あなたが遺した花の名は

きまま

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霧のかかった朝。
馬車の車輪が石畳の上で静かに軋んでいた。
春の名残を抱えた風が窓の外の木々をゆるやかに揺らしている。
見慣れている景色は私をお出迎えするように、ゆっくりと近づいていた。

「お帰りなさいませ、リシェルお嬢様」

執事の声に私は微笑みを返す。
その笑みがきちんと形になっているのか、自分でも分からなかった。

故郷の空気はやさしく温かい。
まるで何もかもを包み込みながら、全てを慰めてくれるような、そんな母性に似た何かがある。

応接室のソファに腰を下ろすと、ふっと身体から力が抜けた。
都会の舞踏会や貴族たちのざわめきとは違う、このゆるやかな時間の流れ。
それは波立っていた心を自然と平らにしてくれる。
ここは私に何も求めてはいない。その沈黙すら優しく、心に染み入る。

「……しばらくは、ここでいいかもしれないな」

誰に聞かせるでもなく、独り言が零れた。それは、驚くほど穏やかな声だった。
そして、思う。
こんなふうに穏やかな朝が続くのならば——。
しばらくはこの故郷のぬくもりに身を委ねてもいいのだ、と。

そういう風に考えていれば、不意に扉が開く音がして、私はそちらへ顔を向けた。

「リシェル、帰ってきたのね」

ゆったりした声でそう言ったのは、母だった。
淡い色のドレスを纏い、昔から変わらない柔らかな微笑みを浮かべている。
その後ろには、腕を組んだ父が続いていた。無骨なようでいて、私を見る目だけはいつも決まって優しかった。その表情は今も変わらない。

「遠い道のりだったろう。よく帰ってきたな」

その言葉は、客人をもてなすように形式的なはずなのに、妙に胸の奥にじんわりと沁みた。
ただの挨拶にどれほど救われたのか、自分でも驚くほどだった。

母はそっと私の手を取って、まるで小さな頃のように優しくさすってくれる。

「顔色が少し疲れているわ。……大丈夫?無理していない?」

「大丈夫です。少しだけ、休みたかっただけで」

そう答えた声は、思いのほか穏やかで、軽かった。まるで、この家に足を踏み入れた瞬間に、肩のおも荷が自然と外れたみたいに。

父が静かに頷き、暖炉の近くを指した。

「しばらくは何も考えず、ゆっくりするといい。社交界のことも、公務の場の流れも……全部忘れて構わん。ここではお前は普通の娘だ。それで十分だから」

喉の奥がじんわりと熱くなり、私はほんの少しだけ目を伏せた。泣きたくはなかった。ただ、その優しさを胸いっぱいに吸い込みたかった。
母は私の肩に軽く手を置き、囁くように言う。

「今日は温かいスープを用意してあるの。あなたの好きなように、ゆっくり過ごしなさいね。部屋ももう整えてあるわ」

——帰ってきたのだ、と実感した。
誰も私を責めないし、誰も蔑みもしない。
ただ、「おかえり」と包み込んでくれる場所。
私は微笑んで二人に頭を下げた。

「……ええ、しばらく甘えさせていただきます」

窓の外では、春の名残を乗せた風が庭を撫でていく。
そのやわらかな風を眺めながら、ようやく私は深く息を吐いた。

——あの日の痛みが薄れていくように。
——そして、静かな日々が始まるように。
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