婚約破棄、ありがとう!二度近づかないでください!

鏡おもち

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馬車が中継地点である宿場町「カルナ」に到着した。
王都と地方を結ぶ交通の要所だけあって、通りは商人や旅人でごった返している。


「お嬢様、この町で一晩泊まります。勝手にどこかへ行かないでくださいよ。今のその格好、公爵令嬢だとは誰も信じませんから、何かあっても守りきれません」


ギルバートが馬を繋ぎながら釘を刺す。
だが、リリアンの耳には彼の忠告の半分も届いていなかった。
彼女の視線は、通りに並ぶ露店の値札や、行き交う荷車の積載量に釘付けになっていたからだ。


「……信じられませんわ。この町の物流、非効率の極みですわね。あの荷車、車輪の直径があと五センチ大きければ、石畳の段差による減速を三割は軽減できるはずですのに」


「また始まった。お嬢様、今はバカンス……じゃなかった、追放の旅ですよ。少しは羽を伸ばして、名物の串焼きでも食べたらどうです?」


「食べ物の話なら、あちらのパン屋の価格設定の方が気になりますわ。小麦の相場に対して、販売価格が二ペニー高い。これは店主の怠慢か、あるいは中間業者の搾取……。調査の必要がありますわね!」


リリアンは、ギルバートが止める間もなく、人の波へと突っ込んでいった。
地味な旅装に身を包んだ彼女は、群衆の中に紛れると、まるで獲物を探すハヤブサのような鋭い動きで歩き回る。


メモ帳を片手に、ぶつぶつと計算を繰り返しながら早歩きするリリアン。
「歩行速度を時速四キロから五キロに上げれば、市場全体の視察時間を十二分短縮できる……」
そう確信し、彼女が角を曲がった、その瞬間だった。


ドォォォォォン!


という、令嬢が立てていいはずのない衝突音が響いた。


リリアンは、目の前に現れた「動かざる壁」に正面から激突した。
普通の令嬢であれば、ここで悲鳴を上げて尻餅をつき、涙ぐみながら相手を見上げるだろう。
しかし、リリアンは違った。


「痛覚神経への刺激、推定三ポイント。……それより、運動エネルギーの法則に基づけば、私がこれほど弾き飛ばされないということは、相手の質量が私の三倍以上……!」


彼女は衝撃でよろめきつつも、素早く片足で踏ん張り、物理学的に最も安定した姿勢(低重心)を保って立ち尽くした。
そして、目の前の「壁」を見上げた。


そこには、一人の男が立っていた。
無造作に整えられた黒髪に、射抜くような鋭い青い瞳。
身に纏っているのは地味なマントだが、その下から漏れ出る圧倒的な「強者のオーラ」と、鍛え上げられた胸筋の厚みは隠しようもない。


「……おい。大丈夫か、あんた」


男が低い声で問いかけてくる。
その声には、深い湖のような静謐さと、隠しきれない高貴さが混じり合っていた。


リリアンは、相手の顔が「驚くほど整っている」という事実を、瞬時に脳内の「資産価値リスト」に登録した。
だが、彼女が口にしたのは、甘い愛の言葉ではなく、損害賠償の請求だった。


「失礼いたしました。衝突の際、私のメモ帳の角が折れました。このメモ帳は特注の高級紙を使用しており、一枚あたりの単価は……。また、私の歩行リズムが乱されたことによる時間的損失は、現在の私の分給に換算すると――」


「……は?」


男は、呆気に取られたように目を見開いた。
路地裏で美女(格好は地味だが)と衝突し、開口一番に「分給」の話をされたのは、彼の人生でも初めてのことだったらしい。


「待て。あんた、怪我はないのか? 普通の女なら、今のは転んで泣いているところだぞ」


「怪我? 骨折の疑いはゼロ。筋肉の打撲も、今の心拍数と血流から見て軽微ですわ。それよりも、あなたのその立ち位置です。通りの曲がり角から三十センチ内側に立っているのは、流体力学的に見て衝突確率を五〇パーセント引き上げる愚策です。次からは外側に立つことを推奨しますわ」


リリアンが人差し指を立てて説教を始めると、男は思わず吹き出した。


「っははは! 流体力学? 衝突確率だと? ……面白い女だな、あんた。王都の令嬢共は、ぶつかれば運命だの恋だのと騒ぎ立てるが、あんたは算盤を弾くのか」


「運命で腹は膨らみませんわ。……ところで、あなたのその筋肉。少し失礼」


リリアンは、躊躇なく男の胸板に手を伸ばした。
指先でその硬さを確かめ、納得したように頷く。


「素晴らしい密度ですわ。これほどの筋肉を維持するには、一日に最低でも四千キロカロリーの摂取が必要なはず。……あなたは、ただの旅人ではありませんわね? これだけの『動力源』を遊ばせておくのは、国家的な損失ですわ。どうです、私の領地で開墾作業に従事しませんか? 時給は応相談、福利厚生としてリンゴパイの支給を約束しますわよ」


「……スカウトか? 俺を?」


男が面白そうに目を細めた、その時。


「お嬢様ぁぁぁ! 何やってるんですか、こんなところで!」


背後から、血相を変えたギルバートが駆け寄ってきた。
彼はリリアンと見知らぬ男が密着(リリアンが一方的に胸筋を触っているだけだが)しているのを見て、一瞬で顔を強張らせた。


「ギルバート、ちょうどいいところに。見てください、この素晴らしい人材を。彼を私の『開拓部隊・重機担当』として採用したいのですけれど」


「何を言ってるんですか! ……っ、あんたは……」


ギルバートの視線が、リリアンの前に立つ男と交差した。
一瞬、二人の間に火花が散るような、張り詰めた空気が流れる。


「……知り合いか、ギル?」


男が、どこか親しげにギルバートを呼んだ。
リリアンは、脳内のデータベースを高速で検索する。
(ギル? 私の護衛騎士を愛称で呼ぶなんて。……さては、彼も以前の職場の同僚かしら?)


「いいえ、お嬢様。ただの……腐れ縁の男です。おい、こんなところで油を売ってないで、さっさと自分の仕事に戻れ。この人は俺の雇い主だ。手を出したら承知しないぞ」


ギルバートの声には、いつにない焦りと警戒が含まれていた。
男は肩をすくめると、リリアンに向かって優雅に一礼した。
その仕草は、どんなに隠そうとしても、一流の教育を受けた貴族のそれだった。


「失礼したな、嬢ちゃん。……いや、リリアン・ヴァン・アシュクロフト公爵令嬢。噂以上の変人……いや、傑物だ」


「あら、私の名前を? 有名税の支払い通知はまだ届いておりませんが」


「……はは、また会おう。その時までに、パイの味を改良しておくんだな。もっと高カロリーなやつを期待している」


男は風のように背を向けると、雑踏の中へと消えていった。
リリアンはその背中を見送りながら、残念そうに溜息をついた。


「逃げられてしまいましたわ。あの筋肉があれば、領地の岩盤掘削も一週間は短縮できたはずですのに」


「お嬢様……。今の男が誰か、本当に分かっていないんですか?」


「ええ。顔は良かったですが、生産性のない会話を好むタイプの男でしたわね。……それよりギルバート、お腹が空きましたわ。先ほどのパン屋へ戻りましょう。価格交渉の余地は十分にありますわよ!」


リリアンは再び颯爽と歩き出し、ギルバートは深いため息をついて天を仰いだ。


彼は、自分の「主」が、隣国の第三王子であり「戦場の死神」と恐れられるギルバートの兄貴分――ギルバート・レインワース本人(の変装)を、ただの『人力重機』として評価した事実に、頭を抱えるしかなかったのである。


リリアンの自由な旅路に、新たな「ノイズ」が混じり始めた瞬間であった。
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