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第36話
しおりを挟むその夜、てっきりそのホテルに泊まるものだと思っていたが、柊は紳士のように僕を家まで送り届けて、両親にもう一度挨拶をして、婚約の報告をした。大切なご子息を幸せにします、とわざわざ頭を下げてくれていた。それに両親は感激して涙していた。それを僕は他人事のように、流れるように見ていただけだった。
父は僕によくやったと褒めた。母は、涙しながら、ごめんね、ありがとう、と繰り返した。哀れな両親に返せる最大の恩だったのだなと改めて感じてしまった。
風呂も入らずベッドに入ると、怠い身体が重く沈むようで、何も考えずに死んだように眠った。
翌朝、頭痛がひどく、熱を測ってみると微熱があった。ここ数日、ずっと身体が怠く火照っているのは、熱があったからなのか、と霞がかった頭で理解して、朝の挨拶に来た執事に状況を説明すると、すぐに滋養あるおかゆと水分を持ってきてくれた。
「お疲れがでたのでしょう。…一度にたくさんのことがあると、人は疲れますゆえ…」
白髪の執事は、昔と変わらない優しい微笑みで、ここは坊ちゃまのおうちですから、ゆっくりなさってくださいと柔らかく僕に囁き、頭をさげて下がっていった。
昔と変わらない、だしの効いた温かいおかゆを数口食べて、ベッドに戻る。重い頭を枕に落とすと、ふんわりと沈んでいく。
確かに、ここひと月で、僕の人生が大きく変わったのだなと改めて考えた。
大切な後輩だと思っていた柊を傷つけたと思ったら、実は昔から慕われていたことを知った。気づいたら、婚約者となっていた。
両親は、父親の浮気によって、借金を背負い、深く傷ついていた。もう、この実家も、優しい執事も綿貫も、なくすところだった。
そして、彼と過ごした時間。ずっと、遠い存在で、もう二度と交わることのないと思っていた瞳は、僕だけを映して、たくさんの甘い時間をくれた。
だけど、それは、幻でしかない。夢だったんだ。
そう言い聞かせるしかない。
いつの間にか、ばらばらと涙がこめかみを伝って枕に浸み込んでいった。
いいんだ、これで。柊は、ベータでもいいと言ってくれた。僕であればいいのだと。その言葉を信じて良いのだろうか、という一抹の不安も、過去の失敗から僕は抱かざるを得なかったが、信じるしかないのだ。僕にはそれ以外の選択肢がないのだから。
これでいいんだ。
僕は、彼にたくさんのしあわせな時間を、直前までもらえた。だから、これでいいのだ。
彼は最後に、僕に現実を見せた。結局、彼が求めているのは、一生を添い遂げられるオメガなのだと、夢木美久という最悪の相手を隣に据えて、僕に現実を教えてくれた。
これでいいんだ。
ちゃんと、もう終わったんだ。
だから、これで前を向いて生きていくんだ。
両親のために。
僕のために頑張ってくれた柊のために。
それでいいんだ。いいんだ。
切なく絞られる胸を隠すように、布団の中で身体を抱きしめた。
心地よい熱が、僕の頭を包んでいることに、重い瞼を持ち上げて確認しようとする。
「さく…?」
優しいその触り方は、最近まで味わっていたそれと同じようだったから。寝ぼけた頭でそうつぶやいてしまったのだ。
すると、その熱は、ぴくり、と動きを止めて、離れて行ってしまった。振り返って確認しようとすると、急に視界が暗くなり、かさついて大きな手のひらが僕の瞼を覆っていた。
「さく…」
顔を見て、安心したかった。
あの、僕にだけ見せてくれる微笑みを見て、好きだと思わせてほしかった。
それも叶わずに、涙が零れたが、ふんわりと意識は遠のいていった。
は、と意識を取り戻したとき、目がぱっちりと開く。身体を起すと、朝ほど頭痛もなく、身体も重だるくなかった。
「夢…」
彼がいた気がした。
しかし、自分の部屋には誰もいない。
夢、だったのだろうか。自分の頭をそっと撫でる。何も感じられなかった。そういえば、ここで彼と初めて結ばれたあと、うなされて何度も彼が来てくれた幻を見たということを思い出す。今回も、きっとそうなのだろう。僕の、幻想。夢。願望。
そう思うと、全然覚悟が出来ていないのだと思い知らされて、自分が情けなくなる。
もう終わったんだ。受け入れろ。忘れろ。望むな。
今回は、ちゃんとしあわせな時間をたくさんもらって、終われたのだから、良いんだ。もう二回目だろ。いい加減、わかれよ。
震える身体を抱きしめながら、必死に言い聞かせた。ここひと月でさらに細くなった身体を、何度も何度も擦って慰めた。
もう七月も下旬だというのに、身体は寒気を感じていて、執事が枕元に用意してくれていたカーディガンを羽織る。綿で出来た夏用のものだったが、柔らかく僕の身体を包んでくれた。それだけでも、心もとない身体と心は励まされたように感じられた。
人の声がして、リビングへ向かうと、ついこの前、両親に深刻な話をされたソファで、にぎやかにお茶会が開かれていた。母親と柊が、何かを見ながらにこやかに話していた。
長い脚。広い背中。撫でつけた赤毛にグリーンの瞳。ホワイトグレーのスーツと紅茶がよく似合う、柊が僕に気づいて立ち上がった。
「ひーちゃんっ」
居心地が悪くて、後退るが長い脚ではあっという間に僕のもとへやってきてしまう。ごく自然に、僕の腰に手を回して柔く抱き寄せられて、柊は眉を下げて心配そうに僕の頬を撫でた。
「まだ顔色がよくないよ、大丈夫?」
甘い顔立ちで優しく囁かれる。彼の熱い身体が、今の僕にはちょうど良いはずなのに、やはり居心地が悪くて、厚い胸板に手をおいて離れるように押した。しかし、それに気づかないのか、柊は僕を強く抱きしめて、耳元に頬ずりをした。その瞬間、む、と彼のバニラのような甘い匂いが強くなり、身体に熱がこもるような感覚があった。この感覚はなんだろう、と頭を回すが、だんだんぼんやりとしてきて、どうでもよくなってしまう。ふる、と項が震えるような痺れるような感じすると、柊は満足したように、耳朶に、ちゅ、と軽くキスをして笑顔で解放してくれた。そして、腰を抱き、僕の手をに手を添えて、促すように、先ほど座っていた二人掛けのソファに僕をぴったりとくっつきながら座らせた。添えていた手を包み込むように握りしめられて、頬を染めて笑顔で話しかけられる。
「お母様がひーちゃんのアルバムを見せてくれたの」
そう言われて、曖昧になっていた意識が現実に戻ってきて、振り返ると母が膝元にある硬い表紙の本を捲っていた。僕と目が合うと、最近険しいばかりだった目元が柔らかく垂れている。先ほどのやり取りも、見られていたのだろうか、と思うと顔に熱が集まるが、すぐに、別にいいかと投げやりな気持ちになる。せめて、手を離してほしくて、柊を見上げるが、嬉しそうににこにこ笑っている柊に、拒絶する言葉をかけることがためらわれて、結局されるがままでいることにする。それに気をよくしたのか、柊はさらに声色を明るくして、目の前にあったアルバムを広げて見せてくる。
「ほら、これ」
その写真は、僕がまだステイを着ている年齢のものだった。おしゃぶりをつけて、身体を同じくらいのうさぎのぬいぐるみを抱きしめている写真だった。
「どっちがぬいぐるみかわかんないよ」
どういうこと?と見上げると、頬を上気させて緩み切った顔でさらにページをめくる柊に何も言えなくなる。
「こっちも、かわいいね」
それは、母方の祖母の家から帰るのが嫌で泣きわめて祖母に抱き着いている写真だった。懐かしい。その祖母も、もう十年も前に亡くなってしまった。そのページを預かって、ぼうっと眺めている。優しい祖母だった。確か、オメガだったと聞いた。祖父は祖母を心から大切にしていて、葬儀の時もずっと泣きわめいていた。それを子どもながらに、愛を感じて、祖母がしあわせに見送られたのだろうなと思って、さらに泣いた記憶がある。
「ほら、これ。聖は花が大好きだったのよね」
母が開いていたアルバムを渡してくる。僕が受け取る前に、長い腕が目の前を横切り、柊が母からアルバムを受け取った。開いてあったページは、色とりどり様々な花の前で笑顔で佇む五歳ほどの僕だった。
「どんなにきれいな花でも、ひーちゃんの引き立て役にしかならないね」
さらに身体を寄せて、柊は僕のこめかみに熱い唇を寄せた。その様子を、母は嬉しそうに微笑みながら見つめていた。
この写真。どれも、彼の庭での写真だ、と僕は気づいた。美しいマゼンダの前で、より一層笑みを深めている幼い僕の写真をみて、ああ、この写真も彼が撮ってくれたんだっけ…、と思い出す。
僕の耳裏の辺りに高い鼻梁を差し込み、彼がすん、と鼻を鳴らすと、僕が見ていたアルバムを閉じた。どうしたのだろうと見上げると、光の無い冷たい瞳が僕を見下ろしていて、ひや、と背筋が冷えて、肌が粟立つ。
「柊…?」
様子のおかしい彼の名前を呼ぶと、僕の膝に会った祖母とのアルバムも閉じて、机の上にまとめて置いた。そして貼り付けたような笑顔で僕に向き合って、明るく話しかける。
「もう僕の家は準備できてるから、今週中にうちに引っ越そう」
ね、お母様。とその笑顔で母親に視線を映したので、僕も追って顔を向けると、笑顔でうなずいていた。
「それもあって、アルバムの整理をしていたの。婚約パーティーの時に使うかと思って」
もうそんなに話が進んでいるのだと思うと、急に現実味が湧いてきて、僕は目を見開いて言葉を発しそうになるが、僕に何を言うこともできない、と開けた口をつぐんで、俯いた。
「僕も手伝うから、荷造り頑張ろう」
俯いた僕の頭を撫でて、耳朶を柔く食むようにキスをした。
「婚約発表は来月の下旬を予定してます。急なのですが、来られる方だけお呼びする形になりますが、出来るだけ盛大にしたいと思っています」
ひーちゃんのお披露目会なので、とうっとりと柊はつぶやく。それに母は、大きくうなずいて答える。
「そんなに大事にしてもらって、母親としても嬉しい限りですわ。会場なら、うちのホテル系列に良いところがありますから、確認してみます」
それじゃあ日にちは…。
柊と母で、どんどん話が具体的になっていく。
本当に、僕は柊と結婚するんだ。
だんだんと現実味を帯びているのに、僕の心はぽっかりと穴が開いたように空虚だった。むしろ、その穴は二人の会話が弾めば弾むほど、広がっていくようだった。身体は冷えていく一方で、握られた手と右半身に触れる柊の体温が燃えるように熱く、それに身体は縮こまるようにさらに冷えていった。
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