婚約破棄、ありがとう!二度近づかないでください!

鏡おもち

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王都を離れて数時間。
ガタゴトと揺れる馬車の中で、リリアンは猛烈な不快感に眉をひそめていた。


その原因は、彼女が今なお身に纏っている、公爵令嬢としての「正装」である。


「……限界ですわ。ギルバート、今すぐ馬車を止めなさい。この布の塊は、私の生存戦略において最大の阻害要因です」


「お嬢様、まだ出発して半日も経っていませんよ。それに、今は街道のど真ん中です。せめて次の宿場町まで我慢してください」


ギルバートは読みかけの戦術書から目を離さずに答えた。
彼はこの主人が一度言い出したら聞かないことを、身をもって知っている。


「いいえ、一分一秒も無駄にはできません。このコルセットの締め付けによる血流の悪化は、私の脳の演算処理能力を確実に低下させています。さらに、このスカートの総重量……推定五キログラム。これが私の膝関節に与える負荷を計算すると、領地に着く頃には私は歩行困難に陥っているはずですわ!」


「大袈裟ですよ。世の中の令嬢はみんなそれを着て、優雅に踊っているんです」


「彼女たちは精神修行をしているのでしょう。私は合理主義者です。ギルバート、止めて。さもなくば、私はこの走行中の馬車から飛び降りて、空気抵抗を身をもって体験することになりますわよ」


「分かりました、分かりましたから! 御者、止めてくれ!」


ギルバートが叫ぶと、馬車が急ブレーキをかけて止まった。
リリアンは流れるような動作で馬車を降りると、道端にある大きな木陰へと突き進んでいった。


「お嬢様、どこへ行くんですか!?」


「着替えですわ! ギルバート、そこに立って誰も来ないように見張っていなさい。もし覗くような不届き者がいたら、その首を効率的に狩ってよろしいわ」


「……物騒な許可をありがとうございます」


数分後。
茂みの奥からカサカサと音がして、リリアンが姿を現した。
その姿を見たギルバートは、持っていた水筒を危うく落としそうになった。


「お、お嬢様……。それは、いったい……」


「どうです? 私の新しい『戦闘服』ですわ。非常に合理的だと思いませんか?」


そこに立っていたのは、公爵令嬢の面影を木っ端微塵に砕き散らしたリリアンだった。
豪華なドレスはどこへやら、彼女が身に着けているのは、裾を短く切り詰めた地味な旅装だ。
それだけならまだしも、足元には頑丈な革のブーツ、そして腰には無数のポケットがついた特注のベルトが巻かれている。


「どこでそんな『村の少年A』みたいな服を手に入れたんですか」


「昨夜、寝る間を惜しんで侍女たちの予備の制服を改造したのです。このベルトのポケットには、算盤、方位磁石、メモ帳、そして緊急食料の乾パンが完備されています。これでいつ遭難しても、私は三日間は生存し、かつ正確な緯度経度を算出できますわ」


リリアンは誇らしげに胸を張った。
風に揺れる髪は、動きやすさを重視して高い位置で適当にまとめられている。


「令嬢としての矜持はどこへ捨ててきたんですか……」


「そんな非生産的なものは、王都のゴミ捨て場に置いてきましたわ。見てください、ギルバート! この足の軽さ! この可動域の広さ!」


リリアンは、街道の真ん中で突然、軽快なステップを踏み始めた。
それは舞踏会で踊る優雅なダンスではなく、野生の鹿か何かが跳ね回っているような、生命力に溢れた動きだった。


「素晴らしい……! 空気が肺に直接届くようですわ! これが、これが『自由』の酸素濃度なのですわね!」


「お嬢様、テンションが上がりすぎて怖いです。早く馬車に戻ってください。街道を行く商人が見たら、頭の可哀想な令嬢が捨てられたのだと勘違いされます」


「勘違いさせておけばよろしいですわ。無駄な接触を避けるためのステルス機能だと思えば、この格好はさらに価値を増します。さあ、ギルバート。私はこのまま、領地まで走って行きたい気分です!」


「却下です。大人しく乗ってください」


ギルバートは半ば強引にリリアンの首根っこを掴むようにして、馬車の中へと押し戻した。


馬車が再び動き出す。
先ほどまで不機嫌そうに帳簿を睨んでいたリリアンは、今や窓の外を流れる景色を見て、瞳をキラキラと輝かせている。


「ねえ、ギルバート。あの山の斜面、日当たりが最高ですわね。あそこに段々畑を作れば、収穫量は現在の二割増し……いえ、土壌改良を加えれば三割はいけるかしら」


「……まだ公爵領に入ってもいないのに、よその土地を勝手に開発しないでください。訴えられますよ」


「効率の悪い土地活用を見ていると、私の脳内の計算機がエラーを起こすのです。ああ、早く私の領地が見たいわ。あそこには、私の愛する『未開拓の可能性』が詰まっているはずですもの」


リリアンは拳を握りしめ、まだ見ぬ大地に思いを馳せた。
彼女にとっての幸せとは、誰かに愛されることでも、豪華な食事をすることでもない。
自分の手で、この世界の「無駄」を一つずつ排除し、最適化していくこと。


「お嬢様。一つ聞いていいですか?」


「何かしら、ギルバート」


「お嬢様は……その、セドリック殿下のことは、本当になんとも思っていないんですか? 十年間も婚約者だった相手ですよ。少しは悲しいとか、寂しいとか……」


リリアンは不思議そうに小首を傾げた。


「悲しい? なぜです? 壊れた計算機をようやく処分できて、最新モデルに買い替える権利を得た時に、誰が泣くというのですか?」


「殿下を計算機扱い……。まあ、故障していたのは間違いありませんが」


「彼は、私の演算能力を浪費させるだけのノイズでしたわ。これからは、私の全リソースを領地と……そうね、あなたという『有能なハードウェア』に注ぎ込むことができます」


「俺をハードウェア呼ばわりするのはやめてください。一応、心のある人間ですよ」


「分かっていますわ。だからこそ、大切にメンテナンスして差し上げます。私の計画には、あなたの頑強な肉体と忍耐力が不可欠ですから」


リリアンは、悪戯っぽく微笑んだ。
その笑顔は、王都で「氷の令嬢」と呼ばれていた頃の冷たい美しさではなく、子供が新しい玩具を見つけた時のような、純粋で恐ろしいほどの熱を帯びていた。


ギルバートは再び深い溜息をつき、御者に速度を上げるよう指示した。
リリアンの自由奔放な旅路は、まだ始まったばかりである。
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