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揺れ動くこころ
何も起こらない夜
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最初は、ファミレスに行くつもりだった。
「この時間なら、まだ開いてるだろう」
幸雄がそう言ったとき、傅は一瞬だけ考えた。
ガラス張りの店内、明るすぎる照明、隣の席の会話。
それらを想像して、首を振る。
「……家が、いいです」
自分でも意外なほど、はっきりした声だった。
幸雄は少しだけ驚いた顔をして、それから頷いた。
「そうか」
それ以上、理由は聞かなかった。
車で向かった先は、都心の高層マンションだった。
エントランスを抜け、エレベーターに乗る。
階数表示が上がるたび、傅は黙って数字を追った。
――ああ、この人は。
部屋に入った瞬間、再認識する。
広い。
生活感はあるが、整えられてはいない。
脱ぎ捨てられたジャケット、積み上がった本、
机の上には書類の束とペン。
どこか“人を迎える前提”のない部屋だった。
「汚くて、ごめんね」
幸雄は苦笑する。
傅は首を振った。
「いいです。……ここ、落ち着く」
本心だった。
静かで、余白が多い。
誰かの期待が染みついていない場所。
傅は、机の前に置かれた椅子に腰を下ろす。
視線の先に、無造作に置かれた書類があった。
印刷された文字が、目に入る。
――鷹宮出版。
「あ」
思わず、声が漏れた。
幸雄が振り返る。
「見えちゃった?」
傅は、少しだけ躊躇ってから、口を開いた。
「……あの」
一拍、呼吸を置く。
「鷹宮……さんは」
初めて、名前を呼んだ。
呼び慣れていない響きが、口の中に残る。
「鷹宮出版の、人なんですか」
幸雄の表情が、ほんの一瞬だけ曇る。
嫌そうな顔。
だが、それを隠すように、すぐに微笑んだ。
「うん、そうだよ」
短く、それだけ。
傅は、それ以上踏み込まなかった。
代わりに、胸の奥で何かが引っかかる。
――ああ、そうか。
だから、この部屋には本が多い。
だから、あの落ち着いた話し方。
不意に、記憶がよみがえる。
実家にいた頃。
期待と息苦しさに押し潰されそうだった日々。
唯一、逃げ場だったのが本だった。
その中で、一番好きだった一冊。
「あの……」
傅は、指先を握る。
「あの…出逢いって本……」
言葉を探しながら、続けた。
「……あれ、好きなんですよね」
幸雄が目を見開く。
「……よく知ってるね」
少し驚いた声。
「だいぶ前の本だろう」
「それ」
幸雄は、机に腰を預けて言った。
「僕が担当してた」
傅は、言葉を失う。
胸の奥で、点と点が繋がる感覚。
「あ……」
思わず、小さく息が漏れる。
「だから、か」
最初に会ったとき。
どこかで見たことがある気がした理由。
顔じゃない。
声でもない。
文章の向こう側にいた人。
「あの本の中で……」
傅は、ゆっくり言葉を選ぶ。
「……会ってたんですね」
幸雄は、少し照れたように笑った。
「そういう言い方をされると、不思議だな」
傅も、わずかに口元を緩める。
「……これはこれで、運命ですね」
冗談めかした言い方だったが、
胸の奥は、静かに温かかった。
金でも、身体でもないところで、
すでに触れていた何か。
部屋は相変わらず静かで、
時計の音だけが規則正しく響いている。
何も起こらない夜。
けれど傅は、確かに思った。
――ここに来て、よかった。
壁はまだある。
距離も、名前の呼び方も、曖昧なままだ。
それでも。
この人の人生の一部に、
自分がずっと前から存在していたことを知ってしまった夜は、
もう、元には戻れない。
「この時間なら、まだ開いてるだろう」
幸雄がそう言ったとき、傅は一瞬だけ考えた。
ガラス張りの店内、明るすぎる照明、隣の席の会話。
それらを想像して、首を振る。
「……家が、いいです」
自分でも意外なほど、はっきりした声だった。
幸雄は少しだけ驚いた顔をして、それから頷いた。
「そうか」
それ以上、理由は聞かなかった。
車で向かった先は、都心の高層マンションだった。
エントランスを抜け、エレベーターに乗る。
階数表示が上がるたび、傅は黙って数字を追った。
――ああ、この人は。
部屋に入った瞬間、再認識する。
広い。
生活感はあるが、整えられてはいない。
脱ぎ捨てられたジャケット、積み上がった本、
机の上には書類の束とペン。
どこか“人を迎える前提”のない部屋だった。
「汚くて、ごめんね」
幸雄は苦笑する。
傅は首を振った。
「いいです。……ここ、落ち着く」
本心だった。
静かで、余白が多い。
誰かの期待が染みついていない場所。
傅は、机の前に置かれた椅子に腰を下ろす。
視線の先に、無造作に置かれた書類があった。
印刷された文字が、目に入る。
――鷹宮出版。
「あ」
思わず、声が漏れた。
幸雄が振り返る。
「見えちゃった?」
傅は、少しだけ躊躇ってから、口を開いた。
「……あの」
一拍、呼吸を置く。
「鷹宮……さんは」
初めて、名前を呼んだ。
呼び慣れていない響きが、口の中に残る。
「鷹宮出版の、人なんですか」
幸雄の表情が、ほんの一瞬だけ曇る。
嫌そうな顔。
だが、それを隠すように、すぐに微笑んだ。
「うん、そうだよ」
短く、それだけ。
傅は、それ以上踏み込まなかった。
代わりに、胸の奥で何かが引っかかる。
――ああ、そうか。
だから、この部屋には本が多い。
だから、あの落ち着いた話し方。
不意に、記憶がよみがえる。
実家にいた頃。
期待と息苦しさに押し潰されそうだった日々。
唯一、逃げ場だったのが本だった。
その中で、一番好きだった一冊。
「あの……」
傅は、指先を握る。
「あの…出逢いって本……」
言葉を探しながら、続けた。
「……あれ、好きなんですよね」
幸雄が目を見開く。
「……よく知ってるね」
少し驚いた声。
「だいぶ前の本だろう」
「それ」
幸雄は、机に腰を預けて言った。
「僕が担当してた」
傅は、言葉を失う。
胸の奥で、点と点が繋がる感覚。
「あ……」
思わず、小さく息が漏れる。
「だから、か」
最初に会ったとき。
どこかで見たことがある気がした理由。
顔じゃない。
声でもない。
文章の向こう側にいた人。
「あの本の中で……」
傅は、ゆっくり言葉を選ぶ。
「……会ってたんですね」
幸雄は、少し照れたように笑った。
「そういう言い方をされると、不思議だな」
傅も、わずかに口元を緩める。
「……これはこれで、運命ですね」
冗談めかした言い方だったが、
胸の奥は、静かに温かかった。
金でも、身体でもないところで、
すでに触れていた何か。
部屋は相変わらず静かで、
時計の音だけが規則正しく響いている。
何も起こらない夜。
けれど傅は、確かに思った。
――ここに来て、よかった。
壁はまだある。
距離も、名前の呼び方も、曖昧なままだ。
それでも。
この人の人生の一部に、
自分がずっと前から存在していたことを知ってしまった夜は、
もう、元には戻れない。
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