ある探偵の独り言

イケウタ

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「山崎さん、いるんでしょう?」
 風呂場のドアが二度叩かれて、俺は薄っぺらい眠気の中から引き摺り戻された。周りで風呂の湯がぴちゃんと跳ねる。慌てて目を向けた先で、風呂場のドア――磨りガラスに見慣れた南野の影が映っていた。
「山崎さん?」
「あぁ、いるよ。悪いな、風呂、借りてるぞ」
「勧めたのはオレですから気にしないでください。具合、どうです?」
 風呂場の時計を見る。四時過ぎ。
 どうやらうとうとしていただけで、寝てはいなかったらしい。ほっとしながら湯の中に肩まで沈んだ。
「どこ行ってたんだ? 部屋から出るなって言っただろ」
「書き残した通り、買い物ですよ。食べ物が何もなかったんで。――所長、何か言ってましたか?」
 ここで南野を問い詰めることは容易かったが、俺が南野に尋ねるべきじゃない――所長と宗田さんに何もするなと言われちまった。俺は考えあぐねて、「出てから話す」と言って会話を打ち切った。脱衣場から奴が居なくなる。俺はもう少し湯を堪能してから、上がった。
 下着とシャツは途中で買ってきた。狭い脱衣場で脱いだはずの背広を探したが見あたらず、替わりに奴のスエットのズボンとTシャツが置かれている。
 ――風呂に入るよう勧めた置き手紙の次はコレか。ホント、マメというか、細かいというか。
 有り難く借りると、タオルを肩に引っかけてリビングに出た。
「病院、どうだったんです?」
 南野は今朝見た時とは違う背広姿で、キッチンの壁により掛かり、牛乳の入ったコップを手にしていた。ネクタイはしていない。……俺は年よりも若く見られるが、こいつは年を喰って見られるんだろうな。
 年の割には妙な落ち着きがあるんだ。
 まぁ、こいつが歩んできた人生を思えば、仕方ないことだが。
「……所長に電話したこと、怒ってるんですか?」
 黙ったまま奴のそばをすり抜け、冷蔵庫から野菜ジュースを取り出し、ストローを刺した。南野は怪訝そうな顔でこちらを見ている。俺はおもむろに手を上げると、奴が眉間に深々と刻んだ皺をびっと伸ばした。
 あ、変な顔。
「……あのねぇ山崎さん」
 一瞬、呆気にとられた南野は、仏頂面で俺の手首を掴んだ。
「巫山戯ないでくださいよ。オレは心配して――」
「一度、精密検査を受けることになった。どうも経過が良くないってさ」
「ホントですか?」
 驚く奴の手を振り払う。ソファが一台にローテーブル、テレビにスピーカー、他には書類を詰め込んだ本棚しかない殺風景な部屋を眺めた。片隅に積んである車の雑誌だけが、部屋の主の趣味を現している。
「主任は入院で補佐は暴力沙汰で謹慎、か。お前が早々に戻らなきゃ俺のチームはバラさなきゃならないな」
「何を言ってるんです、他に補佐を選べばいいだけでしょう。オレでも出来たんですから斉藤さんや堀内さんでも十分に勤められるますよ。なんだったら大槻でも大丈夫じゃないですか」
 そう、確かにそれがもっとも簡単だし、賢いやり方だろう。それに補佐が多い方がいざという時の人員確保もやりやすく、調査も早くなる――計算上では。
 俺はずずっとストローを吸って野菜ジュースを飲み、何となく電源の入っていないテレビを見た。部屋の中がぼんやりと写り込んでいる。
「いらねぇよ、俺の補佐はお前だけでいい」
「――――」
「だから早く戻れよ。あてにしてるんだ」
 奴が寄り掛かる壁に手を付くと、少しだけ背伸びを――癪だが仕方がない――して、困惑している南野の唇を軽く、塞いだ。奴の唇は乾いていて、しかも野菜ジュースと牛乳は相性が悪い。混じった味が不味くて再びストローをくわえた。
 裸足で歩くとフローリングの床がぺたぺたと音を立てる。
 また冷蔵庫を開いて覗き込んだ。
「晩飯、何買ってきたんだ? 俺も一緒でいいのか?」
「……山崎さん」
「あー、肉あるな、肉。これ焼いていいか? 他に簡単なスープと――!」
 横から冷蔵庫についていた右手を取られ、危うくすっ転ぶところだった。慌てて冷蔵庫に寄り掛かる。だが掴んで支えた左手も引っ張られて、俺は思わず悲鳴を上げた――階段から転落して以降、落ちるとか転ぶってことが怖くてしょうがない。咄嗟に身を強張らせて目を閉じたが、鈍い音がしただけで、痛みはなかった。
「……山崎さん」
 俺は奴を下敷きにしていた。少し煙草臭い背広。起き上がろうにも両手で抱き込まれていて、まともに動くことも出来ない。不自然な態勢が苦しくて藻掻き、どうにか奴の肩に額を押しつけ、息を吐く。
「だぁ、ビビった……」
 背中から滑った奴の手が明確な意志を持って脇腹を撫でる。肩がびくりと震えて、俺は思わず南野の手を掴んだ。
「おい、今は止めろ」
「――言ってることとやってること、目茶苦茶ですよ、あなた」
「わぁってる。今は、止めろ」
 強い制止の声に、奴は少し考えてから、脇腹の手から力を抜いた。身体を押さえ付けていた手も力を込めれば外れる。俺はようやく動けるようになって、冷たい床に座り込んだ。
 南野は強い猜疑心の籠もった目で俺を睨んでいる。片膝を伸ばし、もう片膝を引き寄せて体勢を整えながら冷蔵庫に寄り掛かって、ぶっきらぼうに吐き捨てた。
「なんなんですか、あなた。どういうつもりなんです? オレをからかって楽しいんですか?」
 膝に押し当てられた奴の手が震えている。怒りか、それ以外の感情なのかどうかは、わからなかった。怒るのも当然だろう。俺も自分のやっていることがよくわからない。
 小さくうなずいた俺は、軽く唇を舐めて冷たい床に手を付くと、腰を上げながら奴に顔を近づけた。驚きに薄く開かれた唇をもう一度そっと塞いで、柔らかい下唇に軽く歯を立てる。
「――――」
 一瞬、何かの記憶が蘇ってきたが、強く目をつぶって追い払う――脳裏でざわつくものを心から閉めだして、部下である男の唇をついばみ、じっくりと味わった。舌先で薄い唇をこじ開け、ぬめる歯列をゆっくりと舐めて、今度は上唇を噛む。
 かすかに胸が震えた。
 だがそれは嫌悪感からではなく、キス以上のことを期待したバカな身体のせいだ。部屋が静まり返っているせいでかすかな水音さえやけに大きく響く。ガリッと冷たい床に爪を立てて、ゆっくりと身体を引き、離れた。
「一日遅れちまったけどさ、南野」
 濡れた唇を拭いながらその場に座り込んだ。火照っているのは顔だけじゃなく、なぜか左手首の内側も、熱い。右手でそこを強く握りしめた。
「お前、俺とヤりたいか?」
 怒りと困惑を取り混ぜていた顔がゆっくりと変わっていって、南野はあからさまに戸惑って、眉間を狭めながら俺の顔を何度も見直した。一度、ためらいがちに開いた口がぴたりと閉じる――その唇が濡れて光っていて、俺は思わず目を反らした。
 首筋が熱い。
「俺はお前とセックスするつもりで昨日、ここに来たんだよ。まぁ、お前がその気になれば、の話だけどな。……無理強いする気はねぇよ。当然だ」
 何かが胸に奥に詰まっている。
 それを吐き出せないまま、冷蔵庫の前に座り込んでいる南野を見つめた。
「寝てみるか、俺と」



 南野の顔はいつの間にか無表情になっていた。怒りで握りしめられていた手は薄く開いて、やはりまた、震えている。姿勢を変えないまま、何かを堪えるような目で俺を食い入るように凝視して、ゆっくりとうつむいた。
 長らく沈黙したかと思うと、奴は顔を上げ、侮蔑するような目で俺を睨み付けた。小さく鼻で笑う。
「いきなりなんですか? オレと寝たら何が変わるんです? 男とヤりたいなら新宿にでも行ってきたらどうですか。名前は忘れましたが、確か可愛い知り合いがいたでしょう」
「……ミノルは単なる友達だ。ストーカーにつけ回されていたのを助けて……って、おい、ミノルはどうでもいいだろ」前もこんな会話を交わしたような気がする。少し語気を荒げて南野を睨んだ。「どっちなんだよ。簡単なことだろ?」
 奴はわずかに身を逸らして白けた顔で俺を見返す。
 一度、大きく顎を引いた。
 平坦な声で答える。
「あなたにもう、興味はありません。そう言えば答えになりますか」
「――……」
「飽きたんです。あなたなんてどうでもいい」
「……それがお前の答えか」
「えぇ、そうです」
 俺は南野をじっと見つめた。
 ――間違いなく、こいつは嘘をついている。
 目の縁はうっすらと赤らんでいるし、手の震えは止まっておらず、指先が落ち着きなく膝を叩いていた。声だけは辛うじて冷静さを保っていたが、それ以上は何も言えずに喉を鳴らしている……だがそれが、お前の答えなんだな、南野。
 嘘でも、お前の答えだ。
 お前はきっと、お前の嘘だと言うことを俺が見抜いていることも、わかってる。
 わかった上でそう言ったってことは、それこそがお前の答えだって、……そういうことなんだな。
 ……そうか。
 そうなのか……。
 その答えも予想範囲内にあったが、考え得る限りの中で、もっとも最悪の答えだったかも知れない。だが俺はたとえ嘘だとわかっていたとしても、試されていたとしても、その言葉を額面通りに受け止めるしかなかった。
 南野の出した、答え、なんだ。
 俺が言うことなんて何もなかった。
「……わかった」
 呟いてもう一度、唇を拭った。
 冷たい床からゆっくりと立ち上がる。少し足が痺れていて、壁に手を付いた。
「風呂、ありがとな。帰るわ」
 急に現実感が失われて、身体が宙に浮いているような気がした。だが手は勝手に動いて肩に引っかけていたタオルを降ろし、南野が掛けてくれていたハンガーから自分の背広を外す。素早く着替えてシャツの上から上着を羽織った。
 ポケットを押さえる。
 ループタイが入っていることを確かめて、背広のボタンを留めた。
「……山崎さん?」
 我に返ったように、南野が呼ぶ。
 俺は荷物を取りまとめて借り物をソファの背に引っかけた。
「これ、返すな。謹慎の期間についてはあとで所長から連絡があるだろう。それと南野」
 振り返ると、奴は冷蔵庫に手を付きながら立ち上がるところだった。
 少し首をかしげた南野はひどく心細そうな顔で俺を見ている。今から捨てられることを知っている子犬みたいだ。……胸が震えたが、唾を飲んで抑える。自分でも驚くほど落ち着き払った声で付け加えていた。
「神谷橋のことは俺と所長でどうにかするから、お前は何もするなよ。何もなけりゃすぐに片が付くだろう。頼むから勝手なことはするな」
「――――」
 一歩、こちらに近寄ってきた南野は唇を噛んでうつむいていたが、俺は無視して玄関に向かった。妙に足取りが軽い気がする。床を蹴るタンタンという音が大きく響いた。靴を履いて鍵を開け、ドアを押し開く。
「じゃぁな」
 すぐに電話を掛けて、所長に話し合いは終わったと言おう。南野との仲は修復できなかったが、どんな形であれ、一つの結論が出たんだ。しばらくは互いにぎこちないかも知れない。でも結論が出た以上、俺は主任として、南野を補佐としてやっていくしかない……。
 いずれ時間が変えてくれる。
 俺はそれを、経験で知っていた。
 どんな傷も悲しみも時間の前では容赦なく変わっていくものだ……。

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