にぼんやりと廊下を歩いていると、とあるレッスン室の前に見慣れた名前が書いてあることに気付いた。放課後は使用時間が四つの枠に区切られているんだけど、驚くべきことに月島はその枠全てに自分の名前を書いていた。
部屋のドアに貼られたホワイトボードには、お世辞にも綺麗だとは言い難い文字で彼の名前が並んでいる。
「ふっ…。最後のとこ諦めてローマ字になってんじゃん」
ぶっきらぼうに見えて真面目なところのある月島は、全ての枠にご丁寧にフルネームで名前を書いていて最後には挫折している。
最初の枠にだけ書いとけばいいんじゃないのか、これって。なんだっけ、ノノ字点? 二つ目の枠からはあれを入れとけばいいのに。
いちばん力を入れて書いたであろう、一枠目の「月島秋人」を指でなぞる。
この中で月島はピアノを弾いているのだ。なにを考えて、どんな曲を弾いてるんだろう。
俺が全てを告白したあとから調子を崩してしまったけど、高等部に進学してからは少しずつ調子を取り戻している。それでも本来の彼の演奏と比べると物足りなさはあるけど…。
今度のコンクールで弾く曲でも練習してるのか? ベートーヴェン? それともリスト?
「……聞きたいなぁ」
渇望している、という言葉がしっくりくる気持ちだった。
認めよう、月島のピアノは好きだ。力強くて前向きで、一気に彼の世界に引きずりこまれるようで。
彼の名前に触れたまま、額をぶつけて扉に体重をかける。すると、扉が少しだけ動いたような気配がした。
「ん…?」
不思議に思ってそのまま肩で扉を押すと、あっさりと開いてしまった。
中からはなんの音も聞こえない。休憩でもしているのだろうか?
「陽介…? どうしてここに」
ドアを開ききると、目を丸くした月島がこちらを凝視していた。
ピアノの前に座っていて、なぜか譜面台には彼のスマートフォンが置かれている。
「え、っと…。鍵、開いてたぞ。ちゃんと閉めといた方がいい」
「あ……そうだな。ごめん、閉めたつもりだったんだけど」
このまま外に出るべきだ、と思う。鍵を閉めろと注意をするためにだけ中に入ってきたと理由を付けられる。
しかし身体が上手く動いてくれなくて、嫌な沈黙が降ってきた。
「……陽介、時間ある?」
「え?」
「俺のピアノを聞いてほしい」
返事をする前に月島がピアノに向き直り、鋭い視線が鍵盤に落ちる。白く細い指が鍵盤に触れ、一気に空気が変わった。
練習曲ハ短調作品10-12、革命のエチュード。
ショパンの楽曲の中でも難易度が高いが、一般的な知名度も高い曲だと思う。ポーランドの革命が失敗に終わった怒りと悲しみをぶつけて作曲された曲とされていて、常に動き続ける左手のパッセージがポイントになってくる。
──あぁ、そうか。月島の得意分野でもあるのか。
右手のメロディーも左手の速い動きも正確だし、ペダルの使い方も上手い。だけど……。
「怒りすぎ」
感想を短く言葉にすると、流れるように続いていた演奏がぴたりと止まった。
月島がゆっくりと顔を上げる。集中しすぎていたのか、肩で息をしていた。
「ただ怒ってるんじゃないんだよ、このショパンは。……月島、右手だけ弾いて。ペダルも頼む」
「えっ、あ…?」
ネクタイを緩め、ブレザーの上着を脱いで床に投げる。左手だけシャツの袖を捲って改めて月島の方を見ると、困惑に揺れた瞳が俺の顔を映していた。
……うわ、ひっでぇ顔してんな。俺も、月島も。
「頭から最後まで通すぞ」
連弾曲でもないし、そもそもこの難易度の曲だ。他人と合わせるなんてほぼほぼ不可能に近い。
でも相手はあの月島秋人で、俺たちは双子だ。成立させる自信があったのだ。
俺を求めて伸ばされた手を振り払って、最終的にはピアノにまで影響が出始めた彼を見て「ざまあみろ」とでも言ってやるつもりだった。それで俺の復讐は完了するはずだったのに。
「月島のことは嫌いだけど、月島のピアノは嫌いじゃないよ」
口に出してから、自分がいちばん動揺した。
なに言ってるんだ? 嫌いじゃないってどういうことだ?
たまたまピアニストの母親に引き取られて環境が恵まれていたからこその才能を「嫌いじゃない」だなんて、俺はどうしてしまったんだろう。
混乱してしまったけど、その原因はわかっている。
月島との距離が近くなりすぎたからだ。
環境が恵まれていたのもそうだろう、才能があるのも間違いないだろう。しかし彼はただの天才なんかではなく、しっかりと努力をしてその二つ名を背負っていたのである。
放課後はしょっちゅうレッスン室にこもっているし、寝る直前まで譜読みを欠かさない。聞いている音楽はクラシックのピアノ曲ばかり。
努力できる天才がいちばん厄介だと言うが、月島はまさにそのタイプだった。
「Vater unser im Himmel...(天にまします我らの父よ…)」
あの日、トイレの個室で絞り出すように呟かれた言葉の意味は俺にはわからなかった。
しかしその断片的なニュアンスと、もしかしてという可能性で調べてみたらキリスト教の祈りの言葉であることがわかった。そう言えば月島がたまに十字を切っているのを見かけるかもしれない。
彼がどれほど熱心なキリスト教徒なのかなんてことは知ったことではないが、あのタイミングで祈られたということの意味は考えるべきだろう。
ピアノを弾くことをやめるなよ、と言ったあとだったか? それでどうして月島が祈る流れになるのだろう。
「……月島秋人」
放課後にぼんやりと廊下を歩いていると、とあるレッスン室の前に見慣れた名前が書いてあることに気付いた。放課後は使用時間が四つの枠に区切られているんだけど、驚くべきことに月島はその枠全てに自分の名前を書いていた。
部屋のドアに貼られたホワイトボードには、お世辞にも綺麗だとは言い難い文字で彼の名前が並んでいる。
「ふっ…。最後のとこ諦めてローマ字になってんじゃん」
ぶっきらぼうに見えて真面目なところのある月島は、全ての枠にご丁寧にフルネームで名前を書いていて最後には挫折している。
最初の枠にだけ書いとけばいいんじゃないのか、これって。なんだっけ、ノノ字点? 二つ目の枠からはあれを入れとけばいいのに。
いちばん力を入れて書いたであろう、一枠目の「月島秋人」を指でなぞる。
この中で月島はピアノを弾いているのだ。なにを考えて、どんな曲を弾いてるんだろう。
俺が全てを告白したあとから調子を崩してしまったけど、高等部に進学してからは少しずつ調子を取り戻している。それでも本来の彼の演奏と比べると物足りなさはあるけど…。
今度のコンクールで弾く曲でも練習してるのか? ベートーヴェン? それともリスト?
「……聞きたいなぁ」
渇望している、という言葉がしっくりくる気持ちだった。
認めよう、月島のピアノは好きだ。力強くて前向きで、一気に彼の世界に引きずりこまれるようで。
彼の名前に触れたまま、額をぶつけて扉に体重をかける。すると、扉が少しだけ動いたような気配がした。
「ん…?」
不思議に思ってそのまま肩で扉を押すと、あっさりと開いてしまった。
中からはなんの音も聞こえない。休憩でもしているのだろうか?
「陽介…? どうしてここに」
ドアを開ききると、目を丸くした月島がこちらを凝視していた。
ピアノの前に座っていて、なぜか譜面台には彼のスマートフォンが置かれている。
「え、っと…。鍵、開いてたぞ。ちゃんと閉めといた方がいい」
「あ……そうだな。ごめん、閉めたつもりだったんだけど」
このまま外に出るべきだ、と思う。鍵を閉めろと注意をするためにだけ中に入ってきたと理由を付けられる。
しかし身体が上手く動いてくれなくて、嫌な沈黙が降ってきた。
「……陽介、時間ある?」
「え?」
「俺のピアノを聞いてほしい」
返事をする前に月島がピアノに向き直り、鋭い視線が鍵盤に落ちる。白く細い指が鍵盤に触れ、一気に空気が変わった。
練習曲ハ短調作品10-12、革命のエチュード。
ショパンの楽曲の中でも難易度が高いが、一般的な知名度も高い曲だと思う。ポーランドの革命が失敗に終わった怒りと悲しみをぶつけて作曲された曲とされていて、常に動き続ける左手のパッセージがポイントになってくる。
──あぁ、そうか。月島の得意分野でもあるのか。
右手のメロディーも左手の速い動きも正確だし、ペダルの使い方も上手い。だけど……。
「怒りすぎ」
感想を短く言葉にすると、流れるように続いていた演奏がぴたりと止まった。
月島がゆっくりと顔を上げる。集中しすぎていたのか、肩で息をしていた。
「ただ怒ってるんじゃないんだよ、このショパンは。……月島、右手だけ弾いて。ペダルも頼む」
「えっ、あ…?」
ネクタイを緩め、ブレザーの上着を脱いで床に投げる。左手だけシャツの袖を捲って改めて月島の方を見ると、困惑に揺れた瞳が俺の顔を映していた。
……うわ、ひっでぇ顔してんな。俺も、月島も。
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