初恋と花蜜マゼンダ

麻田

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第48話

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 柊は、日にちをずらそうと何度も提案してくれたけど、僕はずっと断り続けた。
 もう、早く時を進めたかった。日本からも離れたかった。柊しかいない世界にいたかった。柊が望むように、少しでも早く事を進めたかった。
 そうでないと、いつだって、バカな自分は何か光を探そうとしてしまうから。

 夕闇に染まる、どこまでも広い海を見てから、レモンの果汁ジュースをこくり、と一口飲んだ。気を抜くと、嘔吐してしまいそうだった。
 ここ一月ほど、ずっと吐き気がある。頭痛もあって、腹の奥が重く、動くのも億劫だった。口に出来るものは、グレープフルーツやレモンなどの酸味の強い柑橘類だけだった。
 深く息をつくと、控え目にドアがノックされる。前回のフィッテングの際に担当してくれていた女性が入ってくる。僕の手元を見て、笑みを深めてから、こっそりと囁かれる。

「腰元のリボン、お緩めしましょう」

 どうしてかはわからなかったけれど、それが良いとプロが言っているのだから、その方が良いのだろうと思い、純白のレースを踏まないように立ち上がる。かつん、とヒールが鳴ってしまう。慣れない靴に戸惑いながら、彼女の促すままに腰元にきれいに巻かれた花のような形のリボンがほどかれていく。それだけで、ほ、と身体が緩んでいくのを感じられた。そのままの状態なのに、きれいにリボンが形作られていく。

「ありがとう、ございます…」

 細い声しか出ないが、それをちゃんと聞きとってくれていて、女性は僕を見つめて柔らかく微笑んだ。

「とんでもございません。つわりに効くお薬がないのが心苦しいですが、簡易ベッドもお持ちしましょうか?」

 女性が膝をつき、柔らかいソファに腰掛けている僕を見上げながら首を傾けて提案をしてくる。
 つわり…?
 その言葉に、目を見開いて固まっていると、またドアがノックされて聞きなれた声がする。女性が立ち上がって脇に下がると、白いタキシードを着て、髪の毛をきれいにまとめた柊が入室する。目が合うと、柊は顔を赤らめて、甘く微笑んだ。

「わあ…っ、ひーちゃん、世界一きれいだよ…」

 立ち上がろうとする前に、柊が僕の足元に跪いて手を握ってしまう。耳元と髪の毛につけた飾りが、しゃらりと軽い音を鳴らす。

「柊も、素敵だよ」

 厚い身体を包む白いタキシードは光沢が美しく、華やかな顔立ちの柊をさらに引き立てていた。首元のネクタイは、白地に淡く僕の首元と同じレース地の刺繍がほどこされていた。耳元には、僕と同じ、小さなガラスとダイヤが並び光に反射してまぶしいイヤリングが揺れていた。
 手を握り返すと、柊は僕の手を両手で包んだ。お互いの左手には、指輪がはまっていて、きらり、と輝いている。
 熱い溜め息をついて、僕を見上げてくる。じりつく瞳に僕まで火傷しそうだった。強いバニラの香りが漂ってくる。

「早く、みんなに自慢したい…でも見せたくない…」

 ぎゅう、と抱きしめられて、うっすらとされたメイクがタキシードについてしまうのではないかと心配になるが、柊はお構いなしのようだった。頬を手のひらで撫でられると、ゆったりと唇を吸われる。ぬと、と僕に塗られたグロスが名残惜しそうに糸を引き、柊は角度を変えてまたキスをされる。

「ん…」

 鼻から吐息が漏れてしまうと、柊は名残惜しそうに唇を離した。

「ひーちゃん…大好き…ずっと、一緒にいようね」

 眦を染めながら柊は恍惚としながら囁く。柊の肉厚な唇が、つや、とグロスが光っていて、白い繊細なレース地の手袋で、その唇を拭う。すると柊は嬉しそうに笑って、僕を抱きしめて、手を引いた。
 ドアに近づくと、廊下が慌ただしく騒がしいことに気づく。部屋にはヒーリング音楽がずっと流れていて、外のそうした変化には全く気づけなかった。柊がドアノブをひねると、秘書がすぐそこに前髪を乱して立っていた。

「何事だ」

 柊が冷たい声色で秘書を責めると、秘書は背筋を伸ばして頭をさげてから、ちらりと僕を見てから、柊に耳打ちをした。それに柊は、大きく舌打ちをして、顔を歪めた。それから、僕の両手を掴んで、眉を下げて囁く。

「ひーちゃんごめんね。お披露目会、今日は中止にしよう」

 いきなりのことに、戸惑ってしまい肩をすくめていると、廊下の奥から秘書にお早く、と急かされてしまう。柊は、強く手を握り直して、まっすぐに僕を見つめた。

「いきなりだけど、今からイギリスに行こう」
「い、いまから?」

 あまりの急なことに目を見張ると秘書がいる廊下側の反対側から多くの人の声が聞こえてくる。男の人の怒鳴るような大声が聞こえる。何が起きているのかわからないけれど、怖くて冷や汗が滲み、柊に向き直って見上げる。柊は、にこりと笑うと、僕の腕を引っ張って、大股で歩き出した。
 秘書が案内するままに、ホテルの奥の奥にある非常口やスタッフルームを抜けて、裏口からホテルを出る。そして、港沿いを歩き続ける。柊の大きい歩幅に合わせられないのと、慣れないパンプスとロングドレスに、裾を持ちながらも何度もつんのめりながら、強い腕を引く力を頼りに前に進む。夜の穏やかなさざ波の音を聞きながら、柊に続くと、一台のフェリーが港についていた。その前で秘書が中の男たちと話をしている。

(ああ、僕、本当に日本を出るのか…)

 秘書が手を挙げて柊を呼び、それを受けてさらに歩の速度を上げる。

「わっ」

 ぐん、と引っ張られて、ついにドレスの裾を強く踏みつけて、びり、と破れる音と共にその場にこけてしまった。せっかくの純白のドレスは港の波で濡れた石畳の上で、灰色に染まってしまっていく。

(僕は、もう…)

 じわ、とあっという間に染み入っていくドレスを見て、僕の心のようだと思った。
 どんどん黒く、色のない世界へと落とされていく。
 自分のもとの色もわからない。ただ、流れ込んでくるままに、強い色に染まっていく。だから、自分もその色に染まるしかない。選択肢のない、圧倒的存在感の黒。修正の叶わない黒。

「ひーちゃんっ!」

 こけた僕に柊がすぐに振り返る。ざあ、と海風が塩と共に吹き抜けると、ふわ、と甘い匂いが漂った。鼻腔をくすぐる程度だったのに、身体の中に沁み込み、全ての細胞にじわじわと入り込むと、どくん、と眩暈がするほど強く心臓が揺れる。

(な、に…?)

 む、とさらに強い匂いが僕を襲うと、鼓動がみるみる内に速度を上げて、身体が一気に沸騰するかのように熱くなる。それに合わせて呼吸も浅くなり、汗が噴き出す。腹の奥が焦げ付くように熱を持ち、何かが滲むように疼き、やがて喚き立てる。

「ヒート?! どうしてっ?」

 柊が瞠目し汗をかきながら、僕を見下ろす。見上げるが、視界が揺らいでいて輪郭がはっきりとしない。意識がぐらぐらと遠のくように不明瞭になっていく。
 辺りにサイレンが響き、柊が辺りを見回して舌打ちをする。そして、僕へ手を伸ばした時に男たちの声がざわざわと聞こえる。突然、秘書が柊の身体を抱き着いた。何か柊が彼に喚くが、僕はさらに強くなる甘い、花のような匂いに当惑するばかりで身体はさらに重く、その場にへたり込んでしまった。柊が慌てて僕を抱き寄せようとするが、僕の鼓膜には何もかもが曖昧な音として聞こえて、自分の心音だけがはっきりと響いていた。
 すると、その音の世界に、インクがぽたりと白紙に浸み込むようにある声が聞こえる。

「見つけた」

 この声、この匂い。
 覚えがあった。
 忘れることのできなかった。
 ずっと、ずっと求めていた。
 忘れようと何度もした。
 そう意識すればするほど、はっきりと僕の中に刻み込まれていってしまった。

 喚く柊は秘書や数人の男たちによって、どんどん僕から引き離されていく。それに手を伸ばそうとすると、後ろに引っ張られた。温かい何かに押し込まれると、花蜜の匂いがむっと強くなって、身体がぴくぴくと細かく震えてくる。

「やっと見つけた…」

 耳元で震える吐息を吹き込まれて、かすれるバリトンで鼓膜を揺さぶられると思わず鼻から声が漏れてしまう。ひくん、と後ろが主張して内腿がぶるぶると痙攣する。

「もう離さない…聖」

 ぎゅう、と身体を強く抱きしめられると、涙がぼろりと零れた。
 周囲は異常事態だとよくわかるほど騒がしい。柊を乗せたフェリーは出向し、警官姿の男たちが急いでそれを追うために無線を飛ばす。遠くから別の船が勢いよく彼らを追う。しかし、僕の意識には騒がしい事実と暗闇しかわからない。
 唯一認識できるのは、僕を抱きしめて、何度も名前を囁く、熱い身体の、愛しい彼だけだった。



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