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32 蝶の憧れは目の前に
しおりを挟むなんにしても――快く林檎を受け取ってもらえた俺は、更に。――隣に顔を向け…爪先でカンカン、と透明な水入れを叩いて示す。
それからユンファ殿にまた顔を向け、器から水を飲む動きを真似て、彼にこう示す。――この水も、どうぞお好きに飲まれてください、と。
「……、…」
するとユンファ殿は、優しい目をしてコクリと頷いた。
それに安心し、俺はすっと立ち上がる。――そうして俺は、彼に背を向けた。持ち場である、この部屋の出入り口に戻ろうとしたのだ。
しかし――グッと、背中側の裾を引かれる。
「…、……」
振り返れば――おおよその想像通り、ユンファ殿が俺の服の裾を掴んで、引いていた。
「……ぁ…貴方、様の、お名前……」
「…………」
ユンファ殿は、俺を不安げな瞳で見上げながら、緘口令を忘れたかのように、いや…――それを忘れていないからこそ、小さな声でそう、俺の名前を問うたらしい。
「…あ、あの…、あの、その……」――ユンファ殿は口の中でもごもごと、俺のことをどこか切ない眼差しでじっと見上げながら、…きっと、よほどご不安なのだろう。
「………、…」
しかし、緘口令が…名乗るにも言葉となる。
というか、俺とユンファ殿が初めて会ったとき、たしかジャスル様は、俺の名を出していたような気はするが――いや、まさかおまけ程度にくっついて来ていた護衛の名前など、覚えているはずもないか。
俺たちは今宵、言葉を交わしてはならない――しかし、とはいえども、だとは理解にも及ぶ。
そりゃあ名も知らぬ男と一晩過ごすなど、ユンファ殿がご不安になるのは、至極当然のことであろう。
いくら俺が、その人の護衛であったとしても、だ。
そして俺が、彼の夫となるジャスル様の護衛であり、まずその人のご側室であらせられるユンファ殿に――身分の差があればこそ――ご無体を働きそうもないにはしても。
そうであっても、俺のことを知らぬユンファ殿は、そうも考えられぬのだろう。…名も知らぬ、素知らぬ俺の居るこの部屋で眠り、いわば俺に、そのときの無防備な姿を晒さねばならぬユンファ殿が――名も知らぬ男の、俺の存在に警戒するのは、俺とて全くよく理解している。
しかし、まさか――主ジャスル様のご側室となる、この、俺よりいくらも身分の高いユンファ殿に無体を働こうだなどとは、万が一にも俺の頭にはないことだ。
いや、ジャスル様への忠義がどうこう以前に、俺はこのユンファ殿に惨い真似をして、清い彼を暴こうという気などまるで起こらぬ。――起こらぬというか、恋をしていないその人に対して、狼の俺がそうできるはずもない。
しかし――ユンファ殿は、おそらくはそのことを知らないのだろう。
「…ソ……様…お……で、………ますか…?」
「……?」
俺は今、ユンファ殿に何かを問われたらしいが…あまりにも吐息めいた声で聞き取れず。――いや。
とにかく、せめて名を名乗っておき、そして自らが狼族であることくらいは告げておかなければ、ユンファ殿はご不安で眠ることさえできぬだろう。
緘口令を敷かれてはいるが、こればかりは許していただきたい――と。
「――私の名は…、…」
いや、俺はこの方に見上げられるような者ではない。
俺は、またユンファ殿の足下に跪いて片膝を立て、その人を見上げる。
「…私は、ソンジュと申します。――今晩はジャスル様に、ユンファ殿を一晩お守りするよう命じられました、…私はジャスル様の側近、護衛の一人でございます。」
「…ぁ…ソンジュ…、ソンジュ、様…、あの……」
俺が名乗ると、嬉しそうな顔をして頷いたユンファ殿は、口の中で確かめるようにそう、俺の名を反芻し――何かおっしゃられたいようだが、…しかし。
「いえ、私は決してユンファ殿に、様と付けて呼ばれるような者ではございませぬ。…私は下男にも近しい身分の者でございますので、…どうぞお気兼ねなく、私のことはソンジュと。」
「……は、はい…そ、ソンジュ…、…わかりました…」
ユンファ殿は照れくさそうながらも柔らかく、その切れ長のまぶたを緩めて微笑を浮かべ、そっと頷いた。――その微笑みは、やはりとてもお綺麗だ…、いや。
「…はい。どうぞ、よろしくお願い申し上げまする。」
「…ぁ、はい、こちらこそ、…あの…、あの僕、あの……」
ユンファ殿は切ない眼差しのまま俺を見下ろし、何か、もごもごと俺に何かやはり、言いたいようだが。――しかし、それ以上の話をするべきではないと、俺は。
「申し訳ありませぬ。緘口令があればこそ、我ら、あまり悠長にお話しをするべきではないかと。…ただ、私のほうからユンファ殿に、お伝えしたいことがあと、もう一つだけございまして」
「……、はい…、何でしょうか……」
すると薄紫色の瞳を、寂しそうに曇らせたユンファ殿に心は痛むが、しかし致し方ないのだ。…この方のためでもある。――まあやはりご不安のなか、人と話せないのは寂しいのだろう。…だが、とにかく俺はユンファ殿のためにも、今この方とお話しなどするべきではない。
要件だけ伝えて――さっさと切り上げねば。
「ユンファ殿、どうぞご安心めされよ。私は、狼族という種族で……」
「狼族…?」
するとユンファ殿は、俺の言葉の最中に目を丸くした。
それから彼はやや顔を傾け、しげしげと俺の顔を覗き込んでくる。
「…ソンジュ、様は…あの狼族、なのですか…?」
「……、はい。さようでございますが……」
一瞬意外に思い、目を丸くした俺だが…先ほどあの、蝶と狼のお伽噺を読んでいたユンファ殿であればこそ、俺たち狼族のこともご存知であったのだろう。――それにしても、やはり人の良さそうなユンファ殿は、そうやすやすとは俺のことを呼び捨てにできなかったようだが。
すると…ユンファ殿は俺の肯定に、はぁ…と小さく息を呑むと、なぜかその薄紫色の瞳を明るくして、キラキラとさせながら俺を見下ろしてくるのだ。
「…そう…、貴方様は、あの狼であったか……」
ユンファ殿は、どこか羨望に近しい輝きをその目に宿したまま俺を見て、そうふわりと微笑んだ。
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