33 / 163
33 憧れとは、甘い胡蝶の夢なのか
しおりを挟むユンファ殿は俺を見下ろし、ふふ、と目を細めて、何かとても嬉しげに笑った。
「…ソンジュ様…実は僕には、大好きなお伽噺がありまして…――それは狼族と蝶族の、…あ、これです、実はこれなのですが、……」
「……ぁ、あぁ……」
と、ユンファ殿はいくらか興奮気味に、寝台に置いていたらしいその若草色の本――蝶と狼のお伽噺を片手に取り(もう片手は林檎を掴んだまま)、俺へとその本を差し出してきた。…俺はもちろん、それのことはよく知っているのだが…咄嗟、知っていますと断るのも何か水を差すようで、とりあえず、その一冊の薄い本を受け取った。
「…実は大好きなあまり、こっそりと盗むようにその本を持ってきてしまったのです、いやそんなことより、…ぁ、あの…その物語の中に、狼、狼族が出てきて……」
「………、…」
興奮気味に話しはじめたユンファ殿…――あぁ、もちろんそれはよく知っている。…それにしても彼、本当にこの本が大好きなのだろう。側面の頁が白いわりにかなり読み込んだらしく、表紙の、若草色した和紙がところどころ毛羽立って、狼の里にあったものよりもこれは、やや年季が入っているようにさえ見えるのだ。
「…それで僕、実はずっと憧れていたのです、…いつか…いつか狼族の方に会えたらな、と……」
「……、んん…なるほど……」
俺はまた、ユンファ殿に視線を転じた。
…彼は本当に、狼族と出会うことに憧れていたらしい。その淡い紫色の瞳を、キラキラと幼気なまでに輝かせ、俺のことを羨望の眼差しで見下ろしてくるのだ。――いやそれどころか、その白い頬をうっすらと桃色に染めてまで、…彼、ずいぶん興奮している。
「…まさか、ソンジュ様が狼だったなんて…ふふ、そんな……、…」
嬉しそうににこっとしたユンファ殿は、じわりとその目を熱く潤ませ――ふ、と目線を伏せると、この喜びを噛み締めているように、むしろ俺を見ないで「嬉しいな…」と幸せそうに呟いた。
そしてユンファ殿は、腿の上でまた赤い林檎を包み込むように持ち、それを見下ろしながら――どこか陶然とおもむろに、こう口ずさむ。
「――“蝶と狼、永恋の誓いにつがい合う”……」
そのお伽噺の一節をユンファ殿の、そのかろやかな声で聞いたとき――俺はハッとした。…これはよい機会だ、と。そして俺はやや笑いつつ、こうおもむろに続けたのだ。
「…“たくさん卵を生むけれど、蝶は長くは生きられぬ”……」
俺もまたそのお伽噺、実は知っております――いくらかしたりとした笑みになってしまったかもしれないが、…これによってそう示した俺に、はた、と俺の目を見てきたユンファ殿は、とても嬉しそうな目をしている。
そして彼は、その続きをまたそっと――俺の目をじっと、その透き通ったやさしげな、薄紫色の瞳で見つめながら。
「…“守っておくれ、僕らの可愛い卵たち”…、ふふ…」
そうゆったりとした速さで続け、柔らかく微笑んだユンファ殿は、よりにっこりと笑みを深めた。
「…狼族のほうにも、このお伽噺が…?」
「…ええ。五蝶にも、このお伽噺が伝わっておられたのですね…、いや、実は我が故郷…狼の里にも、この物語…お伽噺として残っているのです」
「…そう…、そうですか。このお伽噺が、蝶と狼、その両方に……」
ユンファ殿は何か、嬉しそうにニコニコしている。
…ジャスル様の前じゃ、あんな人形のように白んだ顔ばかりしていたというのに――いや、俺が同じお伽噺を知っているとわかり、親近感を覚えてらっしゃるだけだろう。
そして彼は、うっとりとその切れ長のまぶたを伏せ気味に、いやに可憐な表情をするのだ。
「……僕…このお話が、本当に大好きなんです。――ずっと憧れていて…何度も何度も読み返しました、そして…そのたびに変な、妄想を…してしまって……」
「………、…」
ユンファ殿は、膝の上に置いて包み持つ、真っ赤な林檎を愛おしそうな眼差しで見下ろしている。
「…誰か…あのお話の中に出てくるような、狼の、誰かが…あの小屋に訪れ、…僕なんかのことを、見初めてくださるんです……」
「……、…、…」
僕なんか…とは、何とも大変なことだ。
これほど、誰しもを魅了するようなほどに美しいユンファ殿が、なんかとは…――彼、ご自分の美しさを、しかと等身大に見られていないのだろうか。
ユンファ殿はやはり赤い林檎を、夢でも見ているかのようにうっとりとした目で見下ろして、その薄紫色の瞳を、小さく揺らしている。
「…てふてふ、僕のてふてふ…こっちへおいで、僕のそばにおいで…――もう出ておいでよ…、僕の腕の中へ、おいで…、その狼の方は、僕にそう言ってくださって……」
「…………」
どうしても、胸が切なくなってくる。
ユンファ殿はあまりにも、幸せそうな微笑みを浮かべている。…あまりにも幸せそうな、柔らかく静かな声で、そう語っているのだ。――しかし、そんな柔らかく甘い夢を見ていたというのなら、よほどきっと死にたくなるほどに辛くなる現実が、もう明日に差し迫っているというのに。
いや…もしかユンファ殿は、そうした甘い妄想をすることで、まるで今このときのように――あの、小さな籠の中に閉じ込められているという――辛い現実を、ひと時でも忘れて、それでやっと凌いでいたのかもしれない。
そして、ユンファ殿は目線を伏せたまま、うっとりとした顔をして…しかし、声はどんどんと小さくなり。
「…そうしてその狼の方は、僕を、あの小屋から連れ出してくださるんです…。その方は、何も恐れず僕の目を、見つめてくださいますし…、そっと…優しく、僕を抱き締めてくださる…、そして、僕の髪を撫でてくださったあと…、…その…、そのあとは、…つまり、…恋人同士の、…その……」
「……、……」
もごもごと…そこでぱっと頬を染めたユンファ殿は、そこまでで何か言いにくそうに口布の下、赤くふっくらとした唇を薄く開閉させて、はにかんでいるらしい。
しかしまあ、俺にも彼の「その…」の先が予想できなくはないのだが。
彼、やはりかなり初心なんだろう…――人がこれほど言いにくそうになることなど一つしかない、…ユンファ殿は、恋人同士のつがいあい、つまりきっと、夜の秘め事のことを言いたいのである。
そしてユンファ殿は――恥ずかしそうに美しい眉の根をやや寄せては、きゅっと目を瞑り、その白いお顔をカーッとうす赤くして。
「――っせ、接吻を、…してくださるんです、僕に……」
「…ぁ、せっ…、あぁ、…なるほど……」
せ、接吻…?
いや、てっきり俺は、――驚いたな。
どこまで初心だ、このユンファ殿――正直、下手な乙女よりも初心ではないか。
0
あなたにおすすめの小説
鎖に繋がれた騎士は、敵国で皇帝の愛に囚われる
結衣可
BL
戦場で捕らえられた若き騎士エリアスは、牢に繋がれながらも誇りを折らず、帝国の皇帝オルフェンの瞳を惹きつける。
冷酷と畏怖で人を遠ざけてきた皇帝は、彼を望み、夜ごと逢瀬を重ねていく。
憎しみと抗いのはずが、いつしか芽生える心の揺らぎ。
誇り高き騎士が囚われたのは、冷徹な皇帝の愛。
鎖に繋がれた誇りと、独占欲に満ちた溺愛の行方は――。
オッサン課長のくせに、無自覚に色気がありすぎる~ヨレヨレ上司とエリート部下、恋は仕事の延長ですか?
中岡 始
BL
「新しい営業課長は、超敏腕らしい」
そんな噂を聞いて、期待していた橘陽翔(28)。
しかし、本社に異動してきた榊圭吾(42)は――
ヨレヨレのスーツ、だるそうな関西弁、ネクタイはゆるゆる。
(……いやいや、これがウワサの敏腕課長⁉ 絶対ハズレ上司だろ)
ところが、初めての商談でその評価は一変する。
榊は巧みな話術と冷静な判断で、取引先をあっさり落としにかかる。
(仕事できる……! でも、普段がズボラすぎるんだよな)
ネクタイを締め直したり、書類のコーヒー染みを指摘したり――
なぜか陽翔は、榊の世話を焼くようになっていく。
そして気づく。
「この人、仕事中はめちゃくちゃデキるのに……なんでこんなに色気ダダ漏れなんだ?」
煙草をくゆらせる仕草。
ネクタイを緩める無防備な姿。
そのたびに、陽翔の理性は削られていく。
「俺、もう待てないんで……」
ついに陽翔は榊を追い詰めるが――
「……お前、ほんまに俺のこと好きなんか?」
攻めるエリート部下 × 無自覚な色気ダダ漏れのオッサン上司。
じわじわ迫る恋の攻防戦、始まります。
【最新話:主任補佐のくせに、年下部下に見透かされている(気がする)ー関西弁とミルクティーと、春のすこし前に恋が始まった話】
主任補佐として、ちゃんとせなあかん──
そう思っていたのに、君はなぜか、俺の“弱いとこ”ばっかり見抜いてくる。
春のすこし手前、まだ肌寒い季節。
新卒配属された年下部下・瀬戸 悠貴は、無表情で口数も少ないけれど、妙に人の感情に鋭い。
風邪気味で声がかすれた朝、佐倉 奏太は、彼にそっと差し出された「ミルクティー」に言葉を失う。
何も言わないのに、なぜか伝わってしまう。
拒むでも、求めるでもなく、ただそばにいようとするその距離感に──佐倉の心は少しずつ、ほどけていく。
年上なのに、守られるみたいで、悔しいけどうれしい。
これはまだ、恋になる“少し前”の物語。
関西弁とミルクティーに包まれた、ふたりだけの静かな始まり。
(5月14日より連載開始)
従僕に溺愛されて逃げられない
大の字だい
BL
〈従僕攻め×強気受け〉のラブコメ主従BL!
俺様気質で傲慢、まるで王様のような大学生・煌。
その傍らには、当然のようにリンがいる。
荷物を持ち、帰り道を誘導し、誰より自然に世話を焼く姿は、周囲から「犬みたい」と呼ばれるほど。
高校卒業間近に受けた突然の告白を、煌は「犬として立派になれば考える」とはぐらかした。
けれど大学に進学しても、リンは変わらず隣にいる。
当たり前の存在だったはずなのに、最近どうも心臓がおかしい。
居なくなると落ち着かない自分が、どうしても許せない。
さらに現れた上級生の熱烈なアプローチに、リンの嫉妬は抑えきれず――。
主従なのか、恋人なのか。
境界を越えたその先で、煌は思い知らされる。
従僕の溺愛からは、絶対に逃げられない。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる