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第2話
しおりを挟む(熱い…)
頭がぼんやりと不明瞭で、それでいて、身体の芯に宿る重怠い熱だけは、はっきりとわかってしまう。
柔らかな綿のシーツに包まれて、身を丸くする。ずく、と腹の奥が主張する。長い黒髪が白肌を撫でるだけの些細な感覚にすら尖った神経は刺激を絶やさない。
目を固くつむって、気のせいだと言い聞かせる。
大の男が五人は眠れるであろう広い天蓋つきのベッドは、冷たい。身体は熱くてたまらないのに、冷たいと感じてしまう。ローレンの声のように。
(ローレン…)
心の中で名前をつぶやく。声には出さない。これが結婚してから、二年経った僕の癖だった。
一度、結婚したての頃に名前を呼んだことがある。しかし、煩わしそうに舌打ちをされてから、僕の萎縮した気持ちは次に声を出す勇気が湧かなかった。
(結婚式の翌日も、熱を出したっけ…)
いきなりの現実に心が追いつかず、知恵熱を出してしまったのだと思う。もともと住んでいた温かな地域から、通年長袖で過ごすこの地へ越してきた寒暖差も相まって、その熱は数日は引かなかった。せっかく嫁いできたのに、花嫁が寝込んでしまい、ようやく回復してローレンに挨拶に行った時は、盛大な溜め息をつかれて終わった。
(迷惑ばかり…)
完全に僕は、ローレンの足枷だった。
愛する人があるローレン。
けれど、バース性に阻まれて、それが叶わないローレン。
きっと、周りに早く子どもを作れと、体よく宛がわれたのがオメガの僕。
僕の役割は、ローレンの子どもを産み、育てることだけだった。
「ん、う…」
じゅぐ、と後ろが濡れる。足を擦り合わせると熱がさらに高まってしまう。オメガ性に産まれた僕は、この熱の発散方法を一つだけ知っていた。
けれど、その度に呼び出され、好きでもない相手と交わらないといけないローレンがかわいそうで、申し訳なくて、こうやって一人でこっそりと耐え凌ぐ。
(初めて相手をしてもらった時も、迷惑ばかりかけてしまった…)
初めて、アルファと過ごす発情期で、僕はどうして良いのかわからずに、ずっと泣いてばかりだった。そんな僕を冷たく見下ろしてあきれ顔で溜め息をついていた彼を今でも思い出す。
(ずっと大好きだった相手と迎えた初めてだったのに…)
その相手には、別の愛する人がいて。義務として行われるそれは、夢の中で思い描いた甘いものなんかでは全くなくて、面倒くさそうに後ろをほぐされて、さっさと終わらせて彼はいなくなってしまった。
発情期の不安定な気持ちは、改めて彼からの圧倒的拒絶を感じざるを得なかった。
(子どもを作れば、こんな思いしなくて済むのかな…)
僕は今日、三度めの抑制剤の服用をする。この抑制剤には、避妊効果も含まれている。ぼんやりとそのビンを見つめる。これが体質的に合うのだと無理を言って、実家の薬剤師から送ってもらっている。内容は極秘に。
(別に秘密にしなくたって…)
きっと怒るのは、彼の母親くらいだ。彼は僕になんか興味ない。
(面倒なオメガがいなくなった、って喜ばれるかな…)
自分で勝手に考えて、ぐるぐる悩んで、勝手にまた泣いている。情けなくて、面倒くさくて、自分が嫌になる。
それでも、ローレンの顔色をうかがって、少しでも好かれたいと願ってしまう卑しい自分もいる。
少しでもローレンの何かになれればと思って、リラックス効果のある茶葉の調合をして執事から彼に出してもらったり、時には庭の手入れを庭師と一緒にして、咲きたての瑞々しい花々を彼の部屋に飾ってもらったりしていた。
この二年、そんなことをしていても、彼には全く届いていない。業務で忙しいローレンには、あまりにも小さいことで、どうでもいいことなのだろう。だから、一度もそれについて言われたり、ましてや感謝をされたりしたこともない。
けれど、もしかしたら今日は、と期待して、それらを止められない自分もいるのだ。
(だったら、こんな薬、やめればいいのに…)
ずっとここにいたい。ローレンの瞳に一瞬でも映りたい。できれば、好きだと思ってもらいたい。
奇跡のように幼い頃、一度だけ出会って、ずっと僕の心にいたローレンと、奇跡のように結婚する道をたどっている。
もしかしたら。
毎日、その言葉が心に残り、今日こそは、とあり得もない現実に期待して、一人で玉砕している。明日だって、きっと変わらない。
(少しでも、彼の迷惑にならないように…)
いつか、国が替わって、アルファ同士が結婚できるようになるかもしれない。
そうなった時に、彼が困らないように。
これ以上、僕が彼の足枷にならないように。
白い錠剤を二粒、渇いた口の中に水と共に流し込む。ごくり、と嚥下する。何かが大きく変わることはない。
(少し寝れば、薬が効いてマシになるかもしれない)
柔らかな布を被って、目を瞑る。
(ローレン…)
口にはできない、愛しい人の名前を心の中で囁いて、僕は身体の熱に溶け落ちる。
あの日、彼に納めてもらった、シルバーの指輪にキスをして。
余計なものが一切ない、健やかな草原の上に、僕は横たわっていた。そよそよと吹く風は心地よくて、目を細める。僕を包む日差しは温かくて、ずっとここにいたいと願う。
す、と頬を撫でる風がもう少し冷たいものに変わる。するりと滑り落ちて、唇をしっとりと撫でる。くすぐったくて、頬が緩んで、小さい声を出して笑う。こんなの夢の中でしかできないことだった。
何にも縛られず、自由でどこまでも広いここに、ずっといたい。
苦しみも悲しみも、何もない。穏やかなここに。
「ん…」
それでも願いは届かずに、僕は暗闇の中、ぼんやりとした視界に気づいてしまう。頬を何かがかすめて、夢の続きだろうかと振り向くと、オレンジ色のベッドランプがついていて、僕に影を落とす。しかし、すぐにその影は、ベッドから小さい音を立てて立ち上がっていなくなってしまった。
ふわ、といい香りがする。ジャスミンのような甘く爽やかな香りの後から、バラのような重厚な甘い香りがする。
「あ…」
ローレンの香りだ。と寝ぼけた頭でわかったけれど、名前を呼んではならないとすぐに口を閉ざす。ドアに向かって、遠ざかっていた影は、ぴたり、と止まって、僕に向き直った。ランプが光の無い碧眼を露わにする。つかつか、と近寄ってきて、ローレンは僕を見下ろした。身を起そうとすると、肩を押されてベッドへと戻される。それから、ローレンもベッドに乗り上げてきて、二人分の荷重にベッドが鳴る。
「あ…、あの…」
発情期で熱い身体を思い出す。薬を飲んだとはいえ、収まらないからこれはやっかいなのだ。身を包んでいたシーツを両手で強く握りしめながら、まっすぐにローレンを見上げる。
いつも通り冷たい瞳で見下ろされる。どうすればいいのかわからずに息をひそめるが、甘い香りはどんどん濃度を増している。
「なぜ連絡しない」
低く温度を持たない声が僕に降り注ぐ。ひく、と肩が勝手にひるんでしまう。眉を寄せて、頭をはっきりするよう必死に理性をかき集める。
「ご、めいわく、かと思って…」
迷惑をかけたくない。それがすべてだった。
これ以上嫌われたくない。
案の定、ローレンは大きく溜め息をついて、眉をひそめる。ほとほと呆れた、とでも言うように。
いつも向けられる表情なのに、一切慣れることはない。
お前なんかがいなければ、そんな顔を見せられる度に、何度でも僕の心は散り散りに踏み砕かれるようだった。それは彼のせいではなくて、僕が勝手にそう感じているだけなのだ。
「黙ってどこかで倒れられた方が迷惑だ」
「ご、ごめんな、さ…」
それはそうだ。どこかで僕が一人で倒れて、万が一、彼の愛する人が僕の発情期に当てられて、番にでもなってしまったら、それは命をもってしても償えない大罪となるだろう。
何度も言われてきた言葉だったけれど、かといって、この瞳を向けられるのも苦しくて、僕は必死に嗚咽を飲み殺して、涙を堪えながら、震える指先をシーツを握りしめて誤魔化す。もう、この美しい碧眼を見つめることは出来ずに、必死に視線をそらす。
こんな反応をしてしまうから、彼はまた大きく肩を落とすように溜め息をつく。
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