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グレイブは椅子を引いた。
その音が音楽の合間を縫って、やけに鮮明に響いた。
会場の空気がわずかに揺れる。
誰かがグラスを落としたかと思うほどの静けさが訪れ、そして、彼は歩き出した。
「グレイブ様……?」
呼び止めようと伸ばした指先が空を切る。
彼の背中はすでに、光の海の中に溶けていった。
琥珀色のシャンデリアが彼の肩に降り注ぎ、その一歩ごとに、何かが決定的に遠ざかっていくようだった。
会場の中央に立った彼は冷たい夜のような眼差しで周囲を見渡した。
喧騒が一瞬で広がる。
「本日は……一つだけ、皆に伝えなくてはならないことがある」
そして、その喧騒を沈めるように低く、けれど、不思議とよく通る声で彼は言った。
人々の視線が彼へと集まり、音楽が静かに止む。胸の奥で、鼓動が痛みに変わった。
「私、グレイブは——本日をもって、侯爵令嬢リシェルとの婚約を破棄する」
瞬間、息が止まった。
そうなることは分かっていた。
むしろ、どこかでそうなれば、痛みも楽になれるとすら思っていた。
でも、彼の言葉だけが耳の奥で何度も反響して、胸の奥を酷く痛みつけてくる。結局のところ、この痛みから逃れる術など、どこにもなかった。
「理由を、お聞かせ願えますか」
自分の声は婚約者に言葉をかけるにしては、酷く震えていた。
グレイブはわずかに目を伏せ、それでもはっきりと口にする。
「他に、想う女性ができた。故に破棄を願う」
一拍の沈黙。
会場の隅で、グラスが砕ける音がした。
人々の視線が私へ、次に彼へと移り、やがて、一斉に囁き合う。それは噂の雲のようで。
その喧騒の中、私は静かに微笑んだ。
「そう……でしたのね」
声が震えないように、ゆっくり息を吸った。
彼から話しかけられたのは初めてだったのに——それが、別れの言葉になるなんて。
それでも、私が彼に寄り添い続けた理由が愛ならば。
私は彼の幸せを願うのみだ。
「——どうか、お幸せに」
私の口から漏れた言葉は形式的な言葉だった。
かすかに笑みを浮かべ、ドレスの裾をすくう。
その仕草も何もかも、形式的なものだった。その形式的なものに身を任せないと、感情を爆発させてしまう。そんな気がした。
絹の擦れる音が妙に大きく響く。
グレイブは沈黙を選んでいた。その沈黙が最後の拒絶のように思えて、幸せを願うにしては、酷く執着を寄せてしまった。
人々のざわめきを背に、私はゆっくりと会場を後にした。
足音をひとつ運ぶたびにこの執着が簡単に落ちれば良いのに、と思ってしまう。
けれど、それはどうやら無理らしい。
ドレスの裾が磨かれた大理石の床をなぞる。香水のほのかな甘さが、夜気の中にほどけていく。その香りが、彼と過ごした季節を一つずつ呼び覚まし、喉の奥を締めつけた。
会場の扉をくぐった瞬間、外の空気が冷たく頬を刺した。
背後で再び音楽が流れ出す。
華やかなワルツがまるで何事もなかったかのように夜を満たしていく。
その音が誰よりも冷たく、残酷に響いた。
私は扉の向こうで小さく息を吐き、風を眺めた。
さっきまで彼の姿を追っていた視線が、どこにも行き場をなくして震え、そして、涙で霞んでいた。
その音が音楽の合間を縫って、やけに鮮明に響いた。
会場の空気がわずかに揺れる。
誰かがグラスを落としたかと思うほどの静けさが訪れ、そして、彼は歩き出した。
「グレイブ様……?」
呼び止めようと伸ばした指先が空を切る。
彼の背中はすでに、光の海の中に溶けていった。
琥珀色のシャンデリアが彼の肩に降り注ぎ、その一歩ごとに、何かが決定的に遠ざかっていくようだった。
会場の中央に立った彼は冷たい夜のような眼差しで周囲を見渡した。
喧騒が一瞬で広がる。
「本日は……一つだけ、皆に伝えなくてはならないことがある」
そして、その喧騒を沈めるように低く、けれど、不思議とよく通る声で彼は言った。
人々の視線が彼へと集まり、音楽が静かに止む。胸の奥で、鼓動が痛みに変わった。
「私、グレイブは——本日をもって、侯爵令嬢リシェルとの婚約を破棄する」
瞬間、息が止まった。
そうなることは分かっていた。
むしろ、どこかでそうなれば、痛みも楽になれるとすら思っていた。
でも、彼の言葉だけが耳の奥で何度も反響して、胸の奥を酷く痛みつけてくる。結局のところ、この痛みから逃れる術など、どこにもなかった。
「理由を、お聞かせ願えますか」
自分の声は婚約者に言葉をかけるにしては、酷く震えていた。
グレイブはわずかに目を伏せ、それでもはっきりと口にする。
「他に、想う女性ができた。故に破棄を願う」
一拍の沈黙。
会場の隅で、グラスが砕ける音がした。
人々の視線が私へ、次に彼へと移り、やがて、一斉に囁き合う。それは噂の雲のようで。
その喧騒の中、私は静かに微笑んだ。
「そう……でしたのね」
声が震えないように、ゆっくり息を吸った。
彼から話しかけられたのは初めてだったのに——それが、別れの言葉になるなんて。
それでも、私が彼に寄り添い続けた理由が愛ならば。
私は彼の幸せを願うのみだ。
「——どうか、お幸せに」
私の口から漏れた言葉は形式的な言葉だった。
かすかに笑みを浮かべ、ドレスの裾をすくう。
その仕草も何もかも、形式的なものだった。その形式的なものに身を任せないと、感情を爆発させてしまう。そんな気がした。
絹の擦れる音が妙に大きく響く。
グレイブは沈黙を選んでいた。その沈黙が最後の拒絶のように思えて、幸せを願うにしては、酷く執着を寄せてしまった。
人々のざわめきを背に、私はゆっくりと会場を後にした。
足音をひとつ運ぶたびにこの執着が簡単に落ちれば良いのに、と思ってしまう。
けれど、それはどうやら無理らしい。
ドレスの裾が磨かれた大理石の床をなぞる。香水のほのかな甘さが、夜気の中にほどけていく。その香りが、彼と過ごした季節を一つずつ呼び覚まし、喉の奥を締めつけた。
会場の扉をくぐった瞬間、外の空気が冷たく頬を刺した。
背後で再び音楽が流れ出す。
華やかなワルツがまるで何事もなかったかのように夜を満たしていく。
その音が誰よりも冷たく、残酷に響いた。
私は扉の向こうで小さく息を吐き、風を眺めた。
さっきまで彼の姿を追っていた視線が、どこにも行き場をなくして震え、そして、涙で霞んでいた。
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