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南野との一幕
しおりを挟む南野さん、と斉藤の呼んだ背中が硬直した。
すぐに帰ろうと車のキーを持ったままの南野が振り返る。
「なんですか?」
ほとんどの調査員よりも年下の南野は敬語が癖になっている。廊下越しに低く問うて、こちらに身体を向けた。――斉藤が声高く喜んでいたんだから、理由くらいわかっているだろうが。
「今から主任と堀内さんと飲み行くんだけど、南野さんも一緒にどう?」
「……いや、俺は」
「来いよ」
俺の一言に南野は硬直した。
いつものしかめっ面になり、手中の鍵をもてあそぶ。
躊躇している様子に、斉藤が薄茶色の細そうな髪を掻き上げながらにっこりと微笑んだ。
「行くでしょ? もちろん。二十歳を超えてるんだから酒くらい飲めるわよね。同僚との飲み会を断るなんてバカのやることじゃない」
滅多なことがない限り、俺は彼女の言葉に口を挟まない。調査方法にも手を加えない。斉藤えり子は俺が出会った中で最強の女だからだ。
斉藤の言葉に南野は渋々と観念したようだった。
「……行きます」
「いい子ね」
「それじゃ、あたしは堀内さんを送っていくわ。ホントにこの人ってば酒に弱いのねー。明日、弄って遊べそう」
「……あんまりいじめてやるなよ?」
六本木にまで飲みに出たのは久々かも知れない。ほろ酔い加減のいい気分で、俺は堀内をタクシーに押し込んだ斉藤を見た。彼女はほんのわずかに頬を上気させているが酔った雰囲気は微塵もない。ウェーブのかかった細い髪に、小振りな顔。華奢な首。……本当にいい女だな、こいつ。
「あら? あたしはそんなにヒドい女じゃないわよ。ちゃ~んと南野さんのこと潰さなかったでしょ? ま、主任のことは諦めてるんだけどね。強すぎるもの」
斉藤は艶やかにいたずらっぽく笑った。
――まったく、こんなにいい女なのに、どうしてこんな性格なのかな。
俺は笑うしかなかった。
「何があっても、お前にだけは潰されたくねぇな~」
「そう? あたしは潰して襲ってみたいけど。禁欲的なあなたの雰囲気、結構好きよ」
「……一応、ありがとうって言っておく」
「じゃ、また明日。今日は楽しかったわ。南野さん、また飲みましょうね」
するりとタクシーの助手席に滑り込んで、斉藤はヒラヒラと手を振った。肘でド突くと横に立っていた南野がのろのろと手を挙げる。ふたりで手を振って見送った。
周囲は酔っぱらいで一杯だ。
赤いテールランプは一瞬で同じ光に飲み込まれた。
風が少し冷たい。
「――見たか? ひとりでワイン一本を開けたぞ、斉藤の奴」
「カクテル十杯は飲んでましたね。どうなってるんですか、彼女の肝臓」
彼女の酒豪っぷりに思わず南野と顔を見合わせてから、こんなに近くで顔を見たのが久しぶりだと気づいた。恐らく南野も同じことを持ったのだろう。ふっと目を背けた。
歩道に戻りながらちらっとこちらを見る。
「どうします? タクシーで帰りますか?」
「あ~、そうだなぁ」斉藤は飲み会での煙草を嫌がる。我慢していた煙草を急いで取り出し、火をつけた。肺まで深々と吸い込んで吐き出す。「……もう一度飲み直すか? お前、食べてばっかりで飲んでないだろ」
「――飲みましたよ。充分です」
「そうか? ならいいが」
南野はまっすぐ前を見たあと、足取りをゆるめて隣に並んできた。
「飲み足りないんですか?」
「いや……、こんなもんにしとかないと、あとが怖いからな。千鳥足で転んで頭でも打ってみろ、所長に殺されるし、病院であの怖い女医さんに何を言われるか知れたもんじゃない」
「そうですか」
どちらとも、どんな手段で帰るとも言わないまま、人の溢れる歩道をのろのろと歩いた。俺は煙草を吹かしながら酔いに身を預ける。誰かと楽しい酒を飲んだのは本当に久しぶりだった。気兼ねすることなく、身構えることもなく全部がするすると流れて、今は心地よさだけが残っている。
――仕事もこういう風に、上手くいってくれたらな。
煙草を携帯灰皿でもみ消した。
「山崎さん」
「……どうした?」
南野の手が、腕を掴む。いつの間にか奴は立ち止まっていた。俺が振り返ると南野は手を離して気むずかしげな顔になる。
「どうやって帰りますか?」
「あ、……そうか、お前、事務所に車か」
「酒を飲んだら乗るなは常識でしょう。車はいいんです」
「そうか? あ、……お前の部屋、ここから近いのか」
確か乗り換えても一時間以内に帰れるくらいの距離だ。俺は思わず苦笑して、タクシーを目で探した。
「悪いな、意味もなく付き合わせちまって。タクシーで帰るわ」
「……えぇ。タクシー、止めましょうか」
「いや――」
止める前に、南野は車道の方に歩いていった。気が早い。俺は二本目の煙草を取り出しながら南野の後ろに立つ。数台をすぐ横からさらわれて、一台に見事に無視されて、南野はようやくタクシーを捕まえた。南野は運転手が開けたドアを固定しながら俺を目で促す。
まだ長い煙草を、もみ消した。
懐から財布を取り出して万札を抜き出す。
「南野、これ、とっとけ」
胸に押しつける。
「……なんですか?」
「あの割り勘はやっぱおかしい。斉藤ばっかり飲んでたからな、ほとんど飲んでねぇお前が払う必要はねぇだろ」
「普通、飲み会は割り勘でしょう。おかしくないですよ」
「いいからとっとけ。俺が納得出来ねぇんだ」
「山崎さん」
拒む南野のポケットに、ねじ込む。嫌がった南野は俺の腕を掴んだが、もう遅く、札はポケットに入ったままだった。俺はタクシーに頭を突っ込む。乗り込もうとしたところを、腕を引かれシャツの胸ぐらを掴まれた。
金を返そうとしているのかと思い、「お前、受けとれって――」と言いながら顔を上げたところで、唐突に唇を塞がれる。ほのかにワインの薫る舌に口内をざらりと舐められ、乱暴に突き放された。
は?
何だ、今の。
南野はいつもの無表情。
「――お客さん? 乗るの、乗らないの?」
苛々した運転手の問いに我に返った。
ようやく捕まえたタクシー。
「あ、乗ります、――乗ります」
慌てる俺を南野は丁寧に人のシャツを整えてから、タクシーに押し込んだ。首筋が火照ってている。運転手に住所を告げながら、思わずミラーを伺った。どうやら運転手は見ていなかったらしく慣れた仕草で車を操る。
ワケがわからなかった。
なんだ、ありゃ?
――なんでキスなんかしやがった?
あいつ。
南野の徹したような無表情を思い起こして、身体が熱くなる。
ワケがわからないなりきに赤面しているのがわかった。
身体が熱い。
「お客さん、具合でも悪いの?」
「……なんでもない。ちょっと飲み過ぎただけだから」
「そう?」
金を払って、降りる。
その頃には落ち着いてきて冷静な対応が出来るようになっていた。運転手に「気をつけてな」と声をかけてきびすを返し、ふらふらと歩き出しながら、うっすらと先ほどから気づいていた事を俺は渋々と認めざるを得なかった。
南野に触れられて、嫌悪感がどこにもなかったことに。
――少なくとも記憶の中とは随分と違う。
奴の舌が香っていた。
最後に飲んだ、白ワインだろうか。
俺はその晩、寝るに寝られず、まるで風邪を引いたように火照る身体を持て余しながら書類整理に全力をぶつけた。
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