初恋と花蜜マゼンダ

麻田

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ep.8

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 外は小春日和らしく柔らかい日差しが降り注いでいるのに、空き教室は静かでひんやりとしていた。遠くでざわめきが聞こえて、時計の秒針の音が響いている。

「じゃ、じゃあ、時間だから…」

 彼の腕の中で顔をあげると、眉を下げて見下ろされる。

「聖…」
「ん、ぅ…」

 今生の別れのように切なげに顔に皺を寄せて、また唇に吸い付かれてしまう。先ほどまで笑い話をしながら、朝に一緒に作った弁当を並んで食べていたばかりなのに彼は甘えるように顎をくすぐり、唇を合わせてくる。そっと離れて目線が合うと、また彼は顔を寄せてくるので、急いで唇を手で覆って押し返した。

「もう! 一生の別れみたいに寂しそうにしないでよ。ただ、ゼミに行くだけだよ?」

 九十分の一コマが終われば、校門で待ち合わせをしていて、一緒にスーパーに寄って、食材を買い、同じ部屋に帰って、同じものを食べて、同じベッドで寝るのだ。それなのに、彼は毎時間、別れを惜しんで、こうやって空き教室を上手に見つけては僕の腕を引いて、ハグをしてキスをする。
 ようやく腕をゆるめてくれて、その隙間から僕は身体を逃した。ずれたトートバックの紐を背負い直して、ドアに手をかける。ドアノブをひねる前に、僕の手に大きな手のひらが重ねられて、僕のと同じリングが窓から漏れはいってきた日差しに反射して小さく輝いた。背中に温かな身体が触れて、長い腕が身体の前を通って抱き寄せられる。甘やかな彼の香りがして、心臓が高鳴り体温が上昇してしまう。

「聖、早く会いたい」

 耳元に唇が寄せられて、かすれた声が甘く囁く。それから、僕の頬に口づけを落とす。仕方ない、と腕の中で身体を半回転させて、背伸びをして彼の頬に唇を押し当てた。目線を合わせて、つい緩んでしまう顔で、ふふ、と笑いかける。

「じゃあ、すぐに会いに来てね」

 膜を張った瞳は潤んでいて、僕の顔を見ると少し見開いて、とろけるように細められた。それからもう一度身をかがめてキスをしようとしてきた彼をすぐに察知した僕は、すぐさまドアを開けて、またあとでね、と手を振って、次の教室へと走り出した。

(構内で、こういうことはやめてって言ってるのに…)

 熱い頬を手の甲で拭って、大股で次の目的地へと向かう。
 そう思っているのに、本気で拒まないのは、惚れた弱みというやつなのかもしれない。もっと吸い付いてほしかったと唇が疼いているようで、下唇を噛み締めた。







「あ、聖くーん」

 ゼミの集まる教室は少人数教室のため、小さな個室のような場所だった。長机を四つ出して四角型に向き合うように置かれたもので、入室してすぐ目の前に眼鏡をかけ、おさげの女の子が僕の名前を呼んだ。大きな黒い瞳が優し気で、それを細めて微笑む姿は大変愛らしかった。話し方もゆったりとしていて、人柄がよく表れている。隣の開いている席に腰をかけて、僕は挨拶をした。

「間に合って良かったね」
「ほんと。また遅刻かと思った」

 そばかすを散らした優しい顔で微笑むおさげの女の子は同じ学年の優未というオメガの子だった。当初、人と話すのが苦手な彼女はたまたま、座った席の隣にいた子だった。ゼミ初日で自己紹介もしどろもどろでとてもあがり症なのだとわかったが、一生懸命な誠実な人柄はその姿からよくわかった。しかし、自己紹介を終えた後、膝の上で握りしめた手は指先が真っ白になるほど強く両手で締め付けていて、そこにぽた、ぽた、と涙が零れ落ちていることに僕は気づいてしまった。あまりにも可哀そうに見えて、小声で、どうぞ、とハンカチを差し出してから僕たちは友達になった。
 優未の隣から声をかけてきたのは、彼女と正反対の派手な見た目をした男の子だった。ブリーチされた髪の毛はさら、としていて、首にはチョーカーがまかれている。一目でオメガだとわかるファッションとカラーコンタクトで大きくされた瞳と軽くメイクを施す美意識の高い、雫という僕と同い年の同学年の仲間だ。

「また彼氏といちゃついてたのバレバレ」
「えっ…」

 肩をすくめて首を横にふる雫に、なんでわかったのかと瞠目して見つめると、間に挟まれた優未が頬を染めて困っていた。

「意識が低いよ、甘ったるい匂いが漂ってる」

 僕の薬わけてあげようか? と大きなポーチをブランドバックから雫は引っ張り出した。バックのブランドと同じポーチにはいくつかアニメキャラクターのキーホルダーがついていて、それを見た瞬間、優未は瞳を輝かせて飛びついた。

「しーくん、これ! 今期アニメ版のアクスタキーだよね?」

 声を上ずらせてそのポーチにひっかかっているアニメのキーホルダーを摘まんで息を切らしながら優未が雫に振り返った。雫は、自慢げに鼻を鳴らした。

「そう! これ、そのアニメ会社の友達からプレゼントしてもらったの」

 かわいいでしょ、いいないいな~とやり取りする彼らは、学生らしいはつらつとしたエネルギーが溢れていた。

「今度、優未ちゃんにも紹介してあげよっか?」
「え…っ、で、でも…」

 人見知りの強い優未が、性格が真逆な雫の提案に困っていると、雫は、あ、と思い出したように声をだした。先ほどの雫の指摘にうなじをこすって、気持ちだけ誤魔化していた僕に視線を戻して雫が言う。

「そういや、聖ってサークル、結局どうしたの?」

 サークル、と言われて、僕は息を飲んでしまう。気まずく、頬を搔きながら小さく笑っていると、察しの良い二人は、あー…、とすぐにわかってくれたようだった。

「最初に行ったのがテニスだったんだっけ?」
「ああ…、テニスって、やってみたくて…」

 優未が眉を下げながらおさげを揺らして優しい声で話を振ってくれる。
 入学早々にサークル勧誘の嵐があったが、常に隣に彼がいた僕に勇気をもって声をかけてきたサークルは少なかった。その一つがたまたま興味があったテニスサークルで、よく調べもしないで彼に、入ってみたいと提案したら、非常に嫌そうな顔をされた。

「そりゃ、超有名ヤリサーに彼氏が入りたいって言って来たらブチギレどころじゃないでしょ」

 雫は、くく、と口元を押さえて笑いをこらえていた。
 世間とは隔絶した生活を常に送っていたため、はじめヤリサーと聞いてどこかの方言か何かかと思ってしまった。しかし、雫がそれは、身体目的であつまるサークルのことだと教えてくれて、優未と一緒に赤面したのも最近のことだ。確かに、その話をした日はすぐに家に連れて帰られて、朝までしこたま愛され、もう出ないと泣いても終わらなかったことも覚えている。

「それで、結局、彼氏がついてきたんだっけ?」
「そ、そう…」

 なぜ彼が怒っていたのかわからない察しの悪い僕に呆れて、彼が付き添うことを条件にサークル体験を行った。僕の登場を、勧誘してきたアルファらしい軽薄そうな先輩が笑顔で近づき、僕の身体に触れた瞬間、彼から威圧のフェロモンがあまりにも強くて、そこにいた僕を覗く全員が腰を抜かしてしまって、青ざめた顔で動けなくなってしまった。

「大学イチのヤリチンに入部を拒否られるって、聖、大物すぎだよな…、くくっ」
「しーくん…下品だよ…っ」

 桃色の艶やかな唇をゆるめて笑いを噛み締める雫に、顔を赤くした優未が止めに入る。
 僕に声をかけてきたのは、千人斬りの先輩だったらしい。何を斬ったのかはわからない。雫が教えてくれようとしたが、優未がさすがにだめ!と止めに入ってしまったからだ。
 テニスをしに行ったのに、彼が静かに怒り狂っていたせいで体験どころではなく、入部を断られてしまった。すると、彼が機嫌良く鼻歌を歌い始めて、僕の腕を引いて、帰り道についたのだった。納得がいかなくて、ついてこないで!と怒ったら、彼が寂しそうな顔で見つめてきて、それ以上強く言えず、結局次に見学に行った弓道のサークルでも同じことが発生した。その度に、うるうるとした瞳で、じ、と見つめられて、僕がその瞳に弱いことをすべて知っている彼は計画犯なのだと思う。
 彼が、ここならいいぞ、と紹介してくれたのは、囲碁研究部とか漫画同好会の静かなサークルで、言われてみれば確かに興味があったので、それらのサークルにも見学に行った。もちろん、彼は当たり前のように後ろについてくるのだが。サークル活動場所の扉を開く度に、中にいる人たちが僕を見ずに後ろに立つ彼を見て、涙目になってしまい、小さく震える姿が申し訳なくて、結局僕は、サークルへの入部を断念した。
 その時に優未とまた出会い、次のゼミの日に貸したハンカチを返しがてら、サークルの話を振ってもらい、僕たちは友達になれた。優未にひっついて、元から大学内の噂の中心にあった僕に興味を持っていた雫が割り込んでくる形になり、僕たち三人は友人となった。

「今からでも間に合うよ? うちのサークル、どう?」

 優未の入部している漫画同好会は同人誌を製作しているらしく、今度の夏に優未も何やらアニメの同人誌を発行するらしい。その手伝いだけでも、と熱心に声をかけてくれていた。

「聖くんに、アッサムのコスして売り子してほしい…っ」

 いつもは自信なさげに伏されている彼女の大きな瞳は、らんらんと輝いて僕を見つめていた。アッサム、というのは彼女が好きなアニメのヒロインだった。

「も、もしできるなら、西園寺様にゼロサムのコスもしてもらいたいっ…!」

 ゼロサムというのは、その漫画の悪い組織の代表らしい。ビジュアルの良さとクールな性格、しかし切ない過去から非常に人気があるキャラクターらしい。優未は、その二人のコンビが好きらしかった。

「いいのか、優未」

 興奮気味に熱を入れる優未の後ろから雫が指を振りながら溜め息をついた。

「聖もそうだが、西園寺サマが入部したらどうなるかわかるか?」

 雫の手入れの行き届いた桜貝のような爪が僕を指差した。その言葉に対して僕は首をひねるが、優未は、は、と息を飲んで固まった。

「た、確かに…。きっと、聖くんや西園寺様とお近づきになりたい人たちがたくさん来て…」
「そうそう。ヤリ目の巣窟になっちまうぞ」

 雫の発言に、優未は納得してしまったようで、しゅん、と肩を落としていた。
 大学に入って、彼とお近づきになりたいと機会をうかがっている人はたくさんいる。男女もバースも問わず、大学外からも足を運ぶ人がいた。最初は不安でたまらなかったけれど、彼が全く興味がないことが心底わかったし、雫や優未からの話を聞いていてもそうなのだと理解し、今では少しは許容できるようになってきた。
 しかし、僕もそのターゲットになっていることがわからずに、首をかしげてしまう。その僕の反応を見て、二人は、大きく溜め息をついた。

「ほんと、聖の鈍感さって、もはや嫌味だよな…」
「西園寺様の気苦労を感じます…」

 ますますわからなくて、眉間に皺を寄せているとゼミの教授がやってきて、室内にいたメンバーが挨拶をした。僕たちも話を中断させて教授の話に集中した。
 穏やかなお年を召した先生の話を聞きながら、僕は、雫たちの言葉を思い出して考え込んでしまった。思い返せば、入学して間もない頃、大講堂でアルファ二人に絡まれて、彼に思い知らされたことがあった。つまり、きっと、そういうことなのだ、と理解すると、顔中に熱が集まって、一人で真っ赤になり異変に気付いた優未に心底心配されてしまった。その隣にいた雫は、僕を見透かしていたようでにやにやと冷やかすように笑っていた。

 授業の終わりを知らせるチャイムが鳴り、部屋の片づけを行ってから三人で部屋を出た。三階の教室のため階段に向かっていると、階段前にある談話スペースのベンチにゆったりと長い脚を組んで座っている彼がいた。僕に気づくとすぐに微笑みながら手を挙げて立ち上がった。

「ひゃ~…いつ見てもお美しいですね…」
「悔しいけど、それは認めざるを得んな…」

 優未は口元を指先で隠し、雫は腕を組んで唸っていた。自分の彼氏が、友達にも認められているということは、くすぐったい気持ちになる。自分が褒められるよりも嬉しくて、そうでしょ?とつい自慢したくなってしまう。曖昧に笑って、そういう言葉を飲み落とす。

「それじゃ、先行くね」
「はい、また」
「おう、今度いい男紹介しろって彼氏に言っといて」

 雫に肘で小突かれてから、手を軽く振って、彼のもとへ小走りでたどり着く。

「ごめん、待った?」

 彼も大きな歩幅で近寄ってきてくれて、すぐに僕の目の前にやってくる。高い位置にある頭を見上げながら、小首をかしげて尋ねると、頬をゆるませて彼が乱れた前髪を直すように、髪の毛を撫でる。

「待つ時間があると、聖に会えた時の喜びが倍になるな」

 そう囁いて、嬉しそうに微笑む彼は、公共の場で見せるには甘すぎる空気を纏っていた。思わず、じわじわと全身の熱が上がっていくのがわかり、手の甲で頬をこするように視線を外した。そんな僕を細めた瞳で見下ろして、くすり、と笑ってから、彼は僕の手に指を絡めて、行こう、と柔らかい満足した声色で先を促した。
 僕の視界には彼でいっぱいで、周囲に多くの人が唾を飲んで見守っていたことなど気づくことは出来なかった。
 僕を見送ったあと、ずっと見つめていた二人は、溜め息をついた。

「あほらし…」
「素敵…いつか、私もああいう番が見つかるのでしょうか…」

 自分を抱きしめるように身震いした雫の隣で、優未はうっとりと仲睦まじい恋人を見つめて夢を抱いていた。優未に振り返って、雫はさらにげんなりと顔色を悪くさせた。

「優未ちゃん、夢見る乙女すぎ…。てきとーに遊べて信頼できるアルファ紹介するから、さっさと処女捨てちゃいなよ」
「なっ…!!」

 デリカシーのない発言をした雫に顔面を真っ赤にさせて優未は持っていたテキストをばしばしと叩きつけた。
 後日、日本のアニメカルチャーが大好きなキャシーが日本観光ついでに僕たちの大学に遊びにきたときに、優未と出会い、二人は恋に落ちる…というのは、まだ先の話…。



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