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霧の谷
しおりを挟む谷は、一面に立ちこめた深い霧に覆われていた。
天と地の狭間に、廻り廻る風をじっと見つめて――
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霧の立ちこめる深い森、
その木立に囲まれた泉のほとり。
苔むした切り株に少女は座り、
一人、木の横笛を吹く。
微風になびく焦茶の髪は森の古木に融け、
その音色は立ちこめた霧に融けゆく。
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霧の立ちこめる深い森
牧草なだらかに、また時に荒涼と広がる緑の大地
巨石の十字碑と半壊した石壁を風に晒す廃僧院
そして、地の彼方には荒波打ち寄せる絶壁の海岸線。
賢者と妖精の島――
西の果てのこの島国は、かつてそう呼ばれていた。
* * *
透き通った日差しの注ぐ街に、聖堂の鐘が鳴り渡る。
高らかなオルガンの一声に続き、聖堂は荘厳な聖楽の響きに震えた。
複雑に絡み合う四部合唱に、リコーダー、ヴィオール、リュート、ハープ……みな一様に臙脂のベレーと白いローブをまとった少年少女、聖堂付属学院の生徒達だ。
粛々と、時に力強く、また安らぎに満ちた響きが、代わる代わる聖堂を満たす。
そして、素朴で哀愁を帯びた讃美歌の和声が、聖楽を静かに締めくくる。
穏やかな夕日の差す街を、晩鐘がリレーし鳴り渡る。
聖楽の演習を終えた子供達がはしゃぎながら聖堂を出て、めいめい街に散ってゆく。
「じゃあね、リアン!」「うん、また来週!」
古びた小竪琴を脇に抱え出てきた少年は、友達と別れると、一人聖堂脇の道端に腰を下ろした。
薄汚れたベレー帽を足元に置くと、誰に聴かせるとなしに弦をつま弾きはじめる。実際、足を止める者もそうそういない。
聖堂前の広場や立ち並ぶ商店の店先は、色とりどりの垂れ幕やカボチャのランタンで飾られ、万聖節の近づいたことを知らせる。
装飾をまとい立ち並ぶガス灯の行列と、舞い散るイチョウの葉をくぐって、あたかも凱旋パレードのように行き交う馬車や路面汽車。
いつの間にか肌寒くなった夕風が石畳の落ち葉を揺らすが、街行く人々の表情は心なしか祝祭めいた活気がある。
「こんな夕暮れまで街頭演習かい? リアン君」
ふいに葡萄色のローブが揺れ、少年の前で立ち止まる。
「コナル先生!」
眼鏡の奥の翠の瞳に微笑を湛えた中年の紳士が、ローブの懐から紙袋に入ったスコーンを取り出し、少年に差し出す。
「どうも! こんど万聖節の聖楽に出るんです。それに、クリスマスに帰るまでに少しでも稼いでおきたいし」
少年リアンも微笑み返し、脇に楽器を置いて立ち上がる。
「里帰りか……そう、私ももう去らなくてはいけない。もう少し君と話したかったが」
「え……そうなんですか」
リアンはスコーンを頬張ろうとした手をはたと止めたが、続けて出来る限りの微笑みで答えた。
「今夜の汽車で里に帰ることにしたよ。――もしこのあと暇ならば、研究室に寄ってくれないかい? 発つ前にゆっくり話したいからね」
返事を忘れて立ちつくすリアンを置いて、男は黒い大きな角帽子を軽く摘みあげて会釈し、ゆっくりと立ち去った。
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半年ほど前のことか。道端でライアーを弾くリアンに、珍しく足を止めて興味深そうに聴き入る客がいた。
男はまず、曲の由来を訊ねた。
普段は聖楽隊で教わる聖楽や練習曲をレパートリーにしているが、真面目な客に気をよくして、その日はふとお気に入りの曲を弾いて聴かせた。故郷の民謡だと思うが、幼い頃から心に残っている曲だった。男が口を開いたのは、ちょうどそれを弾き終えた時だった。
その日からほどなく、リアンは思いがけず身近な場所――学院の図書館で、見覚えのあるローブ姿に整った黒髪の男と再会した。
コナルと呼ばれているその紳士は、この国の制度により各地の学院を渡り歩く巡歴学者で、数日前からリアンの通う学院の研究部に詰めているという。
やがて、図書館や研究室にコナル氏を訪ねるのが、すっかりリアンの楽しみになっていた。珍しい植物、見知らぬ異国など、彼はリアンの好奇心をかき立てるさまざまな話をしてくれるからだ。中でも古の物語に、リアンは強く心惹かれた。神々や英雄、妖精達、そして高徳の賢者や風雅な吟遊詩人――。幼い頃に聞いた古の詩人の話に憧れて、リアンは竪琴弾きを志したのだった。
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「こんなにすごいものを作ったゲールの王国は、どうして滅んじゃったんでしょうね?」
神秘的な装飾が施された古文書の写本を眺めながら、リアンはふと訊ねた。
この島はかつてゲールと呼ばれる民の国だった。いつしか隣島の強大な王国の支配を受けるようになり、今は往時の言葉も大部分の風習も残っていない。この国の者なら誰もが多少なりとも知っている歴史だ。
「ゲールは滅んでなんかいないさ、今もこの地に暮らしている。君も聞いたことがあるだろう?」
机で書類をまとめながら、コナル氏は答えた。
今でも島の辺境にゲールの言葉を残す地域があるということも、わりあい知られたことだ。だがそこでも多くの伝承は失われ、わずかな名残を留めるに過ぎない。
「見てみたいかい? ――都合のいいことに、私の故郷もその一つなんだが」
一口含んだ紅茶のカップを置きながら、やや含みのある口調でコナル氏は言った。
予想外のコナル氏の言葉に、リアンは一瞬返す言葉を詰まらせたが、とっさにもう一つの驚きを口にした。
「それじゃあ、コナル先生もゲールの末裔なんですか⁉」
「驚くことはない、この島の民は誰しも、多かれ少なかれゲールの血を引いているんだ。そう、きっと君だってね」
リアンの故郷でも昔はゲールの言葉が残っていたと聞くが、十年ほど前、親とともに物心も付かないころ街に出てきた彼には、異国の噂話のようにしか感じられなかった。
しばし言葉を失っているリアンの横で、コナル氏は便箋とペンを取り出し、何か書きつづった。
「これにサインして届け出れば、君はしばらくのあいだ堂々と学校をさぼれる――少々長めの万聖節休みだ。もちろん、単位だって心配ない」
少しいたずらっぽい微笑とともに差し出された紙は、コナル氏の正式な助手として調査に同行する証書だ。
「は、はいっ! あ、でも僕まだジュニアクラス……」
あたふたしつつもペンをつかみ、インク壺をひっくり返したりしているリアンに、拾ったペンを渡しながら、また微笑みを含んだ顔でコナル氏は言った。
「いささか異例かも知れないが、学則では問題ないはずだよ。事務所が閉まるまでに考えるといい――あまり多くの時間はないがね。それと、これを持っておいておくれ」
懐からコインを二枚取り出し、リアンに手渡す。いびつな鋳銀の玉には不思議な模様。それは、ここ研究室で以前見せてもらった古代の銀貨を思わせる。
「……はい!」
動揺してはいるが、リアンの決意はとっくに固まっていた。コナル氏もそれを悟っているのだろう。
「二十三時に中央駅で」
差し出したコナル氏の掌を、リアンは固く握り返した。
真夜中の中央駅は人の気配もなく、巨大な赤レンガの駅舎は冷たい静寂に包まれていた。
照明もおおかた落とされ、壁のガス灯だけが点々と薄暗く灯っている。
リアンはそれを辿るように、恐る恐る歩いていった。夜行といってもこんな遅くに出る汽車があるのだろうかと、不安の混じった疑問が湧いた。
と、入り組んだ駅舎の奥に揺れる灯りと人影を見つけた。少し駆け足で近づいてゆく。
郵便列車搬入口の角を曲がると、駅員の姿があった。
「Oíche mhaith――こんばんは」
駅員――茶色のひげを蓄えた大柄な男が、カラスウリのつるの絡まったカンテラを手にしてリアンを見下ろし、何か聞き慣れない言葉とあいさつを掛ける。
そしてその奥のホームには、アーチ天井に点々と吊されたかがり火に照らし出されて、一輌の汽車が煙を吐いていた。
「あー、切符はお持ちで?」
しばし言葉を失っていたリアンに、駅員が太い声を掛ける。
リアンははっとして二歩あとずさり、無意識にコートの胸元をつかむ。と同時に、掌から銀貨が滑り落ち、足元で鳴った。
あたふたと銀貨を拾い上げるリアンを見下ろし、駅員は鞄から切符を取り出して切る。
「片道一枚でよろしいですかな?」
立ち上がったリアンの目の前に、白い手袋の大きな手と切符が差し出される。
「えっと……」
呆然とするリアンの銀貨を持った右手に、駅員は視線を落とす。
リアンは恐る恐る切符を受け取り、代わってその手に銀貨を渡す。
「お気を付けて」
駅員は脇の鉄柵をがしゃんと開く。
リアンは戸惑いながらも、ゆっくりとした足取りでホームへと入っていった。
ホームは意外にも、待ち合わせの客で賑わっていた。みなフード付きマントやショールを羽織った古風ないでたちで、くりぬいたカラスウリの灯明を手にしている。そして交わされる聞き慣れない言葉。
まばらな人混みの中から見覚えのある葡萄色のローブ姿を見つけるのは、さほど苦労しなかった。
「コナル先生!」
「リアン君。寒かっただろう、飲みなさい」
キヨスクの店先から振り向いたコナル氏は、温かい瓶牛乳を差し出した。
「コナル先生、その……」
リアンは訊ねたいことだらけで、いっぺんに言葉が出てこなかった。コナル氏は顔の前に指を立てて言った。
「今夜は遅い、話はまたゆっくりとしよう。さて、もうじき発車する――ああ、手洗いなら車内にもあるよ」
歩み出した足を一瞬止めて振り向き、にこりと微笑むコナル氏。そして微笑み返し、後に続くリアン。
深夜のホームに汽笛が鳴り響いた。
* * *
谷は、一面に立ちこめた深い霧に覆われていた。
荒涼とした岩場と灌木ばかりが続く峠を馬車で登り切ると、霧の谷をはるかに見渡す展望が眼下に開けた。
明け方に降り立った駅からは、途中の里ごとに何度か乗合馬車を乗り継ぎ、この人里を遠く離れた峠に至っては相乗りの旅人も僅かばかりとなっていた。
下り斜面の峠道を降りゆくにつれ、谷間の景色が開けてゆく。
ここに至るまでの広漠とした草地や荒野とは打って変わり、霧をたたえた谷間の湖を、うっそうと古木の生い茂る深い森が取り囲んでいる。
静まりかえった湖の畔、あたりを囲む深い森に融け込むように同じ色のたたずまいを見せる里があった。
斜面に築かれた小さな牧場や畑、それを囲う積み石の塀、そして干し草や木端で葺かれた木組みの家々。それぞれの軒に吊されたランタンの灯りが、まだほの暗い朝霧の中にぼんやりと点っている。
小川に架かる屋根付橋を渡って里にさしかかった馬車の中で、リアンはしきりに幌の外の景色を眺めていた。目は見開いていても、まるで夢心地だった。
「ここが、コナル先生の故郷……」
「ああ、もうじき着くよ。――不思議かい?」
コナル氏の差し出した水筒を受け取り、リアンはこくこくと頷いた。
村の広場で止まった馬車を降りた頃には、霧も視界を妨げない程度に薄れてきた。
広場の一角にひときわ目立つ石組みの建物が目に付いた。古風な教会建築に似ているが、古代遺跡のような不思議な模様や人の像が刻まれた壁のレリーフが、見慣れぬ神秘的な雰囲気を放っていた。
「あれは教会ですか?」
「ああ、あれはドルイドの神殿だよ」
コナル氏の返事に、リアンは耳を疑った。
神話に詠われる森の賢者、ドルイド。古の神々に仕える神官にして、深い知性をもってゲールの民を導く高徳の賢者を指す称号。大陸から教会の教えが伝わってからは、古の神々とともに消え去ったと聞き覚えている。それが……。
「そうだ、まだ言っていなかったね。このあたりにゲールの名残りの里ならいくつもあるが、ここは一味違う。ドルイドの教えと古の神々『ダナン神族』の祭祀、そして古いゲールの伝承をありありと伝え残しているんだ」
目を丸くして神殿の壁をしきりに撫で回すリアンを、コナル氏は眺めて微笑み、一瞬目を遠くへやった。
「それに、少し昔まで妖精だって住んでいたんだよ」
言うと、彼はいつもの含み笑顔を見せた。
リアンは少しつたなく微笑み返した。その時はまだ、その言葉を冗談としか思わなかった。
「サウィン祭――教会では万聖節と言ったね。近頃は私のようにひっそりと街に暮らす同胞達も多いが、ゲールの暦で年の始まるこの祭りの時には、一斉に故郷へと帰ってくるんだ」
「十一月が年の始まり? 葉っぱも落ちてこれから冬になる……終わりみたいな季節なのに」
「終わりこそ始まり、そういう考えもあるだろう? ゲールの暦ではまた、一日は日没をもって始まるんだ。教会暦も同様」
話しながら段差に組まれた家々や牧場の間を抜け、森の端に近い高台まで上ると、ひときわ大きな屋根を連ねた屋敷が、森を背にして里を見下ろすように建っていた。
「代々ドルイドを受け継ぎ、この里の宗家ともいえる、コナル家の屋敷だよ」
「――ってことは……」
言葉につかえたリアンが続きを訊ねる前に、
「そう。私――アラン・オ・コナル――の生家でもある」
コナル氏は答え、ランタンの点った木の門を入った。
屋敷の脇の薬草畑には森から流れ出る沢の水を引いた水路が流れ、斜面を割いた石垣の上には、木組みに土と石の壁、そして分厚い杉皮葺きの屋根を戴いた、大きな屋敷がそびえ立っている。
門の正面の建物を入る。黒く燻されたオーク材の柱や梁が、吹き抜けの土間なのでよく見える。かまどには大きな釜がかかり、所狭しと並んだ木棚には、乾したりウイスキー漬けにした薬草の瓶が並んでいる。
階段を上がり戸を入ると、広い応接間だった。
「ちょっとそこで待っていておくれ」
コナル氏はリアンを残し、奥の部屋へと入っていった。
年季の入った柱や壁には立派な木彫りが施され、素朴ながら風格を感じる。そんな大昔を思わせる雰囲気の中、大陸製の蓄音機や精巧な柱時計など「文明の利器」も置かれていた。
ふと、ほこりを被って部屋の隅に置かれた一台の古めかしいハープが目にとまった。
やや褪せた琥珀色の胴には、複雑に絡み合って無限に続く蔓草のような模様が彫り込まれている。
しばらくじっと見つめていたリアンは、そっと手を伸ばし、軽く弦をつま弾いてみた。
かすかな、深みのある音が、静まりかえった部屋に響く――。と、不意に戸をひねる音がそれを打ち消した。
リアンはびくりとして手を引っ込め、音の方へ振り向いた。奥の戸口には、灰色のひげをたくわえ、ゆったりとしたガウンをまとった初老の男が立っていた。
「ごっ……ごめんなさいっ!」
とっさに出た言葉と同時にあたふたとお辞儀をするリアンに、男はつぶやくように声を掛けた。
「竪琴を弾くと聞いたが――それを弾けるかね」
「は、はいっ、やってみます!」
リアンはまたびくびくっとして答えると、場を取り繕うように素早い手つきで、ぽろぽろと弦をつま弾いた。
「ん、少し狂ってますね……こうして、っと」
手早く調子を合わせながら、即興で短い曲を弾く。
そっと振り向くと、男は威厳あるまなざしを向けたままだ。リアンはひやっとしてハープに向き直り、どきどきしながらまた弾き始めた。
男は椅子に腰を下ろし、じっと耳を傾けている。
森のようにどこまでも深い音色が響き渡る。弾くほどに魅せられる音色に、やがてリアンの緊張も解けていた。
ふと、半開きの窓から女の子がじっと覗きこんでいるのに気づいた。
少女は、ハープを弾く手をまじまじと見つめ、その音色に深く聴き入っているようだった。
視界の先の遥か遠くを、じっと静かに見つめるような、不思議な深みを湛えた瞳――
ふとリアンの視線を察した少女は、数秒目を合わせると、窓の陰にさっと身を潜めてしまった。
代わって、戸口からコナル氏がそっと入ってきた。
続いて、家族らしき子供たちや婦人が、一人また一人と顔を覗かせる。
やがて広間には大家族が一同にそろい、小さな子供から猫まで、誰もがリアンの演奏にじっと目をこらした。
「ちょっと鈍ってますが、いい楽器です!」
弾き終えてしばらく余韻に耳を澄ましていたリアンは、振り返ると持ち前の屈託ない笑顔で言った。
「なかなか見事な腕前だ、小さな竪琴弾きよ」
男はゆっくりと立ち上がり、リアンに声を掛けた。
「申し遅れたが、ようこそホイル・ウォアの里へ。私は彼アランの兄にしてここコナル家の当主、グレンだ」
男は隣のコナル氏を掌で指しながら、コナル家の一族に囲まれて赤くなっているリアンに言った。
「手洗いは以上五カ所。この階段を上ると、正門から見て三階、居館から見て二階にあたる。……そしてこの突き当たりが君の部屋だ」
「うーん……は、はい」
コナル氏にざっと案内されても、広く複雑な屋敷を迷わず行き来するにはもう少し時間がかかりそうだ。
「村人の訛りは強いが共通語は大抵通じるので、あまり不自由しないだろう。学問をたしなむ人なら古代語も覚えがあるだろうね」
「あ、古代語なら学院で少しだけ習いました!」
根が好奇心旺盛なリアンだが、今やすっかり好奇心が不安に勝っている。
「私は森の小屋に泊まるが、昼間はこっちに来る。不思議だらけだろうが、少しずつ話そう。書庫も覗くといい。それと、なにより自分の目で多くを見ることだね」
わずかな荷物を部屋に落ち着けると、リアンは一人で探検してみることにした。
表へ出るのに屋敷内で小さな冒険をしたり、覚えたばかりの土地の言葉で挨拶して通りすがった農夫に不審がられたりしながら、村外れの丘までやってきた。
眼下には里の家々と湖が見渡せ、クローバーの野原の向こうには森が続いている。
と、遠くからかすかな笛の音が耳にとまった。
誰だろうと気になったリアンは、音を探って森の方へ近づいていった。
森と野原の際に、草をはむ仔山羊たちを前にして木陰に座り込み、独り木の横笛を吹いている女の子がいた。
リアンより三、四歳年下だろうか。森の古木のような深い焦茶の髪に、ふんわりと風になびくエプロンドレス。リアンがコナル邸の応接間でハープを奏でたとき顔を覗かせた、あの少女に違いない。
ふと少女が振り向き、やや遠巻きに眺めていたリアンと目が合う。
「こ、こんにちわ! えっと……Dia dhuit!」
「ん……?」
あたふたと挨拶するリアンを、不思議そうに首をかしげて見つめる少女。その深緑色の瞳は、やはりどこか現実離れしたような、不思議な雰囲気を帯びていた。
「えっと……ごめん、邪魔しちゃった? 続けてっ」
「んー……」
相変わらずぽーっとしている少女。まだ子供なので、共通語がわからないのだろうか。
「――その……邪魔じゃなければ、もうちょっとだけ聴かせてもらってもいいかな?」
「……ん」
リアンは笛を吹くジェスチャをしながら、もう一度声を掛けてみた。なんとなく通じたのか、少女は視線を手元に戻すと、隣のリアンを意に介さぬかのように、また黙々と吹き始めた。
揺れるリズムは、決して楽団のように流麗ではないが、素朴な音色には不思議な深みがあった。
ふと思い立ち、リアンは携帯している小竪琴をかばんから取り出し、フルートの旋律に合わせてそっとつま弾いてみた。
少女がちらりと振り向く。軽く微笑んだリアンに別段反応を示さず、また視線を戻す少女。
丘の草にお互い前を向いて座ったたまま、一見めいめい奏であう二人。
しかしやがて、ぴったりと息が合い心地よいリズムを刻んでいた。
一曲を吹き終えると、少女はまた不思議そうにリアンの方を振り向いた。
「えっと、僕はリアン。キミは?」
「リアン……?」
独り言のような反応はあったが、通じたのかどうか、どうもわからない。リアンはふと思いつき、教会の聖句や学術書に使われる大陸の古代語を口にしてみた。
「ええと……『な・ま・え』?」
「ん…………クルト」
通じたのだろうか、それらしき反応が返ってきた。
「クルト……キミはクルトって言うんだね?」
「ん……」
こくりと頷く少女。
よくわからないけど、なんとか通じたのかな。と、リアンは思った。
と、少女は薄曇りの空に目をやり、雨でも確かめるように掌を上にかざした。そして、すくっと立ち上がる。
「ん、どうしたの?」
一匹の山羊を導くように少女が歩き始めると、仲間も続いて歩み出した。
ついて行っていいものかときょろきょろしているリアンに気づいてか否か、少女は一瞬振り向いて目線を送り、また丘を下ってとてとてと歩き出す。
少しとまどいながらも、リアンはあとを追ってみた。
丘の下にコナル邸の大きな屋根が見えてきた時、少女は不意に前を向いたまま、小さな手を大きく振り、初めて明るい笑顔を覗かせた。そして再び歩き出した足は、確かに軽やかになっている。
「え? え??」
きょろきょろしながらあとを追ったリアンは、三十歩ほど足を進めたあたりで目を凝らしてようやく、屋敷の庭で手を振るコナル氏の姿を遠目に見定めた。
「えっと……『お父さん』?」
「んっ……!」
リアンは駆け足で少女の横に追いつくと、古代語で聞いてみた。微笑んだ顔を前に向けたまま頷く少女。コナル氏の娘なのだろうか。
屋敷の裏庭門に山羊たちを導き入れると、少女は森の方へと歩き出した。
「あれ、そっちに行くの……?」
「山小屋」
リアンが訊ねると、少女は森の奥を指さして言った。
初めて返ってきた共通語の返事を聞いて、少しは分かるのかな、と考えつつ、リアンはあとに続いた。
霧が立ちこめ、昼なお神秘的な静けさに満ちた深い森。霧は分け入るほどに深まり、やがて小雨が降り始めた。
ときおりふと道端の野草を摘みながら、小川沿いの山道を身軽に進む少女。
杉の木立に囲まれて、古びた丸太組みの山小屋が一軒あった。森の空気に混じり、薪の煙の香りが漂う。
「ここ」
少女は小屋に向かいながら、指をさして言った。
「ここがクルトの家?」
「ん」
少女は小屋の木戸を開けると、リアンを促すように振り向いた。
「あ、うん。おじゃまします……」
リアンは少女に続いてゆっくりと入った。
居間には夫妻らしき二人の老人が座っていた。
『お帰り、クルト。お友達かい?』
振り向いた老婆は、そんなことを言ったように見えた。
「リアン」
リアンのコートの袖を軽くつまんで答える少女。
「あ、こんにち……えっと、Dia dhuit!」
「ふむ、君がアランの助手の竪琴弾きじゃな?」
白いひげを蓄えた老人も、リアンを見て声を掛けた。
「あ、はい! リアンです、初めまして!」
「鳩の便りで話は聞いて待っておった。アランはわしらの末息子、そしてその子――クレントーナは孫娘じゃ」
「ゆっくりしておいで、今お茶を入れるからねぇ」
老夫妻が声を掛ける。少女に袖を引かれ、リアンもソファに座った。
「ほう、古代語での。小さいのに本は何でも読むので共通語だって解するじゃろうに、どうもあまり話したがらんようじゃの」
「根から他人とはろくに話さない子だけどねぇ」
「そうなんですか。てっきり言葉わからないんだと思ってたよ、クルト」
「ん……?」
「ていうか、もしかして古代語の本とかも読むの⁉」
「ん。リアンも本、好き?」
「うん! でもえっと、古代語のは読めないかも……」
ハーブ茶と干苺入りのケーキを囲み、打ち解けて話す四人。もっとも、少女――クルトは相変わらずマイペースだった。リアンの横に座り、摘んできた草花を片手に一人まじまじと植物図鑑をひもといている。道草遊びかと思っていたそれらが全て薬草だったと先ほど知り、リアンは感心させられた。
と、クルトは不意に本を置くと立ちあがり、戸口の方へ駆けていった。続いて、木戸を開く音が鳴った。
「ああクルト、ただいま。また大きくなったね」
そして、リアンにも聞き慣れた声がした。
「コナル先生!」
「リアン君。そのうちここにも案内しようと思っていたが、私より早く着いたとはね」
コナル氏は、ローブの裾にしがみついたクルトの髪を優しく撫でながら、笑顔で言った。
つかみどころがなく、しかしあどけない見かけによらず芯はしっかりと賢そうに見えたクルトだが、父親に甘える姿はやっぱり一人の子供なんだな、とリアンは微笑ましく思った。
いつの間にか雨は上がり、日も暮れかけていた。
「あ、いけない! 僕もう帰らなくちゃ……」
「ああ、心配は要らないよ。下には言ってきた、今夜はここに泊まるといい」
「もし気に入ったなら、今夜といわず泊まっておゆき」
慌てるリアンに、コナル氏に続いて老夫人も言った。
「……」
クルトも、何か覗うように父親を見上げている。
「それじゃあ……お世話になりますっ!」
リアンは元気よく、老夫妻に会釈をした。クルトも、父に向かってくすっと微笑んでいる。
「人見知りなクルトがこんなに気を許すとは。いい友達ができてよかったね、クルト」
「ん?」
コナル氏も微笑ましそうに娘を眺めた。
:
:
賢者と妖精の島――
西の果てのこの島国は、かつてそう呼ばれていた。
はるか昔、この地に神々が棲み、やがて人が住んだ。
神々は人に地を譲り、恩寵を与えることを約して、常世の国へと去った。
ひきかえに人は神々を畏れ敬い、その名を語り継ぐことを約束した。
神々の見守る下、賢者や騎士達の王国が栄えた。
しかし、次第に人の心は神々から離れ、現世に及ぼす神々の力と恩寵は薄れていった。
やがて新たな民が侵入し、理性の名を持つ「唯一の神」が奉られ、血と略奪に地は穢された。
忘れ去られた古の幻想の神々は力を失い、その末裔や僕――妖精は、もはや忌み遠ざけられる存在へと貶められた。
神々の世は去り、神々の民の世もまた去った。
霧の谷に抱かれた一つの里を残して――
「――おや、クルトは眠ってしまったようだね」
詩を詠むようなコナル氏の語りを聞くうちに、クルトはいつの間にか父の膝元にもたれて寝息を立てていた。
夜の静けさと暖炉の温もりも手伝って、リアンも夢うつつになっていた。
「クルトって一人でいる時はしっかり者だけど、コナル先生には本当に懐いてるんですね」
「私がいない間はずっとこの山小屋に三人暮らしで、寂しい思いをさせているからね……」
リアンは夕方から考えていた一つの疑問を思い出す。
「この子は物心つく前から、母親を見たことがないんだ」
続くコナル氏の言葉は、それに間接的に答えていた。
「そう……なんですか」
一口飲みかけたマグカップを止め、リアンは脇に目を落とした。
コナル氏の腕の中で、クルトは心から安らいだ顔をしていた。
* * *
この世とあの世、人の地と神々の境、
移ろうものと永遠なるもの――
地と時の交わりあうサウィンの夜
森はざわめき、土は鳴り、
そして時は廻ってゆく――
森に響く歌声と、小道を行く二人。
歌を口ずさみながら踊るようにステップを刻んで歩くクルトと、腰元に提げたライアーをかき鳴らしながらそれに続くリアン。クルトともだいぶんうち解け、この里の民謡もたくさん覚えた。
クルトはふと足を止めると、古木に近寄り立ち止まって、その木立をじっと見上げる。
しばらくそうしてから、気を取り直したようにまた歩き出す。そんな姿を、クルトは時折見せる。
「ねえクルト、さっきは何をしてたの?」
「みんな騒いでた。サウィンが近いから」
「え……? あ、待って!」
リアンが訊ねても、どうも不思議な答えが返ってくる。あたりを見回しても、静かな森が広がるばかりだ。
山菜を届け、代わってミルクなどを取りに、麓の屋敷まで行き来するのがクルトの仕事だ。
屋敷の裏門を入ると、幼い女の子が駆け出てきた。
「くるとおねぇちゃん!」
コナル一族の最年少らしきこの子は、いつもクルトによく懐いている。逆に他の子供達は、あまり親しくないようだ。無口なクルトが相手では仕方ないかも知れないが、どうもことさら距離を置いているようにも見える。
通りがかったコナル家の子供達に手を振るが、普段は人懐こい子も、リアンがクルトと一緒の時にはどうもぎこちない。リアンにはぺこりとお辞儀をして、クルトには目も合わせず去ってゆく。
思えば、大人達もクルトにあまり親しく声を掛けている様子を見かけない。そもそも、なぜ人里離れた森の小屋にひっそりと住んでいるのだろう……前から薄々考えていた疑問が、ふとよぎった。
「僕は書庫に寄るから、ついでにこれ届けてくるね」
「ん!」
庭で女の子と遊んでいるクルトを置いて、リアンは屋敷に入っていった。
『数象徴学』
――「3」、それは相関と相克の流動、そして存在の神秘――即ち三位一体を表す数。
「9」、それは3の3倍。
即ち、流転と回帰の永続、そして無限の深化を表す深遠なる数。
と同時に、安定と調和完結を表す数である「10」に一つ届かぬ、不安定な数――
書庫で色々な本をひもときながらも、気がつけばリアンは羽ペンでリズムを刻んでいる。
「ダブル・ジグは6拍子……スリップ・ジグは3拍子が3つだから……そうか9拍子かぁ」
この里に来て、クルト達と出会ってからというもの、リアンは独特の調を持つこの里の民謡に夢中になっていた。初めて聴く曲ばかりなのに、不思議と懐かしく心躍る気分になるのだった。自分の粗末な携帯ライアーも、案外これには良く馴染むのだったが、やはり忘れられぬ憧れは――
帰り際に通りがかった居間の隅には、あの古いハープが置かれている。リアンはその前でふと立ち止まり、この里にやってきた日のことを思い出して眺めた。
「また弾いてみたいかね?」
ふいに声がして振り向くと、奥の戸口にはあの時と同じように威厳あるグレン氏の姿があった。
「あ、いえ……今日は書庫を見に寄っただけです」
答えるリアンの横の椅子に、グレン氏は腰を下ろした。
「――不思議な子だろう」
少し考えるようにしたのち、グレン氏は口を開いた。
「あ、クルトですか? うーん、確かに不思議ですけど……一緒にいるとなんだかほっとするような気がするんです。みんなあんまり近づかないみたいですけど」
リアンの答えをじっと聞き、また何か考えるようにして口を開くグレン氏。
「あの子の特別な力を、皆どこかで畏れているのだ……」
「特別な、力……?」
「精霊と、心通わすことができるのだ」
恐る恐る訊ねるリアンに、噛みしめるような口調で答えるグレン氏。
「せいれい……ですか?」
「それはドルイドの力であり、そして……」
そのままグレン氏は、考え込むように沈黙した。
「これが弾かれなくなってから、九年も経つか……」
しばらくして、ハープを見つめながらグレン氏はつぶやいた。
「えっと……壊れてもないのに、どうして弾かなくなっちゃったんですか?」
「――エルフ達がいなくなったからな」
間をおいて返ってきた答えに、リアンは驚いた。
エルフという名は神話の世界でよく聞き覚えがある。知性と魔法の力、そして不死に近い寿命を持つといわれる、古の神々の末裔にして深い森に棲む高等妖精族のことだ。この国ではゲールの民と運命をともにし、やがて神々の住む常世の国へと去っていったと語られている。
「エルフって、あのエルフのことですか⁉」
「ああ。ゲールの言葉ではディナ・シー――もっとも、それらの呼び名を彼らは好まぬ。トゥアハ・デ・ダナーン、即ち女神ダヌの末裔と称すが――この森の奥には、この島に残った最後の一族が住んでいた。九年前までな」
グレン氏は呟くように言葉を続けた。
「これはエルフの作った竪琴だ。彼らの里との入り口を開く魔法に使われていた。エルフの消えたのち、これを弾きこなす詩人も絶えてしまったが……」
「――そんなことをグレンおじさん言ってたよ。クルトはエルフ見たことある……わけないよね」
山小屋の前でミルク缶を下ろしながら、古いハープとエルフのことを話すリアン。
じっと聞いていたクルトは、足下に荷物を下ろすと、ふいに森の奥の方へ歩き出した。
「え、どこ行くの……?」
リアンも急いで荷物を下ろし、あとを追った。
道もない森の奥深くへと、駆け足で分け入ってゆく。
と、薄暗い森から木漏れ日の下へ出た。
古木に囲まれた空間には、降り注ぐ木漏れ日に輝く泉が湧き、その畔には、曲がりくねった根を一面に張った巨木、そして苔むした大きな石碑が立っていた。
あたりには木漏れ日を受けてきらきら輝く光の粒が、蛍のようにふわふわと舞っている。
「わぁ…………‼」
その神秘的な光景に、リアンは息をのんだ。
「あの光ってるのが『精霊』……? って、あれ?」
リアンは光の粒を指さして訊ねたが、クルトは泉の畔にしゃがみ込み、揺れる水面をじっと眺めていた。
「ここ、入り口だったんだって……」
いつの間にか摘んできた野の花をそっと泉に浮かべながら、クルトは言った。
その光景はまるで墓に花を手向けるかのように、哀しげに見えた。
と、ふいにリアンは、被り直した帽子の中で何かもぞもぞする感覚を覚えた。
「わあぁ⁉ 何かいる……!」
慌てて投げ捨てた帽子を拾い上げたクルトは、少し驚いた顔をしてその中を覗いている。
「何が入ってたんだよぉ……」
頭をさすりながら、リアンもしゃがんで恐る恐る覗く。
カゲロウに似た羽を生やし、ヒトの少女に似た姿をした小さな生き物が、リアンの帽子の中でおびえたようにちょこんと座っている。
「……なに、これ」
「ピクシー。妖精のなかま」
予想通りの答えに、リアンは苦笑を漏らした。
「おやまあ、今時妖精とは珍しいねぇ」
「ミル、ピクシー!」
泉で拾った生き物を、早速老夫人に見せているクルト。『ミル』と名付けられたそれは、クルトの頭の上に機嫌良く乗っかり、すっかりペットとなっている。
「それって、昔は珍しくなかったんですか?」
「そうだねぇ……エルフがいた頃は、小さな妖精達もよく姿を見せていたけれど……」
リアンの問いに、少し遠い目をして答える老夫人。
その横に座っていた大コナル老人も、つぶやくように口を開く。
「エルフは森の護り人。森羅万象に宿る精霊達と心通わせ合い、その力を操りて様々な技をなし、その均衡を維持し、その恵みを護るのじゃ――かつては人とも、深き友情で結ばれておったのじゃがの……」
:
:
暖炉とランプのおぼろげな火が、今宵も静かに揺らめく。
「この里はすっかり気に入ってくれたようだね」
「はい!……見たこともないものばっかりなのに、不思議に懐かしい気がします――
僕はまだ小さい頃に家族で街へ出て来ちゃったから、自分の故郷のこと、ほとんど覚えてないんです」
「――郷里は遠きに在りて想うもの――
そう詠った詩人がいたね。
故郷は、身近にあればいいというものでもない。
君の故郷は、君の想いの中で、いつまでも桃源郷であり続けることだろうね」
人知れぬ異境の地にありながら、リアンは折々につけ、ふと不思議な郷愁を覚えるのだった。
――僕の「故郷」って、何だろう
僕に「故郷」は、あるんだろうか――
* * *
この世とあの世、人の地と神々の境、
移ろうものと永遠なるもの――
地と時の交わりあうサウィンの夜
森はざわめき、土は鳴り、
そして時は廻ってゆく――
いざ集え、いざ灯火を――
廻り廻る旋律 廻り廻る輪舞 魂の調べ
廻り廻る風 廻り廻る時 魂の灯火
絡み合う旋律 絡み合う輪舞 魂の宴
絡み合う蔓草 絡み合う運命 魂の円環
サウィンの夜 サウィンの夜 廻り来る時よ!
:
:
闇と光の狭間のような空に、光の粒が舞っていた。
白い光に包まれた馬車たちが、湖の水面に立ちこめた霧の上を滑るように走ってゆく。
カラスウリの灯明を手に、人々は誰しも沈黙して湖畔に佇んでいた。
最後の馬車が、深い霧の中に吸い込まれていった。
寄り添いあってそれを見つめる、二人の男女の影。
ローブをなびかせた若い男、そして――
:
:
「…………!」
妙な胸騒ぎに、クルトは明け方はっと目を覚ました。
「精霊たちが騒いでる……!」
普段は静まりかえっている窓の外の森には、立ちこめた霧の中、無数の光の粒が乱れて飛び交っていた。
「ん~……もう朝ぁ……?」
小妖精のミルに髪を引っ張られ、リアンが寝ぼけて起きてきた頃には、他の四人は居間に集まっていた。
「リアン、外……!」
「なに……? !――わぁお……」
クルトの指さした窓の外を(ミルに首をひねられて)見て、リアンの眠気は半分くらい消し飛んだ。
「精霊達の沸き立つサウィンの前日とはいえ、この騒ぎは尋常ではない……。ともかく下の様子を見てこよう」
コナル氏に続いてクルトとリアンは麓へ向かった。
深刻な面持ちで三人を見送る大コナル老人。
「遂にこの日がやってきたか……」
コナル氏より一足早く駆けつけた二人は、時ならぬ里の光景を目にした。
いよいよ明日はサウィン祭。樹や家々の軒には大小さまざまな瓜、カボチャのランタンが下がり、神殿前の広場には演台とかがり火の台が設えられ――それらを霞ませる朝霧にまじり、無数の光の粒がひしめいていた。
人々は不安と怖れに満ちた表情で、その光景を見つめている。通りを落ち着きなく往来する者もいる。
「見たか、あの時のことを覚えているか……⁉」
「そうだ、これは九年前と同じだ……」
「何かが起こる予兆に違いないぞ……!」
神殿前の広場に集まった人々は、口々にそんなことを噂しあっている。
「精霊のバランスが乱れている……あちこちの精霊が、神々の境にもっとも近いこの里に押し寄せるのは、神々の力が弱まっている証拠だ」
合流したコナル氏は、二人に身を潜めさせ言った。
「その子がここに迷い込んできたのも、一つの前兆だったようだね」
クルトのケープの肩フードから顔を出したミルも、不安そうだ。
「精霊力の大きく揺れ動く年が、周期的に訪れる。時により恵みもある一方、よからぬ変動もまた多い」
「恐れていた時が、遂に廻ってきたということか……」
コナル家の屋敷で、グレン氏とともに卓を囲む。
――「3」、それは相関と相克の流動、そして存在の神秘――即ち三位一体を表す数。
「9」、それは3の3倍。
即ち、流転と回帰の永続、そして無限の深化を表す深遠なる数。
と同時に、安定と調和完結を表す数である「10」に一つ届かぬ、不安定な数――
人々の異口同音に叫ぶ九年という数に思いを巡らすうちに、リアンはふと数象徴学の本を思い出していた。
「この里は、周囲の村がヴェールとなり、そのまた周囲が――という具合に、ゲールの伝承を守る盟友の絆によって秘境が護られてきた。それも崩れつつある」
「時の移ろうままに人々の心が離れてゆけば、やがて伝承は途絶え果て、里は森に朽ちて消えるだろう……」
時折リアンのために説明を交えつつ、代わる代わる話す二人の賢者。
「ああ、まるで九年前のエルフ達を、今度は人が我が身をもって追憶するかのようだ……」
うなだれたグレン氏は、いつもの威厳を失っていた。
「教えて下さい、九年前に何があったんですか⁉」
リアンは意を決して口を挟んだ。コナル氏は答えた。
「そうだね――その時が来たようだ」
:
:
神々とともにその末裔・エルフ族も力を失ってゆき、もはやこの地では生きのびられなくなっていた。
エルフは森の護り人、森の恩寵そのものと言ってもよい。その断交は、人と森との断絶をも意味する――
人はいつしか森を遠ざかり、伐り拓き、恩寵を忘れ去った。人を見守り、共にあり、恵みをもたらした森はやがて人を拒み、人もまた森を忌避するに至った。
進度の差こそあれ、この里とてまた然り。今や精霊使いや言霊使いは絶え、ドルイドも古のような大呪術師は稀で、司祭や修道僧と大差なくなった。人と同胞であったエルフ達は、人の持つ魔力が弱まるにつれてその不可思議の力を畏れられるに至り、畏怖はやがて忌避へと変わっていった。
九年前のサウィンの日、この島に残った最後のエルフ族が、常世の国――ティル・ナ・ノグへと去った。
その時一人のエルフの娘が、エルフ・人間双方の忠告に反し、愛しあう人間の若者の元に残った。
冬を越し、二人の間に娘が生まれたが、母親はそのまま床に伏し、日に日に衰弱していった。
彼女の命を保つ手段は一つ。エルフの魔導師が彼女に残した、肉体の時を止める魔法を自らに掛けること。
エルフの血を示し耳の尖った娘を、授かった魔法のもう一つで人間の姿に変えたのち――神々の境に最も近い「精霊の泉」の底に身を委ね、母は文字通り、覚めざる眠りに就いた。
エルフの去った影響は大きく――即ち、森はもはや人を閉ざし、大地の恵みは薄れ、島は未曾有の大飢饉に見舞われた――行き場なきその動揺を、かの若者への非難へと振り向ける者もいた。
そもそも、異種族エルフと許されぬ契りを結んだ時から、彼はもはや里の民ではなくなっていたのだ。
里の混乱と、それが親族に及ぶことを避けるため、そしてこの危機と妻とを救うすべを探すため、若者は里を去った。
:
:
「九年前のサウィンの前夜も、無数の精霊達がざわめき立っていた――ちょうど今日のようにね」
コナル氏は全てを話し終えた。
リアンとクルトは、互いに言葉を失っていた。
一粒の涙が、うつむいたクルトのまぶたから溢れた。
「――一つ、この里を滅びから救う方法がある」
コナル氏の言葉に、皆がはっと我に返り、注目した。
「妻・ブリードにエルフが残した魔法の三つ目は、ある空間を外から完全に閉ざす、結界の魔法だ」
「まさか、里全体をその結界によって閉ざすと……⁉」
「そう、かつてのエルフの里のように」
驚くグレン氏に、コナル氏は深く頷いて答えた。
「――しかし、覚めぬ眠りに就いた者の持つ魔法を、どうやって封印から覚ますというのだ⁉」
「この子だよ――いや、この子だけだろう」
「ん……?」
横のクルトを優しく撫でながら、コナル氏は答えた。
「人とエルフの血を併せ持つクルトは、両者を繋ぐ、いわば境界の存在だ。『境界』は、脆く不安定である一方、束縛のない未知の力を秘める。それは、お母さんを救う一つの望みでもあるんだ」
徐々にクルトに視線を移して、コナル氏は言った。
「そして眠る妻の周りを閉ざす結界の魔法は、エルフの里の結界と同じもの……つまり、その鍵であったエルフの竪琴で、一時的に弱めることができるはずだ」
部屋の隅に置かれた古いハープを見て言うコナル氏。
「この竪琴を使い呪歌を操ることができるのは、言霊使い――バルドに能うべき者」
「…………!」
コナル氏はリアンを見つめる。息を飲むリアン。
「サウィンの夜には異界との交差が起こり、その境界が薄れる。むしろこの今は絶好のチャンスでもある」
「待て! 異界との接触は大きな危険が伴うぞ――⁉」
「我々の支えを加えても、確かに危険は伴うだろう」
グレン氏の警告に答え、改めて問いかけるように子供二人を見つめるコナル氏。
異界との接触、それは極めて危険な秘儀。精神を保ち得なければ、異界に魅入られ帰らざるか、あるいは、現世と異界との狭間で彷徨うこととなりかねない。それは、この地に遺る数多くの神話や昔話の言い伝えるところだ。
一方、それを克服して無事還ったなら、非凡なる力を得ることもあるという。
「――わたし、助けたい……!」
クルトは涙をぬぐって立ち上がると、しっかりとコナル氏を見つめ返して言った。
「僕も、少しでも力になれるなら――この里と、クルトのお母さんのために……!」
リアンも続いて立ち上がり、力強く答えた。
コナル氏も立ち上がると、二人の手を固く握り、力強く励ますように微笑んだ。
「ドルイドとバルドを受け継ぐべき資質を、おまえ達は十分に持っている。導師として私はそれを認めよう」
グレン氏は、クルトにドルイドの杖、そしてリアンに呪歌の書とエルフの竪琴を手渡した。
「私が与えられるのはこれだけだ。森の小屋の大導師の元へ行き、儀を受けるがよい」
「はい……!」
夕闇に包まれた杉木立の向こう、小屋の窓からは柔らかい灯りが揺らいでこぼれ、薪の煙が立ち上っていた。
いつも帰りを迎えてくれた、この場所。
変わらぬこの情景が、無性に尊く、儚い美しさを湛えているように映った。
取っ手を握る掌に数秒の念を込めてから、木戸を開ける。待ちかねていたかのように老夫妻が出迎える。
「お帰り――時は来たのじゃな、賢く可愛い孫娘クルトよ。いつの間にかすっかり立派になったの……。そして孫娘の良き友となってくれたリアンよ、本当に有難う」
「お父さんの着ていた法衣を仕立て直しておいたんだよ……まぁ、こんなに早くこの日が来るとは思わなかったから、少し大きすぎるかも知れないけどねぇ」
いつもと変わらぬ、その優しい微笑み。そして木の香り、暖炉の温もり――
こみあげる思いに胸を詰まらせ、クルトは両の掌を胸元で固く握りしめた。
* * *
霧に包まれた木立の上に、ぼんやりと月が昇る。
深い森の闇の中、古木に囲まれた一角には宿り木の枝を立てた祭壇が設えられ、霧がかった木々の間には無数の光の粒が飛び交う。
白いドルイドの衣をまとって向かい合った、ドルイド大導師なる大コナル老人と少女クルト。そして賢者コナル氏とエルフの竪琴を抱えた少年リアン。各々の手にしたカラスウリのランタンには、光の精霊の灯りが点っている。
「古の大賢者コナル=グレンケオの嫡裔コナル家の娘、クレントーナ・ニ・ホナル――この賢き者に……」
儀式の最後に二人の賢者の手によって、宿り木の枝を編んだ冠が少年と少女の頭に載せられた。
「ダナンの神々の加護と祝福があらんことを――」
深い闇に閉ざされた森の際で、クルトは立ち止まる。
「精霊の泉へ……!」
クルトが杖で指すのに従うように、あたりの無数の精霊達が、森の奥へ向かって流れを作り出す。
木立の間を流れる光の小川と、手にした杖やハープに提げたカラスウリの灯明を頼りに、小さなドルイドとバルドは森の奥へと分け入っていった。
昼間とは違った深い静謐の中に、泉はせせらいでいた。
立ちこめる霧に軌道を描いて月明かりが降り注ぎ、泉の水面で揺らめく。石碑はそれを映し返し、氷塊かステンドグラスのように闇の中に浮かび上がっていた。
そしておびただしい数の光の粒が、銀河のように夜空や木々の間を舞っている。
しばし吸い込まれるようにあたりを眺めていた二人だが、気を取り戻すと、石碑に向かって泉の畔に並んだ。
「始めるよ――」
「ん……」
宿り木の枝を手にしたクルトが、一歩進み出る。
切株に据えた竪琴を奏で始めるリアン。
それに聴き入るように、気ままに舞っていた辺りの精霊たちは、ぴたりと動きを止める。
そして、次第に石碑の周りに集まり出す。
やがておびただしい数の光の粒が石碑を包み込み、泉の周りはまばゆいばかりの光に包まれていった――
泉の光は、森を越え麓の里まで届いていた。里を見下ろす丘の中腹あたり、山肌にかかった霧が白い光を放っているのが、里からもよく見える。
集まってきた人々の驚き声でひしめく神殿前の広場。それを見下ろす神殿の塔の上で、グレン氏は誰よりも目を凝らして丘の様子を眺めていた。
「異界との扉が開いたか――!」
つぶやくと、グレン氏はローブを翻してらせん階段を下り、神官たちに言った。
「鐘を鳴らせ! 神殿に物見台、全てだ!」
闇に舞う無数の光のかけらを揺るがすように、いくつもの鐘が真夜中の谷に鳴り渡る――
時ならぬ鐘の音に、人々ははたとざわめきを止めた。
「怖れおののくなかれ、ホイル・ウォアの谷の兄弟達よ。時はまさに廻り来たった!」
神殿脇に組まれた祭りの壇上、手にした杖を掲げローブを翻し、群衆を前にして威厳に満ちた声を上げる賢者――ドルイド導師グレン氏の姿があった。
「諸君も案ずるように、里の平穏は昨今ますます勢いを増す時の波に揺らいでいる……。このまま無常の時に身を委ねれば、祖先から受け継いだ我々の愛するこの地、古の神々を讃える最後の灯火は――遅からず濁流に飲まれて吹き消えるであろう」
群衆は水を打ったように静まりかえった。
「怖れずに聞いて欲しい。エルフの魔法を覚めさせれば、この地は抜けることのできぬ森と霧によって外界から閉ざされ、幻となる。ちょうどかつてのエルフの里のように――これが、我々に残された最後の救いの道だ」
嘆きと諦めの混ざった沈黙が訪れた。
「今宵、若きドルイドとバルドが誕まれた。闇の訪れに、彼らは希望の光を点したのだ――この地を滅びの運命から救う、一つの道を手にするために」
さざ波のようなざわめきが起こる。
「子供達は行った。我々に出来ることは何か⁉」
夜空に振り上げられた杖が、丘の方を指した。
「友よ、嘆きにくれず手を取り合おう。灯明は点った、宴の時は今ぞ。終わりではない、始まりの時ぞ。地を踏み鳴らし、この尊き夜を歌おう。去る者はとわに思いを留めるために、残る者はこの地の永遠のために――!」
にわかに歓声の渦が巻き起こる。
やがてその中から、誰からともなく太鼓やバグパイプが鳴りだし、歓声のうねりは一つの大きな音楽となった。
いざ集え、いざ灯火を――!
まばゆい光のドームが、泉の上を覆っていた。
吸い寄せられるように、クルトは手を伸ばしていった。
光の壁に触れた指先から、光の流れが全身を包む。
白く翻る衣とともにふわりと舞い上がった少女。
翠に透き通った髪から覗く、左右に尖った耳――
それは、神話に詠われた森の妖精、エルフの姿だった。
:
:
白い光の中で、少女は懐かしい声を聞いた。
クレントーナ――
お母……さん
カラスウリの灯明と、暖炉の火が揺れている。
お母さん……
クルトは寂しがりやさんね
ぬくもりに包まれていた。
ずっとずっと、こうしていたい――
遠くから、かすかに竪琴の調が聞こえてくる。
お祭りが始まったわ
あ……わたし行かなきゃ
もう大きくなったから、一人で行けるわね?
うん……
それじゃあ、これはあなたにあげましょう
両の掌に触れた、優しい手の温もり。
気をつけて行ってらっしゃい――
手に触れる温かい感覚が、ゆっくりと遠ざかってゆく。
白い光の中に、長い翠の髪をなびかせた女の姿を見たような気がした。
あ、待って……
:
:
降り注ぐ月明かりに、泉は静かに揺れていた。
しだいに散ってゆくように泉の上を漂う光の粒を、クルトは見つめて立っていた。
胸元で握った両の掌をそっと開くと、透き通って淡く光を帯びた三つの石粒が握られていた。
「お母さんに会えたんだね?」
「ん……」
その横でそっと見守るように、リアンは微笑んだ。
「さっきまでずっと『精神の強さを高める』とかいう呪歌を弾いてたんだけど、応援になったかな……」
額の汗をぬぐいながら、竪琴を置き直すリアン。
「ありがと、リアン……!」
クルトは、初めて自らリアンを正面に見据え、屈託のない微笑みを見せた。
苔の上に転がったカラスウリのランタンから、ひょこりとピクシーのミルが顔を出した。
漂う光の粒を一つ捕まえてランタンの穴へ押し込むと、へたの蔓をつかんで森の際の方へ飛び上がり、二人の方を振り向いて羽を揺らした。
「そうだね、行こ!」
「ん……!」
ミルに続いて歩き出しながら、クルトは一瞬振り返った。泉は静かに揺れていた。
里の灯りが見えると、賑やかな音色が聞こえてきた。
「お帰り、よく頑張ったね」
コナル氏の微笑みが出迎えた。優しく腕に抱えた胸元の二人を眺めて、コナル氏はゆっくりと頷いた。
月明かりとかがり火に照らされた広場には、人々が大きな輪を作って歌い踊っていた。
うねり絡み合う笛やフィドル、バグパイプの旋律、そして太鼓の刻むリズムに合わせ、足を踏み鳴らして回り踊る人々。
樹や家々の軒には大小さまざまな瓜、カボチャのランタンが下がり、光の粒が星のように舞う。
「若きドルイドとバルドだ!」
「帰ってきたぞ!」「何だって⁉」「こら押すな!」
二人の姿を見つけ、歓声を上げ群がってくる人々。
「え、ええ?? わあっと……!」
クルトは素早く脱いだ白いマントと杖をリアンに押し渡し、群衆を振り切るように駆けていった。
「ああっ、逃げた⁉ ――ちょ、助け……!」
広場へ出たクルトは、群衆にもまれながら這い出てきたリアンを振り向きくすりと微笑むと、軽やかなステップを踏んで祭りの輪の中に躍り出た。
その姿を眺めて、やれやれ、というように息をつき、そしてほっとしたように微笑むリアン。
コナル氏はリアンのライアーを差し出した。
リアンは微笑んでそれを受け取ると、輪の中に進み出てクルトに並んだ。
フルートとライアーを奏で始めた二人の子供に、人々の注目が集まってゆく。
移りゆくものと永遠なるものと
神々の境と人の地と
廻り廻る風 廻り来る時
響き合う夜 サウィンの夜
穏やかなリズムから、曲は次第に速く――
おおかた鳴り止めていた回りの楽器達も、それにつられるように、そして応援するように加わってゆく。
この世とあの世 儚きものと永遠なるものと
廻り廻る風に乗せて 宴の調響け
時の交わりあうこの夜
森はざわめき 土は鳴り
宴の音が夜空に響き
そして時は廻ってゆく
手拍子の渦も加わって盛り上がりが頂点に達したところで、ぱっとフルートを吹き止めておじぎをするクルト。とたんに拍手と歓声、そして大合奏がそれを包む。
いざ集え いざ燈明を 魂の灯火を
廻り廻る旋律 廻り廻る輪舞
紡がれゆく調に 紡がれゆく運命
サウィンの夜に祝福あれ! 廻り来たる時よ!
クルトはたすき掛けに巻いていたタータンのショールをほどくと、伸ばした両手に持って羽のようになびかせ、くるくる回りながら軽やかなステップを踏む。
リアンもライアーをかき鳴らしながら、その横で足を踏み鳴らす。
互い違いに回って踊りながら、二人は微笑みを交わした。
* * *
白くかすむ光に、夜の漆黒は薄められてゆく。
「そうか、旅立つのか……」
「ん……わたしもお母さんを助けたいから」
クルトは老夫妻に告げた。
里が結界に閉ざされれば、出入りは容易ではなくなる。この地に残るか、去るか。里の住人はいずれかの道を選ばなくてはならない。
このまま里に残っては、新たな道は始まらない。広い世界に出れば、母を救う方法が見つかるやも知れない。
――自分こそが、母を救う一つの望み――
もっと力を得て、自分の力でその道を見つけたい。クルトはそう固く決意したのだ。
「一度発動したこの石の力を動かすには、強い魔力が必要だ。けれど、クルトならきっと得ることが出来るよ」
「ん…………!」
エルフの魔法石を手渡して言うコナル氏に、クルトは強く頷いた。
一度里を去れば、発動した結界以上の魔力をもってしなければ入り口は開かれない。力を得るまで戻ることは許されない、それは決意の旅立ちに相応しい。
「はるか東方には、神々や妖精と人とが平和に共存する地があるという――。果てしなき世界をその澄んだ瞳で見れば、道はきっと見つかるじゃろう」
じっとクルトの瞳を見つめて頷く大コナル老人。
「若きバルドよ、この里の詩をとわに語り継いでくれ。ホイル・ウォアの里とダナンの神々は、それを想う者のいる限り決して消え去ることなく、いつもその者と共に在る」
「はい、きっと……!」
続ける大コナル老人に、リアンも強く頷いた。
闇と光の狭間のような空に、光の粒が舞っていた。
カラスウリの灯明を手にした人々の見送るなか、最後の馬車が神殿前の広場を走り出した。
霧の向こうに霞んでゆく村を、馬車の最後尾で寄り添い合い見つめる少年と少女、そしてローブ姿の紳士。
去りゆく馬車をじっと見送っていたグレン導師は、手にした宝石箱に輝く一つの石に目をやり、その蓋を閉じると、ゆっくりと神殿に入っていった。
:
:
――遠く過ぎし道 郷里は見えず
遥か仰ぐ空 往く宛は知れず
歩みは果てしなく
歩みは果てしなく
遥か遠く 遥か遠く
旅路は永遠に尽きず
遠く過ぎし日は 美しき追憶に
遥か仰ぐ空に 祈願を託して
刹那の出逢いの
追憶を抱いて
廻る時に心委ね
この譜面を紡ぎゆく
廻り廻る風 その遥か彼方
永遠に変わらぬ安息地は在るのか
時は廻る 永遠に
旅は続く 永遠に
遥か遠く 遥か遠く
歩むは果てなき旅路――
:
:
遠ざかってゆく谷間に、里の影は見えなかった。
谷は、一面に立ちこめた深い霧に覆われていた。
物語は始まった――
0
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状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
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