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第1章―出会い
川に吸い込まれた少女
しおりを挟む「いってきまぁす」
まだ布団にくるまっている妹にドアの隙間から挨拶をした3歳年上の兄は、ドアを閉め、玄関へと向かった。余計な音を出して起こさないように一歩一歩忍び足で廊下を進む。
眠っている相手に挨拶など決して意味をなすものではないが、これをせずには彼の中で一日が始まらないのだ。
まだ傷一つない、黒光りするローファーを足下に引き寄せる。履き慣れていないので足を埋めるのに時間がかかった。
「とうとう高校生か…」
履くと同時に心の中で呟いた。
ローファーを履くとどことなく大人の階段を一段上がったかのような気分になれるし、『高校生』という青春を謳歌すべき時間の到来を実感出来る気がする。
堅い靴の爪先を煉瓦張りの床にトントンと数回叩きつける。靴の温もりを感じながら、彼は外へ出た。
外は快晴。雲一つない青空に、太陽が燦々と輝いている。昨日まで数日降り続いた雨で濡れた道路は所々水たまりが点在しているものの殆ど乾ききり、反射した光が彼の汗に輝きを持たせる。
少し暑いが絶好の入学式日和だ。肩にかけた空っぽの鞄をギュッと握りしめ、足を進める。
学校までは約30分。駅まで10分ほど歩いた後、電車に揺られ2駅先で降り、そこからまた歩いて10分の道程だ。
中学生の時も30分歩いて隣町の学校まで通っていた彼にとっては決して苦痛ではないが、家から駅までの途中に小さな山が一つあることを考えると少し気が滅入ってしまう。3年間通い続ける学校、それなりに勇気がいるのかもしれない。
長い上り坂を、彼の出せる最大の力を振り切って上っていく。
その途中、1人の女子高生が視界に入ってきた。
街路灯一つ分程の距離が離れているためそこまで明確に観察することはできないが、身長はかなり高いようだ。180㎝はあるだろうか。サラリとした長い髪が腰の位置まで延び、山から下る強い風がそれを大きく靡かせている。
髪の隙間から垣間見れる横顔から察するにかなり美人であろう。視界から外れないように、凝視しながら歩く。
そのまま後ろを歩いていると、小さな川を跨ぐ橋に差し掛かった。
昭和初期にできたらしく、現代らしからぬ木橋というとてつもなく簡素なもの。水面から2メートル程高さがあるにもかかわらず縁に柵はなく、橋幅も狭いために下手に動けばすぐに落ちてしまう。車など来たら更に大変だ。回避するスペースもなく、轢かれたくなければ川にドボンするしかない。
…と、目の前の美少女高校生が橋の中央を歩き始めた時、彼は後ろから差し迫っているトラックのエンジン音を耳にした。
危ない、と思った彼は、立ち止まって大きく息を吸い込んだ。大声で注意を促す。
「おーい!危ねぇぞ!」
緑の茂る人通りの少ない山道を、中学の部活で培った大きく怒号のような彼の声が支配する。それを聞いて鳥が一斉に飛び立つのが目に入った。警戒心の強い山中の動物はどんな人間の声にも敏感だ。
しかし、人間である彼女にはその声は届かなかった。両耳にヘッドホンをあて、身体を一定のテンポで揺さぶりながら歩いているのだ。おそらくポップ系の音楽を聴いているのだろう。これでは彼の声に気づかないどころかトラックの音にも気づかないかもしれない。
そんな彼女に躊躇することなくトラックは迫ってくる。彼は運転席に座る運転手を見たが、残念ながら彼女に気づいている様子はない。正面を見ずにスマホ片手に運転していては気づくはずがない。
彼は焦った。
このままいくと、彼女はトラックに押され、川に落ちてしまうかもしれない。
そうなったらどうすればいいのか。川に飛び込んで彼女を助ける?しかし自分まで危ない…。警察か誰か大人を呼ぶ?しかしこの田舎には警察は通報してもすぐには来ない…。人もいない…。
…どうしよう、俺。
何もできず立ち尽くす。
トラックの目の前に立ってハンドパワーで止めようかとも思ったが、それは現実的に考えて不可能なので却下した。
目の前のトラックが前輪を橋に乗せ始める。しかしもちろん彼女も運転手も気づいていない。
橋の端…を歩く女子高校生、スマホ片手に運転されている巨大な鉄の塊、そしてその後ろの方で俯瞰する男子高校生。この状況を誰が何時想像出来たか?
…そして、彼女の横をトラックが通る。
その瞬間、サイドミラーが彼女の肩を掠った。
彼女が咄嗟に振り向く。
しかしもう遅い。
咄嗟に回避しようとした彼女の左足は床面につくことなく柵のない橋からはみ出し、宙に浮いた。
彼女自身の体重を右足だけで制御できるはずもなく、左足諸共身体はゆっくりと落ちていく。その水飛沫は綺麗な放物線を描きながら空高く舞い上がり、そのまま川へと吸い込まれて行った。
彼女にとっても彼にとっても本当に一瞬の出来事であった。立ち尽くすことしか出来なかった彼。何もできなかった自分に情けなく思う。
ちなみにトラックは当たったことにも気づいていない様子で、決してブレーキをかけることなくそのまま走り去っていった。
みなさん、呉々も『ながらスマホ』はしないようにしてくださいね。
先程まで緊張が走り、トラックのエンジン音が響き渡っていた空間に沈黙がもたらされる。
急に起こった出来事に、彼の脳の処理は追いつかない。
しかし彼は本能的かつ無意識に、彼女が川に落ちた瞬間に肩からずり落ちた自分の鞄を拾い、橋の上から川面に目を遣った。
全身ずぶ濡れになった美少女高校生が水面から顔だけを覗かせている。
「おーい、大丈夫か!?」
やっと状況を把握し始めた頭を振り絞って、助けを求めているだろう彼女に声をかける。
滅茶苦茶心配しているというのを思いっきり面に出しながら訊くと、彼女は睨みつけてきながら「私泳げないのよ!男なら早く助けなさい!」と怒鳴りつけてきた。
彼は少し眉間に皺を寄せたが、あれだけの美少女に自分を求められているのであれば動かないわけにはいかない。
こんなシチュエーションは初めてだが、こういう場合の対処法はよく知っている。ラノベ作家さん、いつもラブコメ展開行動マニュアルの情報提供ありがとうございます。
「わかったよ!」
彼はイケボ(だと彼は信じている)で叫んだ。
ブレザーのボタンを粗雑に外し、彼女に見せつけるように服を剥ぎ取り、橋床に叩きつける。
最後に足と腕の裾を捲り、準備が整った。
まだ新しい制服だが、あんな美少女に助けを求められては助けない訳にはいかない。お母さん、洗濯よろしくお願いします。
「うおぉぉぉ!!!」
彼は綺麗な放物線を描きながら美少女めがけて川へとダイブする。着水地点は見事に彼女の目の前。彼は自分で驚いた。
何も言わない彼女の手をギュッと掴む。
彼にとってこれが人生初の女子(母親、幼馴染は除く)との手繋ぎなのだが、今はそんなことは関係ない。さらにこれが人生初の女子(母親、幼馴染は除く)の身体に触った出来事だろうが、今はそんなことも関係ない。
彼は無心に彼女を自分の方へとグイッと引き寄せた。そのまま肩に手を乗せ、水底を蹴りながら岸辺へと向かう。
「…大丈夫か?怪我はしてないか?」
持久走の後並に息切れした呼吸を押し殺し、とりあえず確認をとった。
我ながら良い判断だったな、と彼は笑みを浮かべた。ラノベ作家さんには感謝してもしきれない。あと、ゲームの製作者さんにも頭が上がらない。
心配そうな声で言った彼を逆に心配してくれたのか、彼女はできる限りの笑顔を取り繕ってくれた。
「大丈夫よ。ありがとう、助けてくれて」
太陽に照らされて輝く水面から取り出された、太陽よりも輝く女子高生のキラキラ笑顔。その顔には透明度の高い小川の純水が垂れ流され、サラリとした濡れ髪が一層その笑顔を栄えさせていた。
あまりにも美しく可愛い笑顔に、彼はニヤけが止まらない。
…しかし、そんな幸せも束の間。
興奮して空を見上げていた目線を再び彼女に向けると、そこには先程とは違う鋭い目つきの彼女がいた。
「な、なに…?俺、何かやましいことしたっけ?別に胸も触ってないし変なところは触って―」
「…この繋がれた手と、肩に載っている手は何かしら?」
そう言われ、目線を彼女の肩と手元に集中させる。
なだらかなカーブを描く柔らかな肩に載せられた太い手。
スラットした長い指と絡み合う見慣れた指。
間違いない、先程彼女を助け出した自分の手だ。
「―あっ、ご、ごめんなさい!!」
顔を真っ赤にし、申し訳なさそうに両手を彼女から離す。
しかし彼女の顔から鋭さが消えることは無かった。彼が話した直後は納得したような顔をしたが、すぐに戻ってしまった。
その後彼らは自分たちの濡れた制服の水気を叩いて取り、彼は橋上に投げ捨てた汚れのついたブレザーを取りに行った。新品であることが悔やまれたが、『美少女を助けた』というステータスがそれを跡形もなくかき消した。
彼女の制服については水気はとったはいいが、やはり生地に水が吸い込まれていた。入学式までに乾くことはないかもしれない。
「女子がそんな濡れていては不審者に襲われてしまう…俺のと交換するか?」と彼は男らしく提案してみたが、彼女に「不審者はあなたよ!」と強く拒絶されてしまった。女というものは酷い生き物だ。恩人を不審者呼ばわりとはいい度胸だな。ここでいっちょやってお…いや、何でもないです。美少女なら何やっても大丈夫です。
「ところでお前、東丘高校か?」
彼の質問に彼女は再び彼を睨みつけ、
「…オ=マエって誰かしら?私はオ=マエなんてアメリカ人のような名前ではないわ。…まぁ、アメリカ人に見えていたのならそれはそれでいいのだけれど」
誰!?オ=マエって誰!?そもそもアメリカ人なの!?俺の予想ではもはや宇宙人だと思うのですが!?
しかも軽蔑の眼差しのままさり気なく面白いこと言わないで!
「…お前って言うのは確かに失礼だった。……ところで貴方はどのようなお名前でいらっしゃるのでしょうか?教えて頂けると幸いです」
彼女は納得したように微笑む。
「私は柳瀬川穂花よ。あなたの言う通り、今日から東丘高校の生徒になるわ」
予想通りだ。まあ、制服が同じ時点で当たり前だが。
というか、穂花ってなかなか可愛い名前だな。なんかお米の香りがする感じ好きだよ。
「俺は鶴ヶ島智也だ。穂花さんと同じく東丘高校の新入生だ。よろしくな」
彼も親に授けられた大切な名を名乗る。
しかし、彼女はなぜか頬に手を当て、何かを考えているようなふりをした。
「……どこかおかしいとこあった?」
「あなたの名前、どこかで聞いたことがあるような気がするのだけど……まあいいわ。そのうち思い出すでしょう」
何か裏を含んでいるように言う穂花。智也の頭には?が山のように溢れ出した。
「……ところで―」
しかし智也が聞き返す暇もなく、彼女が再び口を開く。
「あなた、私と同い年だったのね。もう少し老けて見えていたわ。…そうね、だいたい40歳くらいかしら」
―それって『もう少し』とかいうレベルじゃないよね!?完全に中年オヤジですよね!?
だいたい、制服着てるんだからせめて高三ぐらいの年齢にしてくれよ!
「…穂花さんって意外と辛辣な発言連発するよね。メンタル弱い奴だったら今頃この川に飛び込んでるよ」
「こんなくらいで川に飛び込むんだったら、私と日常会話できないわね」
…質問です。なぜ美少女ってこうも性格に難があるのでしょうか?日常会話くらい普通に出来る美少女はいないのでしょうか?美少女は猛獣なのでしょうか?
「それじゃあ私行くわね。助けてくれてありがとう。学校で会えたらお話ししましょ。また後でね」
彼女は徐にそう言って立ち上がり、水に濡れた鞄とブレザーを片手ずつ持って駅の方へと向って行った。その様子は獣を捕らえて食い終えた後のライオンのようである。トラ柄の服でも着せたら似合うんじゃないかな。いや、それだとトラになっちゃうか。
彼女を引き留めて学校まで一緒に行きたかったと思う彼だったが、初日から一緒に学校に行ってしまうと、馬鹿な奴らに二人の関係を問いただされることは間違いないので特に引き留めるようなことはしなかった。
入学当初からそんなことに巻き込まれたくもないし、何しろ彼女が哀れだ。
少し寂しい気持ちとこれからの期待を胸に、鶴ヶ島智也は再び一歩一歩進み始めた。
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