初恋と花蜜マゼンダ

麻田

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第62話

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 その夜、彼を客間に見送って、僕は自分のベッドで一人で寝た。冷たい布団が火照った身体には心地よく感じられた一方、あの大きなアルファに抱きしめられて眠りにつきたいという底から湧き出るような欲もあったが気づかないふりをして目をつむった。

 翌日は、朝からよく晴れていた。気温も上がり、あれだけの豪雪だったが、じわじわとよく溶けていった。
 朝、彼と顔を合わすと、昨夜のことが気恥ずかしくもあったが、彼があまりにも嬉しそうに微笑んで挨拶をしてきたから、胸が絞られるようにうずいて、思わず頬が緩んでしまった。
 リビングから見える木々は、積もった雪が溶けて、ぽたぽたと雫をたくさん垂らした。それが、彼との別れの時の合図なのだと思うと、どうにも悲しくて、苦しく思われた。後ろからドアの開く音がして、振り返ると、スーツに着替えた彼が、僕を見つけて甘く笑みながら近づいてきた。すぐそこに彼が来ると、節ばった大きな手に指をかけた。応えるように優しく指を絡められると、くすぐったくて握りしめてしまう。見上げると眦を溶かして、彼がすぐそこで微笑んでいる。

「帰っちゃうの…?」

 こぼれた本音に自分でも驚いてしまうが、彼は一瞬目を見開いてから、先ほど以上に目を溶かして、頬を染めて微笑んだ。そして、少し背をかがめて、僕の指先に柔らかい唇でしっとりとキスをした。

「非常に残念だが…」

 嫌だと駄々をこねてしまいたかった。けれど、そんなことを言ったって、彼を困らせてしまうだけだから、僕は俯いて、我慢するしかないと唇を噛んだ。彼は、僕の手を引いて、ソファへとエスコートした。それに従って、彼のすぐ隣に座ると、膝の上で組んだ手を簡単に包まれてしまう。

「聖」

 真剣な彼の声色に、顔をあげるとまっすぐと見つめられていた。真摯なその色に何を言われるのかと身体が硬くなってしまう。きゅ、と彼が僕の手を握りしめて、ゆっくりと言葉を発した。

「一緒に、病院に行こう」

 病院、という言葉に、何も思い当たらず、眉を寄せて彼を見つめるしか方法がわからなかった。首を小さく傾けると、彼はソファに座り直して、両手で僕の手を握りしめた。

「聖と、…お腹の子の健康を知っておきたい…」

 お腹の子、という言葉に、目を見開いて、固まる。そうだ、昨日、彼にこのことも伝えたんだった。
 僕は、彼の手を離して、背を向けるように座り直した。後ろから、温かな手が肩に置かれて、振りむように促されるが、自分の感情が整理できずに俯いてしまう。

(どうしよう…)

 そこにいるだろう腹部に手をあてて、うなだれる。

(本当に、ここにいたら…さくは…)

 僕を、捨ててしまうだろうか。
 自分でないアルファと交わった自分など、さらに嫌悪がさすだろうに、さらに、自分でない子を妊娠しているとわかったら、どうなるのだろうか。

(また、僕は…一人になるのかな…)

 ぐう、と腹にあてていた手を握り、締め付けられるように苦しい胸元の痛みに堪える。黙っていると、涙がにじんでしまう。

「聖…」

 力強く握りこんでいた手に、そっと形の良い爪をつけた指が触れてきた。は、と顔をあげると、僕の目の前に膝をついて、見上げる彼の顔があった。眉根を寄せる彼の表情は苦し気なもので、驚いて目を見張ってしまった。

「…聖、今、何を思ってる…?」

 教えてほしい。小さく、優しく彼は囁いて、僕の握りしめられた指を柔らかくほどくように、その長い指先で撫でて包んだ。彼の手のひらの体温に、冷えた指先が染みわたり、肩の力がやんわりと抜けていった。

(そうだ…僕たち、こうやって言葉が足りなかったから…)

 彼が僕をちゃんと大切にしようと、これからまた一緒に歩もうと思ってくれている、温かな問いかけに、僕は身体の奥がじわ、と熱がこもるような感覚になる。唇と一度、引き結んでから、口を開いた。

「…もし…」

 情けなく、かすれた声だった。あまりにも小さいのに、彼は一つも聞き逃さないとばかりに、まっすぐに僕を見つめて、静かにうなずいた。すり、とかさついた親指が、僕の人差指を撫でて、くすぐったい。その優しさに、くすり、と頬がゆるんだ。

「僕が、妊娠してたら…さくは、どうする…?」
「どうもしない」

 ゆるやかに目線をあげて、彼の瞳にたどり着くよりも先に彼がそう、はっきりと言葉を発した。その瞳は青く澄んでいて、偽りの色は潜んでいないように思えた。彼の大きな手のひらが、僕の細い指先を、大切そうに両手で包んだ。

「聖が望むままにしてほしい。どうあっても、俺の気持ちは変わらないから」
「じゃ…じゃあ、僕が…産みたいって言ったら?」

 前のめりに彼に聞いてみる。まっすぐに愛を訴えるような瞳がむずがゆくて、本心をつい、伝えてしまった。しかし、彼は、何も変えずに、ただ僕を瞳に映して続けた。

「大切に育てるさ、聖と俺の二人で」

 きっと聖に似てかわいいさ、とふわりと、彼が微笑んだ。あまりにも優しくて、甘い笑みで、僕は眦が熱くなった。

「だ、だって…さくの子じゃ、ないよ…?」

 アルファとは、縄張りを強く持つ生き物だ。だから、他のアルファが自分のオメガに手を出さないように、番という契りが生まれたのだと本で読んだことがある。僕らがヒトとして形を持つ前からある、遺伝子以上に深く深く身体に刻み込まれたものなのだと。
 だから、自分のオメガに手を出した他のアルファを許さない。その愛したオメガでさえも捨ててしまうアルファは多いのだとも読んだ。本能として刻まれたそれを、僕は恐ろしいと思った。呪いだとも思った。だけど、オメガに発情期が当たり前に来るように、アルファにもそうした本能は当たり前にあるのだ。
 不貞を犯したオメガを許すアルファも、ましてやそれによって生まれようとしている自分以外のアルファの遺伝子を持つ子など、アルファが許すはずがない。それは、当たり前のことなのだ。
 それなのに。

「聖の子は、俺の子だ」

 目の前のアルファは、いつもは冷たい表情が嘘かのように、ゆるんだ顔で僕に膝をついて、微笑みかけている。

「愛する人が産む子どもを愛さずにいられる訳ないだろう」

 ぼろり、と堪えていた涙が溢れた。一つ零れると、もう止められなくて、彼の首に腕を回して、抱き着いてわんわん泣いてしまった。
 ずっと、不安だった。
 一人で子どもを産み、育てることも。それを、誰かに伝えることも。
 それが、誰よりも知られたくなくて、知ってほしかった、彼に伝えることも。そして、産むことを喜んでもらえるかどうかも。
 この子を理由に嫌われてしまった時、自分はどうするのか。それが頭をよぎるだけで、胸がいっぱいになって苦しくて、どうしようもなかった。
 彼は、迷うことなく、僕に微笑み、産むことを喜んでくれた。
 愛してくれると約束してくれた。
 彼は、少しためらったあと、優しく、その長い腕で僕の身体を簡単に包んでくれる。

「聖…っ」

 熱い吐息と共に抱きしめられると、勝手に身体が震える。息がつまって、変な声が出そうになってしまうのを、飲み込んで、また彼に擦り寄る。
 温かい。
 僕よりも体温の高い彼は、筋肉覆われて硬い身体を持っているのに、抱きしめられると、どうしてこんなにもふわふわとした気持ちになるのだろう。これが現実ではないと言われているようで不安になって、さらに腕に力をこめて、彼が僕の腕の中にいることを再確認する。
 この腕の中にずっといたい。そう思ってしまうが、手のひらで肩を軽く押されて、顔をあげる。情けない顔をしているから見せたくはないのだけれど、彼がそっと前髪を耳にかけてくるから、はらりと視界が晴れてしまう。潤んだ瞳のまま、視線を交わるときゅ、と眉間に皺を寄せて彼は、こくり、と喉仏を揺らした。そのあと、すぐに顔を緩めて、僕に微笑みかける。

「今日はまだ雪が残っているから、明日、天気が良かったら、先生のところに行こう」

 柔らかい声色で囁くように言われて、静かに首を縦に動かした。
 離れていく彼が、名残惜しくて、上質なウールスーツの袖を小さくつかむ。その指先を見てから、彼はまた溶けた笑みで僕を見上げた。嬉しくて、気恥ずかしくて、でも離れたくなくて、僕は視線を上げたり下げたりして誤魔化していた。

「…でも、僕が…産まないって、言ったらどうする…?」

 今日、簡単に仕事に行ってしまいそうな彼が恨めしくて、わざとそんな意地悪なことを言い出してしまった。言葉に出てしまってから、目を開いて、やっぱりなし!と訂正しようと顔をあげた。すると、彼も瞠目して首をかしげていた。

「え? 産まないのか?」

 純粋に不思議そうに彼が僕を見つめていた。僕も同じように、思っていた反応と異なっていたため、首をかしげてしまう。え?とお互い、見合ってしまう。

「もちろん、その選択でも俺は協力する。聖の身体が一番だから」

 ただ…。
 彼は、首をかしげながらそう言って、かさついた手のひらで僕の手のひらを撫でた。するり、と逃げていく指先が恋しくて、その指先を僕が絡め引き留める。それに、彼は視線を落してから、頬をほんのりと染めて、僕に微笑みかけた。

「聖なら、産むという選択をすると勝手に思っていた」

 聖は優しいから。
 そう笑う彼は、初めて出会った頃の、あの、柔らかい頬を持ちながらも、精悍な面持ちを漂わせる、小さい少年を思わせた。ふと、マゼンダの鮮やかな背景と匂いすらも感じられて、胸が大きく高鳴る。

「本当は…産みたい…」

 ほろり、と本音が零れた。それに、彼は眦をさらに緩ませた。

「だけど、さくが嫌なら…やめたい…」

 それも本音だった。
 本当に、子どもがいるならば、それは奇跡であって、尊いことだった。
 だけど、今の僕には、何よりも、彼が一番の存在だった。
 知らずの内に指先に力が入っていたようで、強く強く、彼の手に指が食い込んでいた。それに気づいて、急いで離そうとしたが、今度は彼が指先に力を込めて、僕を引き留めた。

「嫌じゃない」

 はっきりと硬い声で彼は答えた。真剣な表情で、僕に告ぐ。

「聖が決めたことが、俺の意思だから」

 鼻の奥が、つん、と痛んで、顔に皺を寄せる。

「…ほん、とう…?」

 震える呼吸と共に吐き出すと、彼は頷いた。

「さく、…僕から…離れない? 嫌いにならない?」

 一緒にいてくれる?
 好きで、いてくれる?

 ばら、と涙がまた頬を滑り始める。
 ずっと、怖かった。それが、怖かった。
 その心からの本当の声を、今、彼に伝えられることも、僕の涙の一つの理由だった。今まで、ずっと、はっきりとした答えが告げられて、終わりを迎えてしまうのではないかという恐怖があって、言えなかった言葉たち。顔色ばかりうかがって、何も言えなかった僕たち。それが、今、本当に、本心を伝えあえるようになってきているのだと思うと、湧き上がるものが溢れて止まらなくなる。
 僕が話す言葉を一つ一つ、頷いて彼は、微笑んだ。

「俺から聖を嫌うなんてこと、絶対にありえない」

 骨ばった彼の手の甲が、顎から頬にかけて、涙を掬いながらなぞられると、我慢できなくて、鼻から声が漏れてしまう。ぴく、と指先がそれに反応を示すと、あっさりと逃げていってしまった。
 残念に思うけれど、彼の言葉で今は嬉しさでいっぱいだった。つい、口元が綻んでしまう。すると、彼もほっとしたように、さらに笑みを深めた。

「僕も、さくのこと好きだから…嫌われたくない」
「ん…俺も、聖のことが好きだ…」

 小さく彼の指先を握りしめながら囁くと、彼も同じように大切につぶやきながら僕の指先を抱きしめるように握り返してくれた。

(嬉しい…)

 僕たちのリスタートは、ようやく始まったのだと、二人で笑い合えた。




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