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ふたりの愛憎編
15.お誘い ──陽介
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とある放課後。レッスン室の前を通ると、中からリストの激しい音が聞こえてきた。
超絶技巧練習曲の第四番、「マゼッパ」だ。ホワイトボードには「月島秋人」の名前が連なっている。
やっぱりまだ完全に調子を取り戻しているわけではないらしく、中学時代のコンクールで聞いた時よりも痛々しく響いているような気がした。秋人のマゼッパ、迫力があるけど一つ一つの音の粒が揃ってて好きだったんだけどな。
でもこれが俺の罪だ。秋人のピアノを壊してしまったのは俺だ。
「……誰?」
レッスン室のドアを開くと、それと同時にピアノの音が止まった。警戒を含んだ秋人の声が小さく響く。
「ごめん、俺だよ。練習の邪魔して悪いな」
「陽介…」
ほっとした顔をしてくれた秋人を見て、こっちも安心して胸を撫で下ろした。あからさまに警戒されることはなくなったらしい。
鍵盤から手を外した秋人が俺の顔を見上げてくる。
「今日もするのか? 連弾」
「うん、一曲だけ」
衝動的に「革命のエチュード」をいっしょに弾いたあの日、なんとなく秋人と対話できた気がした。
秋人のピアノは聞いている人間の感情を揺さぶり、強引に引き込んでいくような力がある。それは連弾相手に対してもそうだったようで、手に取るように秋人の感情が流れ込んできたのだ。
俺と秋人は、たぶん口喧嘩をするよりもピアノをいっしょに弾く方がわかり合える。そう思って、たまにこうして秋人が予約しているレッスン室を訪れて連弾のお誘いをしているというわけだ。
「今日はなにを弾く? 秋人が好きな曲でいいよ。えぇーと、リストなら『メフィスト・ワルツ』の連弾譜を持ってたような…」
ほとんど楽譜しか入っていないカバンの中を漁る。俺は普段あまりリストを弾かないけど、秋人が好きそうな曲の連弾譜を詰め込んできたのだ。
「……それじゃあ、これ」
「ん?」
秋人の声に顔を上げると、譜面台の上に置かれた楽譜を指差していた。
リストの「マゼッパ」の後ろに隠されていた楽譜が秋人の手によって前に出てくる。
「ショパンの『ノクターン第2番 変ホ長調 Op.9-2』。今日は来るかなと思って用意しといた」
「ノクターン…? 秋人の好みにしては穏やかだな。俺も連弾で弾いたことはないかも」
ちょっと意外だ、もう少し重めのリクエストがくると思ってたのに。
ちなみに前回はラフマニノフを弾いた。あれはあれで楽しかったなぁ。
「俺はプリモ、陽介がセコンドで大丈夫?」
「ん、わかった。ちょっと譜読みしてもいい?」
「どうぞ」
秋人がプリモの椅子に座ったのを確認してから、俺もセコンドの椅子に座る。鍵盤に向かい合った二人の手が、わずか数十センチの距離で並んだ。
その瞬間、秋人が小さく身体を強張らせる。
「あ、あのさ……。ごめん、まだちょっとだけ怖い…」
秋人が絞り出すようにして小声で伝えてくれた。
こうして教えてくれるようになっただけでも進歩だ。秋人は本当に強い。
「革命」から数日後、はじめて連弾をした日なんかガッチガチに固まってしまって意思疎通すらまともにできなくなってしまったんだから。
「わかってる、無理しなくていいよ。無理だと思ったらいつでも止めていいから」
「うん、ごめん…」
「謝るなって。……よし、始めるか」
楽譜を譜面台に置き直し、目を合わせてタイミングを取った。
秋人のプリモが夢見るように優雅なメロディを奏で始める。
こんな弾き方もできたんだな、と少し驚いた。さっきのマゼッパとは大違いだ。
左手の伴奏を弾きながら、意識の全てを秋人のメロディに集中させる。秋人の音を優しく、深い響きで支え、包み込むことだけを意識した。
秋人の横顔をちらりと見る。彼の瞳はもう恐怖で揺れてはいない。真剣に楽譜を見つめ、指先は軽やかに踊っていた。
少しだけほっとした。秋人が自分のピアノを取り戻す日もそう遠くないのかもしれない。
そして楽譜の折り返し、二人の手が交差する場所が来た。
プリモが最も優雅な装飾音を弾く瞬間、秋人の右手が俺の左手の上を、まるで舞い踊るように通過する。その瞬間、指先が一瞬だけ触れ合った。
そのたった一瞬の接触で自分の心臓が激しく跳ねたのがわかる。寮の部屋での密やかな愛撫よりも、もちろんトイレの個室での暗い情事よりも。なによりも遥かに甘くて、純粋に胸を焦がした。
「……できた」
演奏が終わった瞬間、秋人が小さく呟いた。その声は震えていたが、達成感と微かな安堵に満ちているようだった。
「うん、できたな。秋人のノクターン、すごく綺麗だったよ」
本当はいますぐ抱きしめたかったけど、怖がらせてしまってはいけない。秋人の頭を優しく撫でると、少し驚いたような顔を見せてから柔らかく表情を緩めた。
「……あの、さ。いきなりだけど、陽介ってドイツに興味ある? ドイツ語覚えたり、とかもそうだけど…。ドイツに行ってみたかったりする?」
「え?」
ずっと憎しみすら覚えていた国の名前を口にされ、背筋がひやっと冷たくなった。
しかし秋人は真剣な顔をしている。なにか答えを出さなくてはいけない。
「そりゃまぁ、興味がないって言えば嘘になるかな。音楽の世界で生きていくんなら避けて通れないと言うか」
「…っじゃ、じゃあ! 俺といっしょに行かない?」
「え?」
秋人が急に声のトーンを上げた。驚いて少し仰け反ると、まだ鍵盤の上にあった右手をとって両手で握りしめられる。
いつも体温が低めの秋人にしては温かくて、興奮してるんだなぁなんてぼんやり思った。
「夏休みにドイツまで……俺が住んでた街に、いっしょに行こう!」
「は?」
──なんだって?
「母さんが言ってくれたんだ、全部話してくれるって! 陽介も連れて来いって! だから行こう、ドイツに!」
超絶技巧練習曲の第四番、「マゼッパ」だ。ホワイトボードには「月島秋人」の名前が連なっている。
やっぱりまだ完全に調子を取り戻しているわけではないらしく、中学時代のコンクールで聞いた時よりも痛々しく響いているような気がした。秋人のマゼッパ、迫力があるけど一つ一つの音の粒が揃ってて好きだったんだけどな。
でもこれが俺の罪だ。秋人のピアノを壊してしまったのは俺だ。
「……誰?」
レッスン室のドアを開くと、それと同時にピアノの音が止まった。警戒を含んだ秋人の声が小さく響く。
「ごめん、俺だよ。練習の邪魔して悪いな」
「陽介…」
ほっとした顔をしてくれた秋人を見て、こっちも安心して胸を撫で下ろした。あからさまに警戒されることはなくなったらしい。
鍵盤から手を外した秋人が俺の顔を見上げてくる。
「今日もするのか? 連弾」
「うん、一曲だけ」
衝動的に「革命のエチュード」をいっしょに弾いたあの日、なんとなく秋人と対話できた気がした。
秋人のピアノは聞いている人間の感情を揺さぶり、強引に引き込んでいくような力がある。それは連弾相手に対してもそうだったようで、手に取るように秋人の感情が流れ込んできたのだ。
俺と秋人は、たぶん口喧嘩をするよりもピアノをいっしょに弾く方がわかり合える。そう思って、たまにこうして秋人が予約しているレッスン室を訪れて連弾のお誘いをしているというわけだ。
「今日はなにを弾く? 秋人が好きな曲でいいよ。えぇーと、リストなら『メフィスト・ワルツ』の連弾譜を持ってたような…」
ほとんど楽譜しか入っていないカバンの中を漁る。俺は普段あまりリストを弾かないけど、秋人が好きそうな曲の連弾譜を詰め込んできたのだ。
「……それじゃあ、これ」
「ん?」
秋人の声に顔を上げると、譜面台の上に置かれた楽譜を指差していた。
リストの「マゼッパ」の後ろに隠されていた楽譜が秋人の手によって前に出てくる。
「ショパンの『ノクターン第2番 変ホ長調 Op.9-2』。今日は来るかなと思って用意しといた」
「ノクターン…? 秋人の好みにしては穏やかだな。俺も連弾で弾いたことはないかも」
ちょっと意外だ、もう少し重めのリクエストがくると思ってたのに。
ちなみに前回はラフマニノフを弾いた。あれはあれで楽しかったなぁ。
「俺はプリモ、陽介がセコンドで大丈夫?」
「ん、わかった。ちょっと譜読みしてもいい?」
「どうぞ」
秋人がプリモの椅子に座ったのを確認してから、俺もセコンドの椅子に座る。鍵盤に向かい合った二人の手が、わずか数十センチの距離で並んだ。
その瞬間、秋人が小さく身体を強張らせる。
「あ、あのさ……。ごめん、まだちょっとだけ怖い…」
秋人が絞り出すようにして小声で伝えてくれた。
こうして教えてくれるようになっただけでも進歩だ。秋人は本当に強い。
「革命」から数日後、はじめて連弾をした日なんかガッチガチに固まってしまって意思疎通すらまともにできなくなってしまったんだから。
「わかってる、無理しなくていいよ。無理だと思ったらいつでも止めていいから」
「うん、ごめん…」
「謝るなって。……よし、始めるか」
楽譜を譜面台に置き直し、目を合わせてタイミングを取った。
秋人のプリモが夢見るように優雅なメロディを奏で始める。
こんな弾き方もできたんだな、と少し驚いた。さっきのマゼッパとは大違いだ。
左手の伴奏を弾きながら、意識の全てを秋人のメロディに集中させる。秋人の音を優しく、深い響きで支え、包み込むことだけを意識した。
秋人の横顔をちらりと見る。彼の瞳はもう恐怖で揺れてはいない。真剣に楽譜を見つめ、指先は軽やかに踊っていた。
少しだけほっとした。秋人が自分のピアノを取り戻す日もそう遠くないのかもしれない。
そして楽譜の折り返し、二人の手が交差する場所が来た。
プリモが最も優雅な装飾音を弾く瞬間、秋人の右手が俺の左手の上を、まるで舞い踊るように通過する。その瞬間、指先が一瞬だけ触れ合った。
そのたった一瞬の接触で自分の心臓が激しく跳ねたのがわかる。寮の部屋での密やかな愛撫よりも、もちろんトイレの個室での暗い情事よりも。なによりも遥かに甘くて、純粋に胸を焦がした。
「……できた」
演奏が終わった瞬間、秋人が小さく呟いた。その声は震えていたが、達成感と微かな安堵に満ちているようだった。
「うん、できたな。秋人のノクターン、すごく綺麗だったよ」
本当はいますぐ抱きしめたかったけど、怖がらせてしまってはいけない。秋人の頭を優しく撫でると、少し驚いたような顔を見せてから柔らかく表情を緩めた。
「……あの、さ。いきなりだけど、陽介ってドイツに興味ある? ドイツ語覚えたり、とかもそうだけど…。ドイツに行ってみたかったりする?」
「え?」
ずっと憎しみすら覚えていた国の名前を口にされ、背筋がひやっと冷たくなった。
しかし秋人は真剣な顔をしている。なにか答えを出さなくてはいけない。
「そりゃまぁ、興味がないって言えば嘘になるかな。音楽の世界で生きていくんなら避けて通れないと言うか」
「…っじゃ、じゃあ! 俺といっしょに行かない?」
「え?」
秋人が急に声のトーンを上げた。驚いて少し仰け反ると、まだ鍵盤の上にあった右手をとって両手で握りしめられる。
いつも体温が低めの秋人にしては温かくて、興奮してるんだなぁなんてぼんやり思った。
「夏休みにドイツまで……俺が住んでた街に、いっしょに行こう!」
「は?」
──なんだって?
「母さんが言ってくれたんだ、全部話してくれるって! 陽介も連れて来いって! だから行こう、ドイツに!」
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